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地平の際まで傾いた陽が、壁飾りに反射してアラキノの目を小さく焼いた。
アラキノは片手で目元を覆うと、乱暴に椅子に腰掛ける。そのまま額に手を滑らせ、前髪をぐしゃりとかきあげた。
机に並んだ黒い石ころは、二桁を超えていた。紙に書かれた言葉たちもほとんどが失敗を表す線で消されていた。
アラキノと同じく、どこか気落ちしたような様子の雷光の精霊が、項垂れたアラキノの髪にすり寄った。月の色に似た髪が、雷光の精霊が触れたところを起点にぶわりと逆立った。
「……まだ頑張るのね、アラキノ」
今にもばらばらになりそうなほど古い本に視線を落としながら、ジルがぽつりと呟いた。そこに馬鹿にした響きはなかったが、失敗ばかりに苛立っていたアラキノは無愛想に鼻を鳴らす。
「芳しくないようだね、アラキノ」
いつの間にか、ユーダレウスも来ていた。相変わらず足音がしない。ジルは驚くこともなく、少し本から視線を上げて目礼した。すかさずロタンが嬉しそうに駆け寄り、今日の成果を報告している。
アラキノも目が合ったが、失敗の結果しかない身ではいたたまれず、苦虫を噛み潰したような顔で目を逸らす。
末の弟子のわかりやすい不機嫌をゆったりとした瞬き一つでやり過ごしたユーダレウスは、アラキノの机の側に歩み寄る。机の上の虫かごに指を突っ込み、ベラ虫のふわふわとした体毛を撫でた。陽だまりのような黄色のベラ虫はその指に歯を立てることはなかったが、迷惑そうにもそもそと指から逃げていった。
「まだ、不老不死を求めるのかい、アラキノ」
放っておいて欲しいというアラキノの願いもむなしく、ユーダレウスの穏やかな声が、あらゆる騒音を押しのけて響いた。聞こえているだろうに、ジルとロタンの無反応が逆に白々しく感じた。
「死とは、新たなる旅立ちに過ぎないのだから。むやみに恐れることはないよ」
別な色のベラ虫に伸びていくユーダレウスの指を見ながら、アラキノは姿勢悪く椅子の背に寄りかかった。
「……俺は、そういう理由でこの魔術を求めているわけじゃない」
人間は死を迎えると魂の記憶を綺麗に消されて、ここではない別な世界へと旅に出る。そして辿りついたその世界で、別の誰かとしてまた生まれる。
それは変えることのできないこの世界の理。魔術師だけが知る魂の行く末の真実。
アラキノにとって、そんなものは正直どうでもよかった。
精霊の加護によって魔術師の老いは遅い。死から最も遠い存在であると言えるだろう。
しかし、老いないわけでも、死なないわけでもない。実際、この二十年でアラキノの身体は大きすぎるまでに成長したし、ロタンとジルの二人も、良く気をつけねば気が付かない程度ではあるが変化していた。
けれど、ユーダレウスは違う。
何年経とうとも、出会った時と寸分変わらぬ姿をして、ただ穏やかに微笑んでいるのだ。普通の魔術師にない何かがある。そう確信するのにそう時間はかからなかった。
魔術師となったアラキノも、普通の人間と比べたら、途方もない時間を生きるのだろう。けれど、ユーダレウスが完璧に老いないとしたら、アラキノはいつか置いていくことになる。
置いていくことだけは――この人に哀しみを与えるようなことは、したくない。その為に、アラキノは不老不死の術を求めていた。
永劫、隣に並べるだけの力を持てば、師は「自慢の弟子だ」と誇ってくれるのではないだろうか。そんな期待がないとは言い切れない。
しかし少なくとも、アラキノを不死の術の探究へと突き動かしているのは、私利私欲だけでも、死への畏れでもないことは間違いなかった。
ベラ虫を突くのに飽きたらしいユーダレウスは、机に手をついてアラキノの顔を覗き込む。
「今日はまだ続けるのかい?」
「はい、まだ……っ、痛ってえな!」
淡い黄緑色のベラ虫に触れた瞬間、やはり噛まれた。振り払う際、水差しに手が当たった。割れることはなかったが、水差しは倒れ、中に入った砂糖水が机にぶちまけられた。
「大丈夫かい、アラキノ」
「……はい」
やはり、幼い子供を気遣うような表情をするユーダレウスに、アラキノはひっそりと嘆息すると、右手を棚へと向けた。
「コード ヴァル セ ロ」
青白い光の帯は、射った矢のようにアラキノの手元を離れると、部屋の片隅にある雑巾にぶつかった。
たちまち、目にも留まらぬ速さで雑巾がアラキノの下へ飛んでくる。
「便利だよなぁ、それ」
ロタンが呑気に羨む声を無視してアラキノは机の上の砂糖水を拭く。
精霊と深く繋がっていればいるほど、精霊は魔術師の言葉の外からこちらの意を汲み、言葉を減らしても目的の魔術は達成され、そして魔術で実現できる事象はより複雑になっていくとされている。だが、そもそも雷光の精霊は『物の移動』が得意であり、それに関する魔術に限っては、細かな指定をせずとも、精霊が言葉の外からアラキノの意を汲んで、求めるものを運んでくるだけだ。
こんなものでは駄目なのだ。もっと強い力でなければ。
一体、精霊との繋がりとはなんなのだろうか。それさえわかれば、不老不死の術に近づけるはず。
そんなことを漠然と考えながら、アラキノは甘ったるい匂いになった雑巾をすすぎ、片付ける。机の上にいた黄緑のベラ虫は砂糖水に触ったのか死んで石ころになっていた。それを見た瞬間、今日の分の気力がすっかりしぼんだのがわかった。
どかりと椅子に掛けたアラキノは、雷光の精霊になんとなく触れる。ほんの少しだけ皮膚がピリピリとする。なんとなく癖になるような手触りを感じながら、細長いその身体をゆっくりとなでる。
「ヴォルニケツール・セラ」
用もないのに呼びかけると、精霊がその細長い身体の先端を軽く曲げた。「なぁに?」と愛らしく首をかしげているようにも見えて、少しだけなぐさめられた。
精霊は愛玩動物ではない。だが、可愛らしいところもあるのは確かで、アラキノは精霊のそういう仕草を見ると、ついつい似合いそうな名を探してしまう。
「いっそ名前、付けてみるか……」
ぼんやりと思いついたことが、勝手に口から洩れていた。
精霊に名付ることはしてはいけない。普段ならば馬鹿げた考えだと流すのに、今日ばかりは馬鹿げているとわかっていながらアラキノの頭にしつこく引っかかって消えていかない。
手のひらで弄んでいた雷光の精霊が、するりとアラキノの手を抜け出した。珍しくゆっくりとアラキノの前で揺蕩う雷光の精霊は、どこか嬉しそうに見えた。
精霊に目はない、けれど、今まさに目が合っていると思った。
根拠もないのに「正解だ」と精霊が告げている気がした。
「名前……そうか、名前……」
古来より魔術師に伝わる禁忌。しかし、その実情を知る者はいない。
精霊が死ぬということ、そして魔術師も死ぬということだけが、まことしやかに言い伝えられているのみだ。
誰も知らないのなら、そこに自らが求める答えがあるのではないだろうか。アラキノの心臓がどくりと大袈裟に脈を打つ。
ふと、異様な気配に顔を上げると、部屋の中の空気が凍っていた。三対の視線が、ある者はアラキノの様子を窺うように、ある者は驚きに目を見開いて、そして、ある者は怒りでアラキノを刺すように、こちらを見ていた。
自分が口にしたことのせいだと気が付いたアラキノは、ばつの悪さを感じながら「冗談だ」と口ごもる。その口ぶりは、今の今まで、禁忌に手を伸ばそうとしていたことが明白だった。
ほとんど跳ぶようにして、物を蹴散らして近づいてきたロタンの拳骨が、アラキノの頭に降った。アラキノは反射的に憤り、立ち上がってロタンの胸倉をつかみ返す。
