34 / 40
七
法螺を吹く
しおりを挟む
氷垂は忍者ではない。
生まれも育ちも武家である。
かつて真田の頭領であった亡き真田左衛門尉信綱の遺児であり、今の真田の頭領である真田安房守昌幸の姪であり、やがて真田の頭領となるであろう真田源三郎信幸の妻だ。
他の武家の娘と違うのは、真田の産土神である白山権現の巫女の役目も担っているというところだ。巫女の役目柄、彼女は様々な知識を持ち、諸々の技能を有している。そして誰よりも健脚であることが自慢である。
氷垂はそういう特技があるだけの、若殿様のご正室様だ。
武家のご正室様の本来の仕事というのは、館の中を取り仕切り、夫を支え、子を産み、育てることである。実家と婚家の橋渡し役、その結びつきを強める鎹、あるいは一種の人質の役割もあった。
だから本来は夫の居館にいなければならない。
氷垂は違った。違うことを源三郎に許されている。いや、違って欲しいと願われている。
氷垂だとて夫の源三郎が城や館にいるならば、城や館にいる。
源三郎が外出するときに「付いて来てくれ」と言ったなら、氷垂は彼に付いて行く。
源三郎に「行って来てくれ」と言われれば、氷垂は行って、彼の元へ帰ってくる。
源三郎が戦場にいれば、氷垂も戦場にいる。
『若様の武運長久をご祈願するのが、巫女としてのあたくしの役目ですからね』
そう理屈を付けて、彼女はできるだけ夫の傍らにいようとする。
源三郎の「武運長久」の為に役立つならば、自ら山を、里を、戦場を走り回る。
巫や僧侶や修験者というような「聖なる存在」は、衆生が勝手に定めた境界線を無視して歩く。
人々が取り決めた国と国との境、家と家との境、身分の上下の境、男と女の境、敵と身方の境、常識と非常識の境を、彼らは易々と超越する。
彼らの本来の仕事は、衆生を救い、善男善女を結びつけ、人と人との間に良き関係を構築することだ。この使命のために必要であるならば、人々の噂を集めるし、諸人に噂を広めもする。
氷垂は巫女である故に「武家の奥方様」という身分を持ちながら、人が境と呼ぶものをひょいと飛び越えて、思うままに動動き回ることができた。
巫女として動き回る氷垂は、時として忍者のように働くことを厭わなかった。また厭わずに働くが為に忍者たちの動きを常に把握している。
これによって彼女が得た情報が、源三郎の行動を決める材料となる。
だから源三郎は、氷垂が当然把握しているであろう「子檀岳辺りを探っている身方の忍者」の動きを彼女に尋ねたのだ。
「五助の爺様でございますよ」
「ああ、あの山がつの……」
源三郎の脳裏に一人の老爺の顔が浮かんだ。
深い皺が刻まれた顔、皮膚の肌理の奥まで土が染み込んだような手足、貧しい農夫か杣人のような出で立ちがよく似合う、つまりはそのような人々の間になじみ込んで情報を集め、情報を運ぶことを得意とする、優秀な忍者だ。
「今の爺様は、髷を落として山伏の格好をしていますよ」
「なるほど、山伏か。なるほどあの辺りの山々ならば、山がつのふりよりも修験者の姿の方が馴染みがよかろうよ」
源三郎は氷垂の声のする方へ顔を向けた。
「走りやすい」という理由で常日頃から――たとえ城・屋敷の中であっても――農婦の形をしている氷垂は、今日も地味目の色合いの小袖に短裳袴をつけて、頭は桂包にしている。
普段と違うところがあるとすれば、抱えている法螺貝だ。
「ごめんくださりましょう」
ぺこりと一礼すると、氷垂は頭を巻包んでいる長い布の、両耳の上の際を引き下げて、耳をすっぽり覆った。
『何を始めるつもりか』
源三郎は氷垂の挙動をぼんやりと眺めた。
息を大きく吸い込む音がして、彼女の胸元が大きく膨らんだ。
生まれも育ちも武家である。
かつて真田の頭領であった亡き真田左衛門尉信綱の遺児であり、今の真田の頭領である真田安房守昌幸の姪であり、やがて真田の頭領となるであろう真田源三郎信幸の妻だ。
他の武家の娘と違うのは、真田の産土神である白山権現の巫女の役目も担っているというところだ。巫女の役目柄、彼女は様々な知識を持ち、諸々の技能を有している。そして誰よりも健脚であることが自慢である。
