嘘つき師匠と弟子

聖 みいけ

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 まだ、起きないのだろうか。ふいに寂しくなったティニは、ベッドの上に四つん這いになって、師の顔を覗き込む。眉間に寄った皺が薄くなっているところ以外は、先ほどと何も変わらず穏やかに眠っていた。

 いくら辛抱強いティニとて、幼い子供であることに変わりはない。ティニが起きてから、実に一時間は経っていた。いい加減、寂しさを我慢するにも限界だった。

「ししょー! おきてください!」

 大きな声で呼んでみるが、見事に無視された。多分、耳も夢の中にいるのだろう。

 少しだけむくれたティニは、横を向いたまま寝ている師の脇腹の辺りに、頭突きをするように、こてんと額をのせた。そのまま枕にするように体重をかけて凭れかかる。
 けれどユーダレウスはぴくりとも動かない。この程度で起きるなら、とうに起きている。

 ユーダレウスの脇腹に頭をつけて凭れかかったまま、ティニは全身を使って大きな身体を揺らした。

「しーしょーうー!」
「んー……」

 凭れていた身体がごろりと転がる。潰されないように除けると、ユーダレウスはまた仰向けになった。反応があったということは、いよいよ瞼を開けるだろうと期待したが、その瞼は穏やかに閉ざされたままだ。ティニはがっくりとユーダレウスの腹に頭をつけて項垂れた。
 ゆっくりと上下する硬い腹に頬を引っ付け、頭の方を見る。頬に当たる体温は、確かにほっとできるものではあるが、ティニが今欲しいのはユーダレウスが起きることなのだ。

「師匠、まだおきないんですか……?」

 思ったよりもしょぼくれた声になった。まだ涙は滲んでいなかったが、鼻の奥が少し湿っぽくなってきて、ティニは小さく、スン、と鼻を鳴らした。

 その時だ。
 緩慢な動きで瞼が開き、銀の瞳が現れてティニを見た。同時にティニの頭に大きな手が乗っかった。
 ゆっくりと、まるで半分寝ているような動きで、頭の上を行ったり来たりする手つきにティニは目を瞬かせる。そして、待ちわびたその瞬間を逃すまいと、ティニはユーダレウスの身体を跨いで胸元に飛び乗った。

「おはよおございます、師匠!」
「……っぐ」

 不意打ちで勢いよくのしかかったせいで、ユーダレウスは息が詰まっていたのだが、ティニはそれに気が付くことなく、険しい顔をする師に首を傾げた。

「師匠?」
「いきなり跳びかかるなつってんだろ、馬鹿弟子」

 眠いのと息苦しさのせいで、普段の二割増し怖い顔をしたユーダレウスの指に、むにっと両頬をつままれる。

「ごえんなふぁい」
「ったく……」

 頬から手を放し、ぶつくさと文句を言いながら、ティニをのせたままユーダレウスは上半身を起こす。腹の上に座っていたティニはころんと後ろに転がった。のそのそとカメの様に起き上がり、今度は膝の上に座り直す。
 摘ままれても大して痛かったわけではないが、ティニはなんとなく頬をさする。その顔を、ユーダレウスがじっと見ていた。何かを確認しているようだった。

「どうかしま、うわわっ!」

 大きな手が、精一杯整えたティニの髪を片手で簡単にぐしゃぐしゃにした。

「なんでもねーよ。おはようさん」

 ユーダレウスは本当に何でもなさそうにそう言うと、ティニの両脇に手を入れて、ひょいと膝から下ろす。顔の全てを使って大きくあくびをしながら、雑にブーツに足を入れ、枕元に置いていた青白い石がはまった大ぶりの指輪を右手の中指に嵌めた。
 そうして、ぼーっとした目つきでゆらゆらと階段を下りて行く師の後を、ティニは慌てて追いかけた。


 天気が悪いせいで部屋の中は薄暗い。ユーダレウスは洗面所までの道すがら、眠そうな気怠い声で、右手の中指に嵌る指輪から雷光の精霊を呼び出した。

コード ディスベルィエ全てのラン スミナ ツールプに光を 」

 雷光の精霊は、とてもせっかちだ。ユーダレウスが言い終わるや否や、バチン、と音がしたかと思ったら、瞬きする間もなく一瞬で部屋中のランプに明かりがついた。

 急に明るくなった部屋がまぶしくて、ティニは目を細める。それと同時に、少し部屋が暖かくなったように感じてほっと息をついた。

 ティニの目が明るさに慣れた頃、もうすでに精霊の姿はなかった。毎度、一瞬ですべてが終わってしまうため、ティニは雷光の精霊が何かをしている場面をしっかり見たことがなかった。なんとなく、青白い光の帯のような何かが見えるだけだ。
 ユーダレウスに頼み込めば見せてくれるかもしれないが、特に用事があるわけでもないのに呼びだすのは精霊に申し訳ないので、ティニはその望みを口には出さないことにしていた。けれど、いつかは仕事をしている雷光の精霊の姿をしっかりと目を開けて見てやろうとひっそり心に決めている。



 洗面所から出てきたユーダレウスは、月の色をした長い髪を紐で雑に束ねていた。簡単に身支度を整えてもまだ眠そうな顔をして、寝間着も着替えないまま、朝食の用意を始めた。
 慣れた様子でフライパンを火にかけ、温めだした後ろ姿に、何か手伝おうと思ってティニは近くに駆け寄った。