男同士、取っ組み合いになるような喧嘩など、二十年も顔を合わせていれば何度もあった。じゃれ合いの延長のようなものから、お互いに怪我をこさえるようなものまで。数えきれないほど、アラキノはロタンと喧嘩をした。喧嘩の仕方をアラキノに教えたのはロタンだと言っても過言ではない。
大雑把で揶揄い好きのロタンと、お人よしで生真面目なアラキノ。お互いに性格のそりが微妙に噛み合わなかったせいもあるのだろう。
いつしか、アラキノが自身に向けられる拳に対して抱くのは、恐怖ではなく、怒りであったり反抗心になっていた。
大人になるにつれ、手を出す前に冷静になることと距離をとることを覚え、殴りあうような喧嘩は減っていったが、久しぶりに触れた兄弟子の怒りと何度だって見たはずのロタンの突き刺すような眼差しは、アラキノが自らの振る舞いを後悔するには十分だった。
「冗談でも、ンな馬鹿なこと言うんじゃねえ! 自分が何言ったかわかってんのか!?」
再び拳が握られたのを見て、アラキノはぐっと歯を食いしばり、目を瞑る。
「ロタン! だからと言って、殴ることはないだろう」
珍しく険しい顔のユーダレウスが駆け寄り、アラキノの腕を掴んで引き寄せる。互いに大人しく相手から手を放すと、ユーダレウスは二人の間に身体を滑り込ませた。
争い合うふたりの弟子たちよりも遥かに細身なその人は、それでも確かな壁となって物理的に争いを止めた。
兄弟子の手が出るほどの怒りはもっともだと、アラキノにはわかっていた。命を失う危険を考えず、無謀なことに手を出そうとした弟弟子を叱るのは、先んずる者としては当たり前なのだから。
アラキノは師のつむじの向こうにロタンを見た。一瞬だけかち合った視線はまだ怒りの熱を孕んでいて、どちらからともなく逸らされる。
「……頭、冷やしてきます!」
ロタンは何一つ悪くない。この場を出て行きたいのは自分の方だ。
しかしロタンはアラキノが口を開く前に、乱暴に扉を開けて出て行ってしまった。
それから一呼吸おいて、ユーダレウスは肩の力を抜いた。
「……ジル、あの子を頼めるかい?」
「はい、師匠」
「すまないね、いつも」
二つ返事で頷いたジルは、古ぼけた本を机にそっと置くと、足早にロタンの後を追った。
振り返ったユーダレウスの眼差しが痛い。別に、アラキノを咎めるような目つきではない。いつも通り、弟子を気遣う穏やかで優しい師のそれだ。だからこそ、余計に今のアラキノには直視できなかった。
「大丈夫かい、アラキノ」
「すみません、師匠、俺は……」
「……よっぽど煮詰まっていたんだろう。少し、そこに座って静かにしていなさい」
その言いつけは、子供の癇癪を収める時のやり方に思えて、アラキノは臍を噛む。自業自得とはいえ、また、師に認められる日が遠のいた。
アラキノが大人しく椅子に座ると、先ほどまでジルが座っていた場所にユーダレウスが座った。その目は、アラキノではなく窓の外に広がる秋の夕暮れを眺めていた。
じっと見られているわけでもないのに、どうにも居た堪れず、アラキノは誤魔化すようにベラ虫の蠢く虫かごに無理やり神経を集中させた。
外から薪割りの音が聞こえ始めた。きっと、ロタンだ。
アラキノは目を瞑る。パカン、パカンという音と共に、木々が風に揺れるサラサラとした音が聞こえるようになってきた。
乱れた心が凪いでいく。
夕暮れの陽にあたるのが好きな精霊たちの、ほんの微かな羽音すらも、アラキノの耳には聞こえていた。
薪割りの音が止んだ頃。師は椅子から立ち上がった。
「さて、お茶でも淹れよう。今日はジルが作ってきてくれたケーキがあるんだ」
ジルの作るケーキは、素朴を通り越して質素な見た目をしているが、とても美味だ。この師は、どんなに華やかに飾られた高価な菓子よりも、これを特別に気に入っていた。