氷垂はそういう特技があるだけの、若殿様のご正室様だ。
武家のご正室様の本来の仕事というのは、館の中を取り仕切り、夫を支え、子を産み、育てることである。実家と婚家の橋渡し役、その結びつきを強める鎹、あるいは一種の人質の役割もあった。
だから本来は夫の居館にいなければならない。
氷垂は違った。違うことを源三郎に許されている。いや、違って欲しいと願われている。
氷垂だとて夫の源三郎が城や館にいるならば、城や館にいる。
源三郎が外出するときに「付いて来てくれ」と言ったなら、氷垂は彼に付いて行く。
源三郎に「行って来てくれ」と言われれば、氷垂は行って、彼の元へ帰ってくる。
源三郎が戦場にいれば、氷垂も戦場にいる。
『若様の武運長久をご祈願するのが、巫女としてのあたくしの役目ですからね』
そう理屈を付けて、彼女はできるだけ夫の傍らにいようとする。
源三郎の「武運長久」の為に役立つならば、自ら山を、里を、戦場を走り回る。
巫や僧侶や修験者というような「聖なる存在」は、衆生が勝手に定めた境界線を無視して歩く。
人々が取り決めた国と国との境、家と家との境、身分の上下の境、男と女の境、敵と身方の境、常識と非常識の境を、彼らは易々と超越する。
彼らの本来の仕事は、衆生を救い、善男善女を結びつけ、人と人との間に良き関係を構築することだ。この使命のために必要であるならば、人々の噂を集めるし、諸人に噂を広めもする。
氷垂は巫女である故に「武家の奥方様」という身分を持ちながら、人が境と呼ぶものをひょいと飛び越えて、思うままに動動き回ることができた。
巫女として動き回る氷垂は、時として忍者のように働くことを厭わなかった。また厭わずに働くが為に忍者たちの動きを常に把握している。
これによって彼女が得た情報が、源三郎の行動を決める材料となる。
だから源三郎は、氷垂が当然把握しているであろう「子檀岳辺りを探っている身方の忍者」の動きを彼女に尋ねたのだ。
「五助の爺様でございますよ」
「ああ、あの山がつの……」
源三郎の脳裏に一人の老爺の顔が浮かんだ。
深い皺が刻まれた顔、皮膚の肌理の奥まで土が染み込んだような手足、貧しい農夫か杣人のような出で立ちがよく似合う、つまりはそのような人々の間になじみ込んで情報を集め、情報を運ぶことを得意とする、優秀な忍者だ。
「今の爺様は、髷を落として山伏の格好をしていますよ」
「なるほど、山伏か。なるほどあの辺りの山々ならば、山がつのふりよりも修験者の姿の方が馴染みがよかろうよ」
源三郎は氷垂の声のする方へ顔を向けた。
「走りやすい」という理由で常日頃から――たとえ城・屋敷の中であっても――農婦の形をしている氷垂は、今日も地味目の色合いの小袖に短裳袴をつけて、頭は桂包にしている。
普段と違うところがあるとすれば、抱えている法螺貝だ。
「ごめんくださりましょう」
ぺこりと一礼すると、氷垂は頭を巻包んでいる長い布の、両耳の上の際を引き下げて、耳をすっぽり覆った。
『何を始めるつもりか』
源三郎は氷垂の挙動をぼんやりと眺めた。
息を大きく吸い込む音がして、彼女の胸元が大きく膨らんだ。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
龍蝨―りゅうのしらみ―
神光寺かをり
歴史・時代
年の暮れも押し迫ってきたその日、
甲州・躑躅ヶ崎館内の真田源五郎の元に、
二つの知らせが届けられた。
一つは「親しい友」との別れ。
もう一つは、新しい命の誕生。
『せめて来年の間は、何事も起きなければ良いな』
微笑む源五郎は、年が明ければは十八歳となる。
これは、ツンデレな兵部と、わがままな源太郎とに振り回される、源五郎の話――。
※この作品は「作者個人サイト【お姫様倶楽部Petit】」「pixiv」「カクヨム」「小説家になろう」でも公開しています。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる