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六
よく効く薬
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もうじき長月になるというのに、妙に蒸し暑い。
杉原四郎兵衛は蒸し暑さで目を覚ました。
太陽はすでに大分高い所まで昇っている。
『なんだ、今日は悟円和尚が法螺貝を吹かなかったのか? それとも俺がぐっすり寝ぇっちまっていて、聞こえなかっただけかや?』
千曲川の向こう側で「ボヤ騒」ぎが起きて以降、四郎兵衛は眠れぬ日々を過ごしていた。
四郎兵衛の算段では、
『勝った徳川の軍勢は、速やかに真田の抑えていた土地を回って、残党狩りと身方探しをする』
ことになっていた。
徳川の身方探しの人々に自分たちを見付けてもらわねば、四郎兵衛の苦労は意味をなくす。
だが、来ない。いくら待っても徳川からの使者が来ない。
ならば、真田が勝ったというのか。
万が一にも真田が勝ったとしたら、大々的に――四郎兵衛としてはという意味だが――「徳川に着く」と宣言した自分たちを放って置くはずがない。
四郎兵衛の考えでは、
『真田は敵方に付いた者たちを徹底的に探して、捕まえて、殺す』
に違いが無かった。
だが、来ない。上田城の方角に煙を見た日から、毎日物陰に隠れて眼下の平地を見張っているが、真田の捜索隊は影一つ見えない。
来るはずのものが来ない不安と、来るかも知れない事態への恐怖。
そのことを考え、思い、悩むうちに、四郎兵衛は眠れなくなった。
かれこれ半月ほどは、まともに寝ていない。
しかし昨晩は久しぶりによく眠れた。
昨日の夕方の、夕餉の薄い粥が煮え上がるまで、まだ少しばかり時間が掛かりそうな頃のことだ。
やつれて頬がこけて目が落ちくぼんだ四郎兵衛を見かねた悟円坊が、
「殿様は心身共にお疲れでござろう故に、疲れの取れるものを……」
黒に近い茶色の、大きさが鶉の卵ほどある丸薬らしき物体を、縁の欠けた土器に乗せて四郎兵衛の前に出した。
「この山中にて山茱萸と山蒜を見付け申した。
本来、薬用とするためには天日に当てて乾かし、煎じて飲むべきところでありますが、そのいとまはございませなんだ。
そこで、生のまま潰し、味噌に混ぜ、食しやすい形に致し申しました」
くたびれた筵張りの城中の、すり切れた筵の敷物の上で、四郎兵衛は土器ごとそれを持ち上げ、まじまじと見た。嗅ぐと、味噌の香りと薬臭い臭いに混じって韮菜に似た匂いがする。
「一つしか、ないのか?」
「効き目が強うございますれば、一度に食べるのはそれくらいにしておきませぬと、かえって心の臓に悪うございます」
「そうじゃねえ。これ一つばかりを俺一人が喰って、それで俺一人ばかりの身体が良くなっても、どうしようもないでねえか。
なあ和尚……。ここにいる連中は、全部、全員、皆、一人残らず疲れているんだ」
悟円坊は少々驚いたような、感心したような、困ったような顔をした。
「いやはや、殿におかれましては、御家中の皆々のことまでお案じになっておられままするか。それに気が付かぬ拙僧は、まだ修業が足りませぬ」
城内には四郎兵衛と悟円坊とを入れて、十人ほどの人数がいる。
それは詰まるところ、僅か一ヶ月弱の期間で、最初に山に入った人数のうちの半分が
「逃げた」
ということだ。
杉原四郎兵衛は蒸し暑さで目を覚ました。
太陽はすでに大分高い所まで昇っている。
『なんだ、今日は悟円和尚が法螺貝を吹かなかったのか? それとも俺がぐっすり寝ぇっちまっていて、聞こえなかっただけかや?』
千曲川の向こう側で「ボヤ騒」ぎが起きて以降、四郎兵衛は眠れぬ日々を過ごしていた。
四郎兵衛の算段では、
『勝った徳川の軍勢は、速やかに真田の抑えていた土地を回って、残党狩りと身方探しをする』
ことになっていた。
徳川の身方探しの人々に自分たちを見付けてもらわねば、四郎兵衛の苦労は意味をなくす。
だが、来ない。いくら待っても徳川からの使者が来ない。
ならば、真田が勝ったというのか。
万が一にも真田が勝ったとしたら、大々的に――四郎兵衛としてはという意味だが――「徳川に着く」と宣言した自分たちを放って置くはずがない。
四郎兵衛の考えでは、
『真田は敵方に付いた者たちを徹底的に探して、捕まえて、殺す』
に違いが無かった。
だが、来ない。上田城の方角に煙を見た日から、毎日物陰に隠れて眼下の平地を見張っているが、真田の捜索隊は影一つ見えない。
来るはずのものが来ない不安と、来るかも知れない事態への恐怖。
そのことを考え、思い、悩むうちに、四郎兵衛は眠れなくなった。
かれこれ半月ほどは、まともに寝ていない。
しかし昨晩は久しぶりによく眠れた。
昨日の夕方の、夕餉の薄い粥が煮え上がるまで、まだ少しばかり時間が掛かりそうな頃のことだ。
やつれて頬がこけて目が落ちくぼんだ四郎兵衛を見かねた悟円坊が、
「殿様は心身共にお疲れでござろう故に、疲れの取れるものを……」
黒に近い茶色の、大きさが鶉の卵ほどある丸薬らしき物体を、縁の欠けた土器に乗せて四郎兵衛の前に出した。
「この山中にて山茱萸と山蒜を見付け申した。
本来、薬用とするためには天日に当てて乾かし、煎じて飲むべきところでありますが、そのいとまはございませなんだ。
そこで、生のまま潰し、味噌に混ぜ、食しやすい形に致し申しました」
くたびれた筵張りの城中の、すり切れた筵の敷物の上で、四郎兵衛は土器ごとそれを持ち上げ、まじまじと見た。嗅ぐと、味噌の香りと薬臭い臭いに混じって韮菜に似た匂いがする。
「一つしか、ないのか?」
「効き目が強うございますれば、一度に食べるのはそれくらいにしておきませぬと、かえって心の臓に悪うございます」
「そうじゃねえ。これ一つばかりを俺一人が喰って、それで俺一人ばかりの身体が良くなっても、どうしようもないでねえか。
なあ和尚……。ここにいる連中は、全部、全員、皆、一人残らず疲れているんだ」
悟円坊は少々驚いたような、感心したような、困ったような顔をした。
「いやはや、殿におかれましては、御家中の皆々のことまでお案じになっておられままするか。それに気が付かぬ拙僧は、まだ修業が足りませぬ」
城内には四郎兵衛と悟円坊とを入れて、十人ほどの人数がいる。
それは詰まるところ、僅か一ヶ月弱の期間で、最初に山に入った人数のうちの半分が
「逃げた」
ということだ。
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