Eliot

聖 みいけ

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「エリィ!」

 機嫌よく前を歩いていた子供が唐突に振り返る。手にはお気に入りの童話の本を持って、小さな体をじれったそうに前後に揺らしている。

 エリオットはため息をついて、歩く速度を少し早めた。

 子供の白銀の髪が曇り空の下で鈍く光る。濃い色のついたレンズの眼鏡が、無邪気なかんばせを遮るように目元を覆っている。それは、わずかな視力しか持たない目を保護するためのものだった。

 そんな風に守っていても、残ったかすかな光も大人になる頃には失われてしまう。

 この子供が外出を許されるのは、陽の光が弱い曇りの日だけ。それでも長くはいられない。子供はそのわずかな時間を、目一杯に楽しもうとしているようだった。

 少し駆けては立ち止まり、何かを見つけてしゃがみこみ、手で探り。そうしてエリオットのいる方を振り返ってはにっこりと笑う。子供の顔は、いつも弱視を感じさせないほど正確にエリオットの方を向いていた。

「エリィ! 早く!」

 言われるまでもなくすぐに追い付いたエリオットは、子供に合わせて芝生に膝をつくと小さな手を取って側にいることを知らせた。

「ねえ、エリィ」
「ご主人様、私の名は『エリオット』です」
「じゃあいい加減、ご主人様じゃなくてマリオンと呼んで。エリィ」

 マリオンは遊び相手にいたずらっぽく微笑み、エリオットは子供の意趣返しにもう一つため息をつく。

 エリオットはマリオンに付き従い、ゆくゆくは介助するために存在している。二人の間にあるのは『主従』という関係である。親しく名を呼んで良いはずがない。

 マリオンとてそれは知っているが、マリオンには遊びや話しの相手をしてくれるのは彼しかいないのだ。友人や知り合いと呼べる相手すらいないから、どうしても傍に居てくれる彼に友人のように気安い対応を求めてしまうのだ。

 マリオンは昼間に屋外で開かれる催しにはまず出られない。目を侵す病がそれを許さない。

 屋内で催されるものも、姉たちに「あんなものにあなたの大事な時間を使う必要はないのよ」と甘く優しい言葉をかけられて欠席を許されていた。

 優しげな言葉の裏で彼女たちは、普通とは違う身内を隠したいと思っているのだとマリオンはよく理解していた。

 ――理解した上で、これ幸いとばかりにありとあらゆる催しをすっぽかしていた。

 そうして人とほとんど関わらずに生きてきたせいか、マリオンは酷い人見知りだ。場合によっては本格的に体調を崩す。
 親族とその友人、知人をほんの数人よんだだけの、ささやかな自分の誕生日パーティーですら、終わったその日の晩には熱を出すのだから。

 祖父がマリオンにエリオットを与えたのは、介助の為だけではなく、ほんの少しであっても人との交流を絶たぬようにとのお節介であった。

 マリオンとて人の子だ。友人がいたらどんなだろうかと想像を膨らませることはある。しかしそれ以上に、エリオットを独り占めできなくなることを恐れていた。

「エリオットは美しい」

 皆がうっとりとした声でそう言うのを、何度聞いたか知れない。友達とやらもきっと、エリオットを欲しがるだろう。手に入らないのなら束の間だけでもと、マリオンを放ってでもエリオットに自分の相手をさせようとするだろう。エリオットはきっと相手をするだろう。何故なら彼が持つ身分は『従者』だから。余程でない限り、断ることはできないはずだ。

 幼い独占欲は、それを受け入れられないのだ。

 マリオンは触れているエリオットの手をぎゅっと握り返す。
 普通の従者とは違って手袋をしない彼の手は、ビスク・ドールのようにひやりと冷たかった。

「……ねえ、エリィ。ずっと私の側にいてくれる?」
「それが僕の役目です」

 どこか機械じみた返事に、マリオンは思わずエリオットから手を離し、首から下げた懐中時計を握った。
 この懐中時計は、蓋を開くと針を触って時刻を確認できる代物で、定刻になるとオルゴールが鳴る仕掛けもある。機械人形エリオット同様、祖父がマリオンの為に作ったお守りだった。

 懐中時計が夕方を告げるオルゴールを鳴らす。それに背中を押されたのか、意を決したような顔つきのマリオンが顔を上げる。

 夕空と同じ色の瞳がエリオットをまっすぐに射貫いた。

「――……エリィ、お願い。仕事じゃなくても、役目じゃなくても、私の側にいて」

 そう言って、エリオットの手を握る手は、小さく震えて冷え切っていた。

 エリオットは驚きに目を見開く。

 どうやら、この子供はエリオットをエリオットとして必要としているらしい。
 優れた性能の機械ではなく。美しい容姿の人形ではなく。ただ側にいるだけの存在として、自分を望んでいる。

 その幼くも澄んだ思いがエリオットの心をくすぐった。

「……僕は、ずっとあなたの側にいます。何があろうとも」

 自分には、こんなに柔らかな声が出せたのか。

 エリオットは自分についての新たな発見に喉が震えるのを感じた。

 涙で潤んだマリオンの瞳が歓喜を映して輝いていた。まるで白い可憐な花が咲くように、幼い頬に笑みが広がっていく。

 これほど嬉しそうに笑うマリオンを、エリオットは初めて見た。

 胸の中心がやけに温かい。けれど、不快ではない。もちろん、故障でもない。

 これは何だろうか。エリオットは首をかしげる。存在しないはずの心臓が高鳴り、胸元が温かなものに満たされていく。

 エリオットはマリオンが汚れた手で目元を拭おうとするのをそっと制止して、代わりにハンカチを出して眼鏡の向こうの目元を拭う。いるうちに気が付いた。

 ああ、なるほど、そうか。自分エリオットにも『心』というものがあって、きっと、それはさっきまでがらんどうだったのだ。

 マリオンの瞳にエリオットが映る。

 この、美しい夕陽色の瞳が完全な夜の色となった時、その目は完全に光を失う。マリオンが侵されているのは、そういう病だった。

 いずれそうなった時も、エリオットはきっとこの主の側にいるだろう。

 誰かに与えられた役目だからではない。エリオット自身がそうしたいと、今この時に、心の底から望んだからだ。

「ねえ、エリィ。この本を読んで?」

手渡された大ぶりな本を受け取る。もう二人共諳んじられるほどに繰り返し読んだ童話だ。

「もちろんです……マリオン様」

それを聴いた小さな白い花は、再び幸せそうに綻んだ。

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