心の底から上機嫌なユーダレウスに向けて、アラキノは首を横に振る。
「俺は……ここを片付けてから行きます」
ロタンが蹴散らした道具や本がそこいらじゅうに転がっていた。中には割れてしまった物もある。これを片付けるのは自分の役目のはずだと目配せで訴えると、師は心得たとばかりに目を瞑り「わかった」と頷いた。
「……そうだ、アラキノ」
扉を開く直前、師、ユーダレウスはどこからともなくカンテラのぶら下がった杖を取り出した。
いつものように、友人を呼ぶときの調子でふたりの精霊を呼び出す。黄金の光の玉と、白銀の光の玉が踊るようにカンテラから現れた。
何も知らない精霊たちは、すい、と音もなくアラキノに寄ってきて、さらりさらりと月色の髪を撫でる。
それを見ていたユーダレウスが、呆れたようにくすくすと笑った。
「まったく、契約したのは私だというのに。相変わらずこの子達はアラキノが好きらしい。ちょっと妬けるな」
机の上で揺蕩っていた雷光の精霊が、大事なものをとられまいとする子供のようにアラキノの腕にくるりと巻き付いた。
「しばらくふたりを置いていくよ。お前のことを気に入ってるこの子達なら、手伝ってくれるだろう」
「ありがとうございます」
部屋の片づけに精霊の力を使うつもりはなかったが、アラキノは素直に頭を下げる。
日が暮れて、薄暗くなった部屋。
ユーダレウスは最後に、精霊たちにランプに光を灯すように頼むと、音もなく部屋を出て行った。
アラキノは片手で目元を覆うと、乱暴に椅子に腰掛ける。そのまま額に手を滑らせ、前髪をぐしゃりとかきあげた。
机に並んだ黒い石ころは、二桁を超えていた。紙に書かれた言葉たちもほとんどが失敗を表す線で消されていた。
アラキノと同じく、どこか気落ちしたような様子の雷光の精霊が、項垂れたアラキノの髪にすり寄った。月の色に似た髪が、雷光の精霊が触れたところを起点にぶわりと逆立った。
「……まだ頑張るのね、アラキノ」
今にもばらばらになりそうなほど古い本に視線を落としながら、ジルがぽつりと呟いた。そこに馬鹿にした響きはなかったが、失敗ばかりに苛立っていたアラキノは無愛想に鼻を鳴らす。
「芳しくないようだね、アラキノ」
いつの間にか、ユーダレウスも来ていた。相変わらず足音がしない。ジルは驚くこともなく、少し本から視線を上げて目礼した。すかさずロタンが嬉しそうに駆け寄り、今日の成果を報告している。
アラキノも目が合ったが、失敗の結果しかない身ではいたたまれず、苦虫を噛み潰したような顔で目を逸らす。
末の弟子のわかりやすい不機嫌をゆったりとした瞬き一つでやり過ごしたユーダレウスは、アラキノの机の側に歩み寄る。机の上の虫かごに指を突っ込み、ベラ虫のふわふわとした体毛を撫でた。陽だまりのような黄色のベラ虫はその指に歯を立てることはなかったが、迷惑そうにもそもそと指から逃げていった。
「まだ、不老不死を求めるのかい、アラキノ」
放っておいて欲しいというアラキノの願いもむなしく、ユーダレウスの穏やかな声が、あらゆる騒音を押しのけて響いた。聞こえているだろうに、ジルとロタンの無反応が逆に白々しく感じた。
「死とは、新たなる旅立ちに過ぎないのだから。むやみに恐れることはないよ」
別な色のベラ虫に伸びていくユーダレウスの指を見ながら、アラキノは姿勢悪く椅子の背に寄りかかった。
「……俺は、そういう理由でこの魔術を求めているわけじゃない」
人間は死を迎えると魂の記憶を綺麗に消されて、ここではない別な世界へと旅に出る。そして辿りついたその世界で、別の誰かとしてまた生まれる。
それは変えることのできないこの世界の理。魔術師だけが知る魂の行く末の真実。
アラキノにとって、そんなものは正直どうでもよかった。
精霊の加護によって魔術師の老いは遅い。死から最も遠い存在であると言えるだろう。
