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一
染谷台にて
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染谷の台地に立つと、上田の盆地が隅々まで見渡せる。
盆地を東西に貫く千曲川。南北の山から流れ出でて合流する幾筋もの支流。
山裾を縫い、あるいは、川筋に沿って走る街道。西岸に広がる農地、東岸に作り上げられつつある新しい村と町。
そして半里あまり先に建てられた新しい城。
真田源三郎信幸は、赤糸縅の胴丸鎧に頭には鉢金だけという足軽のような軽装で、染谷台地の少しばかり平らに開けた染ヶ馬場と呼ばれる場所に立っている。
ただ、手の中にある持槍は立派なもので、貧相な装備と見合わない。
「上杉様からの援軍が葛尾のお城に入りましたよ」
その声は源三郎の足下から聞こえた。鈴が転がるような少女の声だ。
源三郎は声の出所を見なかった。むしろ視線をわずかに上げた。凝らした目の先には、西に三里ほど離れた虚空蔵山がある。峰と山腹の濃い緑の中に白い流れ旗が幾筋かたなびいている。
「ああ、見えた」
源三郎は薄く笑った。足下の声が心配げな色を帯びて、
「でも、越後から来たのはお年寄りと子供ばっかりですよ。上杉様も存外超意地悪な方です。
それと、矢沢の若さんも」
「三十郎か?」
『あれは若と呼んでよいような年齢ではないが』と言いかけて、源三郎は言葉を飲み込んだ。
矢沢三十郎頼康は、源三郎の父方の祖父の弟の子、父の従兄弟だった。源三郎からみた続柄は叔従父ということになる。
しかし矢沢家の家長は彼ではない。彼の父親の頼綱が、もうそろそろ古稀の祝いの準備をせねばならないというのに、矍鑠として上州沼田の城代を務めている。
そういうわけであるから、真田家第一の家老の倅である三十郎は、主君であり従兄弟である真田昌幸よりも年上で、このとき四十に手が届くか届かないかといった年齢だというのに、人々から「矢沢の若君」呼ばわりにされる。
「ええ。上杉から来た人の内の若い方の人ばかり選って、矢沢の庄のお城に行ってしまったんですよ。あんなことをして……よろしいんでしょうかね?」
不満げな声だった。源三郎は虚空蔵山を見たまま、
「良い。いずれ父上からの指示があってのことだ。
そもそもこの度の戦で、虚空蔵山あたりまで戦場になることはない。だから人数は……まあ多ければ多いに越したことはないが……少なくてもかまわない。あそこに上杉様の旗が立っていることが大切なのだ」
「つまり敵方様に、越後の上杉様とかいう殿様がこちらの身方に付いていることが見えたなら、それでよろしい、と?」
「そういうことだ」
「まあ、若様がそれでよろしいのなら、あたしも良うござんすが……。
それにしてもお殿様ときたら、弁丸様のことは新しいお城の中に入れて、若様のことはこんな所に放り出して……」
「こんな所とは?」
源三郎は膝を曲げ、背を丸めてしゃがみ込んだ。同じようにしゃがんでいる農婦のような格好の少女の顔をのぞき込む。
盆地を東西に貫く千曲川。南北の山から流れ出でて合流する幾筋もの支流。
山裾を縫い、あるいは、川筋に沿って走る街道。西岸に広がる農地、東岸に作り上げられつつある新しい村と町。
そして半里あまり先に建てられた新しい城。
真田源三郎信幸は、赤糸縅の胴丸鎧に頭には鉢金だけという足軽のような軽装で、染谷台地の少しばかり平らに開けた染ヶ馬場と呼ばれる場所に立っている。
ただ、手の中にある持槍は立派なもので、貧相な装備と見合わない。
「上杉様からの援軍が葛尾のお城に入りましたよ」
その声は源三郎の足下から聞こえた。鈴が転がるような少女の声だ。
源三郎は声の出所を見なかった。むしろ視線をわずかに上げた。凝らした目の先には、西に三里ほど離れた虚空蔵山がある。峰と山腹の濃い緑の中に白い流れ旗が幾筋かたなびいている。
「ああ、見えた」
源三郎は薄く笑った。足下の声が心配げな色を帯びて、
「でも、越後から来たのはお年寄りと子供ばっかりですよ。上杉様も存外超意地悪な方です。
それと、矢沢の若さんも」
「三十郎か?」
『あれは若と呼んでよいような年齢ではないが』と言いかけて、源三郎は言葉を飲み込んだ。
矢沢三十郎頼康は、源三郎の父方の祖父の弟の子、父の従兄弟だった。源三郎からみた続柄は叔従父ということになる。
しかし矢沢家の家長は彼ではない。彼の父親の頼綱が、もうそろそろ古稀の祝いの準備をせねばならないというのに、矍鑠として上州沼田の城代を務めている。
そういうわけであるから、真田家第一の家老の倅である三十郎は、主君であり従兄弟である真田昌幸よりも年上で、このとき四十に手が届くか届かないかといった年齢だというのに、人々から「矢沢の若君」呼ばわりにされる。
「ええ。上杉から来た人の内の若い方の人ばかり選って、矢沢の庄のお城に行ってしまったんですよ。あんなことをして……よろしいんでしょうかね?」
不満げな声だった。源三郎は虚空蔵山を見たまま、
「良い。いずれ父上からの指示があってのことだ。
そもそもこの度の戦で、虚空蔵山あたりまで戦場になることはない。だから人数は……まあ多ければ多いに越したことはないが……少なくてもかまわない。あそこに上杉様の旗が立っていることが大切なのだ」
「つまり敵方様に、越後の上杉様とかいう殿様がこちらの身方に付いていることが見えたなら、それでよろしい、と?」
「そういうことだ」
「まあ、若様がそれでよろしいのなら、あたしも良うござんすが……。
それにしてもお殿様ときたら、弁丸様のことは新しいお城の中に入れて、若様のことはこんな所に放り出して……」
「こんな所とは?」
源三郎は膝を曲げ、背を丸めてしゃがみ込んだ。同じようにしゃがんでいる農婦のような格好の少女の顔をのぞき込む。
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