 その時、ティニの腹の虫がたった今起きたかのように、くうぅ、と鳴き声を上げた。

 眉間に皺を増やしたユーダレウスが「すぐできるから、先にそっち食ってろ」と手つかずだったサンドイッチに指をさす。
 思わず逃げ出したくなるような怖い顔だが、怒っているというわけじゃない。どちらかというと、焦りを感じていたり、困っているときの顔だ。ティニはユーダレウスの眉間の微妙な変化から、その感情がなんとなくわかるようになっていた。

 自分のわがままでユーダレウスを困らせる事は、ティニの本意ではない。それに食べずにいると、今度は具合が悪いのかと思われてしまうので、ティニは大人しく椅子に腰かけ、甘いジャムが挟まったサンドイッチをちまちまと齧り始めた。

 料理をするユーダレウスの背中で、雑に束ねられた髪の束がランプの光を反射して、きらきらときらめきながら跳ねている。
 その肩の向こうにある大きな窓。そのまた向こうにある外は、雨で煙っているせいで、朝だというのにとても暗かった。部屋の中が明るい光で満たされているせいか、余計にそう感じられる。
 外にいくつも点在するカンテラが、雨の向こうでぼんやりとした優しい光を灯していた。

 雨は、数日間降ったりやんだりを繰り返していた。
 今朝はティニが起きた時から降り続いていた雨は、とっくに本降りになって木々の葉を叩き、音を立てている。外に出たら少しもしないうちに、びしょ濡れになってしまうだろう。

 今日もまた、昨日までと同じようにゆったりとした一日になる気配を感じながら、ティニはもうひと口サンドイッチを齧る。バターの香りが鼻に抜け、ジャムの濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。ユーダレウスの手元からは、ジュワ、という音と共に、新しい美味しそうな香りが漂って来て、ティニの心がわくわくと騒ぎ出す。

 ユーダレウスがいるのならば、ティニは退屈な時間も嫌いじゃない。そもそも、退屈だと思うことがない。

 一昨日はアルイマベリーを鍋で煮込んで、ジャムを作った。
 ジャムの作り方なんて、ティニは知らなかった。砂糖をたくさん使うことも知らなかったし、鍋の中でごろごろとしていたアルイマベリーが、煮込んでいくうちに形をなくし、どろどろのジャムになったことにも驚いた。最後に瓶に詰められた時、ジャムは透き通るような綺麗な赤い色になっており、ティニは食べてしまうのがもったいないと思うほど感動した。

 昨日はアルイマベリーのシロップを作った。
 一つ一つアルイマベリーの実を洗ってへたをとり、丁寧に水気を拭きとった。それを大きな瓶に、氷のようなごろごろとした砂糖と交互になるように詰めた。まるで赤と白の宝石でいっぱいになったような瓶の中は、不思議なことに、十日も経つとシロップになるらしい。口にできるのはまだ先だが、今もキッチンの隅の涼しいところに置かれているそれが、どう変わってシロップになるのか、ティニは楽しみでしかたない。

 毎日、少しずつ『知らなかったこと』が『知っていること』になっていく。ティニはそれが楽しくて、嬉しい。だから退屈だと思う暇などないのだ。

 ふと、手を止めたユーダレウスが振り返った。手にはオムレツと、簡単なサラダが盛りつけられた木の皿を持っている。

「熱いぞ」

 目の前にコトリと置かれたそれは、ティニが今はいているズボンのような綺麗な黄色で「早く食べて」とばかりに湯気を立ててティニを誘っている。いつものことながら、美味しそうなそれに、ティニは添えられたフォークを掴んだ。
 早速ひと口分を切り取ると、びよん、と中にはいったチーズが伸びる。

 途端に、ティニの目が輝きを増した。

 チーズは、ティニの好きな物だ。好物が入ったオムレツ。冷ます時間も待ちきれず、ティニはまだ湯気が出ているそれをぱくりと頬張った。

「――っ!!」
「熱いって言っただろうが」

 はふはふとしながら口を閉じられないティニを見て、呆れた顔のユーダレウスが水の入ったコップを渡してくれる。涙目になりながらティニは冷たい水で口の中を冷まし、ほっと息をついた。

「口ん中、大丈夫か?」
「らいじょうぶれす」
「ん」

 伸びてきたユーダレウスの手に促されるまま、あ、と口を大きく開けて見せる。舌先と上顎が少しだけひりひりするが、これくらいならば大丈夫だ。
 ユーダレウスもそう思ったのか、納得したように一つ頷いて、ティニの顔から手を放した。

 気を取り直したティニは、オムレツをまたひと口切り分け、今度は慎重に冷ましてから口に入れる。
 大好きなチーズはとろとろだし、柔い玉子はほどよい塩気と優しい甘さが丁度いい。ほんのり香るバターも食欲をそそる。
 美味しいものが詰まった口の中だけでなく、頭の中までオムレツのようにふわふわとしてくる。

 チーズの入ったオムレツだなんて。こんなに素晴らしいものがあることも、全部この人が教えてくれた。

 そう思うと妙に嬉しくて、ティニは口元をほころばせた。


 いたって普通の朝食を食べているだけだというのに、人形のような顔に珍しく表情を浮かべているティニに、ユーダレウスは不思議そうに首を傾げたのだった。
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