しかし、老いないわけでも、死なないわけでもない。実際、この二十年でアラキノの身体は大きすぎるまでに成長したし、ロタンとジルの二人も、良く気をつけねば気が付かない程度ではあるが変化していた。
けれど、ユーダレウスは違う。
何年経とうとも、出会った時と寸分変わらぬ姿をして、ただ穏やかに微笑んでいるのだ。普通の魔術師にない何かがある。そう確信するのにそう時間はかからなかった。
魔術師となったアラキノも、普通の人間と比べたら、途方もない時間を生きるのだろう。けれど、ユーダレウスが完璧に老いないとしたら、アラキノはいつか置いていくことになる。
置いていくことだけは――この人に哀しみを与えるようなことは、したくない。その為に、アラキノは不老不死の術を求めていた。
永劫、隣に並べるだけの力を持てば、師は「自慢の弟子だ」と誇ってくれるのではないだろうか。そんな期待がないとは言い切れない。
しかし少なくとも、アラキノを不死の術の探究へと突き動かしているのは、私利私欲だけでも、死への畏れでもないことは間違いなかった。
ベラ虫を突くのに飽きたらしいユーダレウスは、机に手をついてアラキノの顔を覗き込む。
「今日はまだ続けるのかい?」
「はい、まだ……っ、痛ってえな!」
淡い黄緑色のベラ虫に触れた瞬間、やはり噛まれた。振り払う際、水差しに手が当たった。割れることはなかったが、水差しは倒れ、中に入った砂糖水が机にぶちまけられた。
「大丈夫かい、アラキノ」
「……はい」
やはり、幼い子供を気遣うような表情をするユーダレウスに、アラキノはひっそりと嘆息すると、右手を棚へと向けた。
「コード ヴァル セ ロ」
青白い光の帯は、射った矢のようにアラキノの手元を離れると、部屋の片隅にある雑巾にぶつかった。
たちまち、目にも留まらぬ速さで雑巾がアラキノの下へ飛んでくる。
「便利だよなぁ、それ」
ロタンが呑気に羨む声を無視してアラキノは机の上の砂糖水を拭く。
精霊と深く繋がっていればいるほど、精霊は魔術師の言葉の外からこちらの意を汲み、言葉を減らしても目的の魔術は達成され、そして魔術で実現できる事象はより複雑になっていくとされている。だが、そもそも雷光の精霊は『物の移動』が得意であり、それに関する魔術に限っては、細かな指定をせずとも、精霊が言葉の外からアラキノの意を汲んで、求めるものを運んでくるだけだ。
こんなものでは駄目なのだ。もっと強い力でなければ。
一体、精霊との繋がりとはなんなのだろうか。それさえわかれば、不老不死の術に近づけるはず。
そんなことを漠然と考えながら、アラキノは甘ったるい匂いになった雑巾をすすぎ、片付ける。机の上にいた黄緑のベラ虫は砂糖水に触ったのか死んで石ころになっていた。それを見た瞬間、今日の分の気力がすっかりしぼんだのがわかった。
どかりと椅子に掛けたアラキノは、雷光の精霊になんとなく触れる。ほんの少しだけ皮膚がピリピリとする。なんとなく癖になるような手触りを感じながら、細長いその身体をゆっくりとなでる。
「ヴォルニケツール・セラ」
用もないのに呼びかけると、精霊がその細長い身体の先端を軽く曲げた。「なぁに?」と愛らしく首をかしげているようにも見えて、少しだけなぐさめられた。
精霊は愛玩動物ではない。だが、可愛らしいところもあるのは確かで、アラキノは精霊のそういう仕草を見ると、ついつい似合いそうな名を探してしまう。
「いっそ名前、付けてみるか……」
ぼんやりと思いついたことが、勝手に口から洩れていた。
精霊に名付ることはしてはいけない。普段ならば馬鹿げた考えだと流すのに、今日ばかりは馬鹿げているとわかっていながらアラキノの頭にしつこく引っかかって消えていかない。
