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認められない、認めたくない

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 四郎兵衛の頭の中が真っ白になった。
 心を寄せていた支柱が突然消えてしまったのだから無理もない。
 オロオロと周囲を見回した。
 昨晩、見張りに立たせた二人の男が、城の出入り口あたりに座り込んで、いびきをかいている。

 その二人の間にあるむしろがうごめいて、城の中から男が一人い出てきた。

「次郎太!」

 四郎兵衛は紙切れを握り締めたまま、その男の名を叫んだ。

「和尚が居らぬ、和尚が居らぬ!」

 歩くこともままならず、どうにかって来た次郎太は、四郎兵衛の足に捕まり、痩せて汚れた彼の身体を杖か手すりのようにして、ようよう立ち上がった。
 寝ぼけた次郎太の目玉の前に、四郎兵衛は紙切れを突き出した。
 たった六文字を、次郎太は何度もくり返し、目で追った。

 四郎兵衛は呆然と彼方を眺めた。北の方である。上田城のあるあたりは、かすみのような雲のような、もやのようなものに包まれていて、よく見えない。

「坊主め、逃げたのか」

 次郎太の口から、四郎兵衛にとって聞きたくな言葉が、否定したい答えが、こぼれて出た。
 四郎兵衛は力無くへたり込んだ。
 彼にすがって立っていた次郎太も、同様に座り込む形になる。

「何から逃げたと言うんだ? 何で逃げる必要があると言うんだ? え? えぇ?」

 四郎兵衛の目が泳いでいる。
 次郎太は妙に落ち着いた口ぶりで、

「真田か、徳川か、どっちか知らんが……。どっちにしろ、近々このあたりへ攻めてくるかも知れねぇ奴らから、逃げたんだろうよ」

「なんで? どうやって?」

ゆンべのあの丸薬に、眠り薬でも入れてあったんだろうよ。俺達を眠らせておいて、自分だけ逃げたんだ」

「だから、なンで逃げる必要がある!? 俺達は徳川様に身方してるんだぞ。だからここには誰も攻めては来ない。俺達が攻められるはずがない!」

「その徳川様が負けたンならどうだ。徳川様に身方するとってた俺達は、から見たなら敵だぞ」

「勝った方……だと? 勝った方ってのは、どういう意味だ? え? どういう意味だ!?」

 次郎太は答えない。

『声にして言う必要はない。お前にだって判っていることだ』

 と語る目で、四郎兵衛を見ている。

 真田と徳川の戦いで徳川が負けたなら、誰が勝者であるのか――そんなことは四郎兵衛にも判っている。頭の中では、心の隅では、そのことを理解している。
 だが認めたくない。
 自分の予想が、行ったことが、間違っていたことなど、簡単に認められようか。
 自分はただ「機会に恵まれなかった」だけで、後塵を拝しているに過ぎないと信じた相手に、自分と大差ない、むしろ自分たちの方が上と思うことで自我を保っていたその相手に、自分が負けたのだと言うことを、易々と受け入れられようか。

 いや、杉原四郎兵衛は敗者ですらないのだ。
 彼は誰とも戦っていない。
 真田とぶつからないように逃げ回って、徳川に攻め込まれないように振る舞って、両軍が来ないだろう山の上に隠れただけだ。

 戦わぬ者は、勝者にも敗者にもなれない。
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