手のひらで弄んでいた雷光の精霊が、するりとアラキノの手を抜け出した。珍しくゆっくりとアラキノの前で揺蕩う雷光の精霊は、どこか嬉しそうに見えた。
精霊に目はない、けれど、今まさに目が合っていると思った。
根拠もないのに「正解だ」と精霊が告げている気がした。
「名前……そうか、名前……」
古来より魔術師に伝わる禁忌。しかし、その実情を知る者はいない。
精霊が死ぬということ、そして魔術師も死ぬということだけが、まことしやかに言い伝えられているのみだ。
誰も知らないのなら、そこに自らが求める答えがあるのではないだろうか。アラキノの心臓がどくりと大袈裟に脈を打つ。
ふと、異様な気配に顔を上げると、部屋の中の空気が凍っていた。三対の視線が、ある者はアラキノの様子を窺うように、ある者は驚きに目を見開いて、そして、ある者は怒りでアラキノを刺すように、こちらを見ていた。
自分が口にしたことのせいだと気が付いたアラキノは、ばつの悪さを感じながら「冗談だ」と口ごもる。その口ぶりは、今の今まで、禁忌に手を伸ばそうとしていたことが明白だった。
ほとんど跳ぶようにして、物を蹴散らして近づいてきたロタンの拳骨が、アラキノの頭に降った。アラキノは反射的に憤り、立ち上がってロタンの胸倉をつかみ返す。
男同士、取っ組み合いになるような喧嘩など、二十年も顔を合わせていれば何度もあった。じゃれ合いの延長のようなものから、お互いに怪我をこさえるようなものまで。数えきれないほど、アラキノはロタンと喧嘩をした。喧嘩の仕方をアラキノに教えたのはロタンだと言っても過言ではない。
大雑把で揶揄い好きのロタンと、お人よしで生真面目なアラキノ。お互いに性格のそりが微妙に噛み合わなかったせいもあるのだろう。
いつしか、アラキノが自身に向けられる拳に対して抱くのは、恐怖ではなく、怒りであったり反抗心になっていた。
大人になるにつれ、手を出す前に冷静になることと距離をとることを覚え、殴りあうような喧嘩は減っていったが、久しぶりに触れた兄弟子の怒りと何度だって見たはずのロタンの突き刺すような眼差しは、アラキノが自らの振る舞いを後悔するには十分だった。
「冗談でも、ンな馬鹿なこと言うんじゃねえ! 自分が何言ったかわかってんのか!?」
再び拳が握られたのを見て、アラキノはぐっと歯を食いしばり、目を瞑る。
「ロタン! だからと言って、殴ることはないだろう」
珍しく険しい顔のユーダレウスが駆け寄り、アラキノの腕を掴んで引き寄せる。互いに大人しく相手から手を放すと、ユーダレウスは二人の間に身体を滑り込ませた。
争い合うふたりの弟子たちよりも遥かに細身なその人は、それでも確かな壁となって物理的に争いを止めた。
兄弟子の手が出るほどの怒りはもっともだと、アラキノにはわかっていた。命を失う危険を考えず、無謀なことに手を出そうとした弟弟子を叱るのは、先んずる者としては当たり前なのだから。
アラキノは師のつむじの向こうにロタンを見た。一瞬だけかち合った視線はまだ怒りの熱を孕んでいて、どちらからともなく逸らされる。
「……頭、冷やしてきます!」
ロタンは何一つ悪くない。この場を出て行きたいのは自分の方だ。
しかしロタンはアラキノが口を開く前に、乱暴に扉を開けて出て行ってしまった。
それから一呼吸おいて、ユーダレウスは肩の力を抜いた。
「……ジル、あの子を頼めるかい?」
「はい、師匠」
「すまないね、いつも」
二つ返事で頷いたジルは、古ぼけた本を机にそっと置くと、足早にロタンの後を追った。
振り返ったユーダレウスの眼差しが痛い。別に、アラキノを咎めるような目つきではない。いつも通り、弟子を気遣う穏やかで優しい師のそれだ。だからこそ、余計に今のアラキノには直視できなかった。
「大丈夫かい、アラキノ」
「すみません、師匠、俺は……」
「……よっぽど煮詰まっていたんだろう。少し、そこに座って静かにしていなさい」
その言いつけは、子供の癇癪を収める時のやり方に思えて、アラキノは臍を噛む。自業自得とはいえ、また、師に認められる日が遠のいた。
アラキノが大人しく椅子に座ると、先ほどまでジルが座っていた場所にユーダレウスが座った。その目は、アラキノではなく窓の外に広がる秋の夕暮れを眺めていた。
じっと見られているわけでもないのに、どうにも居た堪れず、アラキノは誤魔化すようにベラ虫の蠢く虫かごに無理やり神経を集中させた。
外から薪割りの音が聞こえ始めた。きっと、ロタンだ。
アラキノは目を瞑る。パカン、パカンという音と共に、木々が風に揺れるサラサラとした音が聞こえるようになってきた。
乱れた心が凪いでいく。
夕暮れの陽にあたるのが好きな精霊たちの、ほんの微かな羽音すらも、アラキノの耳には聞こえていた。
薪割りの音が止んだ頃。師は椅子から立ち上がった。
「さて、お茶でも淹れよう。今日はジルが作ってきてくれたケーキがあるんだ」
ジルの作るケーキは、素朴を通り越して質素な見た目をしているが、とても美味だ。この師は、どんなに華やかに飾られた高価な菓子よりも、これを特別に気に入っていた。
心の底から上機嫌なユーダレウスに向けて、アラキノは首を横に振る。
「俺は……ここを片付けてから行きます」
ロタンが蹴散らした道具や本がそこいらじゅうに転がっていた。中には割れてしまった物もある。これを片付けるのは自分の役目のはずだと目配せで訴えると、師は心得たとばかりに目を瞑り「わかった」と頷いた。
「……そうだ、アラキノ」
扉を開く直前、師、ユーダレウスはどこからともなくカンテラのぶら下がった杖を取り出した。
いつものように、友人を呼ぶときの調子でふたりの精霊を呼び出す。黄金の光の玉と、白銀の光の玉が踊るようにカンテラから現れた。
何も知らない精霊たちは、すい、と音もなくアラキノに寄ってきて、さらりさらりと月色の髪を撫でる。
それを見ていたユーダレウスが、呆れたようにくすくすと笑った。
「まったく、契約したのは私だというのに。相変わらずこの子達はアラキノが好きらしい。ちょっと妬けるな」
机の上で揺蕩っていた雷光の精霊が、大事なものをとられまいとする子供のようにアラキノの腕にくるりと巻き付いた。
「しばらくふたりを置いていくよ。お前のことを気に入ってるこの子達なら、手伝ってくれるだろう」
「ありがとうございます」
部屋の片づけに精霊の力を使うつもりはなかったが、アラキノは素直に頭を下げる。
日が暮れて、薄暗くなった部屋。
ユーダレウスは最後に、精霊たちにランプに光を灯すように頼むと、音もなく部屋を出て行った。
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剣の得意冒険者リッキーはある日剣技だけが取り柄しかないという理由でパーティーから追放される。その後誰も自分を知らない村へと移住し、気ままな生活をするつもりが村を襲う魔物を倒した事で弓の得意エルフ、槍の得意元傭兵、魔法の得意踊り子、投擲の得意演奏者と様々な者たちが押しかけ弟子入りを志願する。
そんな彼らに剣技の修行をつけながらも冒険者時代にはない充実感を得ていくリッキーだったのだ。
ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
天三津空らげ
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日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
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