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大泣きのティニを泣き止ませ、遅くなった朝食に野営の片付け。そうこうしているうちに時間は経ち、結局、出発したのは日が高く昇りきってからだった。
馬車はガタコトと揺れながら街道を進む。柔らかな初夏の風が、裾を半分ほどあげられた幌の下に吹き込み、馬車の揺れも相まって、うっかり微睡んでしまいそうな心地良さをもたらしていた。
既に脱落しかかっているヒューゴは、母親の膝を枕にして眠たげに瞼を揺らしながら、襲い来る睡魔に抗っていた。
捲られた幌の下から顔を出し、木や草ばかりで代わり映えのない景色が後ろに流れていくのを、ぼーっと眺めていたティニが、ふいに歌を口ずさむ。
『愛しい人よ
銀河の下で まみえたひとよ
われら永劫に 旅をしよう
しにがみの 笑みが二人を別つとも
いつの日か 再会の時ぞ来る
美しい人
われら来たれり 約束の場所
数多の世界を 廻りし旅路
しにがみの 腕が二人 別つとも
いつの日か 再会の時ぞ来る』
澄んだ子供の歌声が紡ぐ旋律は、馬車の中に響き、そして深い森に吸い込まれていった。パーシーとサラに拍手を送られ、振り返ったティニは照れくさそうにユーダレウスの外套で顔を隠した。子守唄の代わりになったのか、ヒューゴは寝息を立てていた。
「……お前、歌詞の意味、わかってるのか?」
師の問いにティニはきょとんとすると、首を横に振った。
ティニが歌った歌の詞は、この大陸の言葉ではない。
この歌の生まれは極東の小さな島国に住む民族だったとユーダレウスは記憶している。
音楽と共に生きて、音楽と共に死ぬと豪語するほど、音楽に秀でた民族だった。
彼らが生む旋律は複雑で、他所から来た者にとっては、たとえ音楽に秀でていても奏でるのが困難なほどだった。ただし、それ故に、その民族が奏でる音楽は身震いするほどに美しかった。
ティニが歌った歌の旋律は、確かに美しいのだが、かの民族の者にしてみれば簡単な部類に入る。それこそ、子供の遊戯に等しいものだ。しかし、だからこそこの歌は、彼らが奏でる他の音楽に比べれば圧倒的に歌い、奏でやすく、旅の芸人によってたちまち広まった。
この歌は、ユーダレウスが覚えている限り、かなり古い時代に流行った歌だ。それこそ、歌詞に使われている言語が廃れ、人の記憶から消える程度には遠い時代のものだ。
「こんな古い歌、どこで覚えたんだ」
「えっと、母さんが時々歌ってたやつです」
ティニの返答に、合点がいったユーダレウスは「なるほど」とこぼす。
ティニは元々旅芸人の一座にいたこと、そして母親がそこの看板歌姫だったことを、道行きの中でとりとめのない話として聞いたのを思い出したのだ。
「……上手く歌えてたぞ」
ユーダレウスはティニの頭を撫でて褒めた。
古い時代の歌だが、技術が進歩した今の音楽と比べても遜色がないほど美しい歌だ。旅芸人の一座でならば、歌詞の意味が分からずとも、歌い継がれていることもあるだろう。
唐突に師に褒められたティニは、驚いて外套から顔を上げると、じわじわと頬を紅潮させて喜んだ。
森の中の街道を進む馬車の車輪は回る。石畳とこすれ合うごろごろとした低い音は、どこか獣の唸る声にも聞こえた。
今朝の獣でも思い出したのだろう、ティニは少しだけユーダレウスに身を寄せた。
「……師匠、あの、朝の獣は……死んじゃったんですか?」
「いや。しばらく意識を失っただけだ」
あの獣は、ただ生きるために、食事をしに来ただけだった。おそらく、あの辺りが獣の縄張りだったのだろう。そこに、知らない生き物がいたから激昂して排除しようとしたのだ。
人間の生活と獣の生活は、基本的には相容れないものである。せっかく杭によって棲み分けていたのに、彼らの領域に踏み入ったのは子供たちだ。それなのに、かの獣の命まで奪うことは、あまりにも理不尽だ。
ユーダレウスは静かに弟子を見下ろすと、話を続けた。
「ただな、もしお前らのどっちかが噛まれでもしていたら、あいつは死んでいた」
ティニが息をのむ音がした。外套がぎゅっと引っ張られるのをユーダレウスは感じた。
「人間は弱くて、食い物なんだと理解しちまった獣は、何度でも人を襲うようになる」
何しろ、人間はそこらじゅうにたくさんいる。足の速い草食獣や、耳が良く、近づく前に逃げていく小動物など、他の獣に比べたら逃げるのも圧倒的に下手だ。鋭い牙や爪もなければ、毒もない。
道具を扱うことはできるが、抵抗になる程の手段を常に持っている者はそう多くない。獣にとって、これ以上手頃な獲物もいないだろう。
味を知ってしまった獣は、いつか、守り石の杭の抜け穴を見つけ、街道に出てくるだろう。人里に現れ、弱い順に獲物を貪るかもしれない。
そして、人間が生きる領域では、犠牲が出てしまってからでは遅い。
「生きててよかったな」
ユーダレウスが呟くと、ティニは神妙な声で「はい」と応えた。
ティニは、ユーダレウスにしっかりくっつきながら、納まりの良いところを探すようにもそもそと動いた。すぐに、丁度いい体勢を見つけると丸くなった。
「……師匠、もし、死んじゃったら、どうなるんですか?」
馬車の走る音の中、ティニはまるで内緒話のような抑えた声で、師に質問を投げる。その掠れた声音は、眠る友人への気遣いか、それとも死への畏怖か。
ユーダレウスは後ろに凭れかかり、考え込むようにゆっくり目を瞑る。
「肉体は土に還る。魂は……遠くへに旅に出る」
「遠く? 戻ってこられないってことですか?」
身を起こしたティニは、不安そうに声を震わせた。ユーダレウスは曇天色のつむじに重く手を乗せた。
「そうだ。この命はこれ一回きりだ。だから、ちゃんと、気をつけて生きろ」
師の手のひらの下でティニは瞬きをする。小さく「はい」と呟くと、また猫のように丸くなった。
この世界に生きる魂は、死を迎えると全て記憶を洗い流され、別な世界に完全な他者として生まれる。この世界に生まれ落ちる魂もまた、別な世界から旅をしてきた魂である。
それは、魔術師だけが知る魂の真実であり、人の手では変えることのできない理であった。
この理が世界に存在するからこそ、死者蘇生の魔術は不可能であり、死者と会話する術もまた存在しない。
死を迎えた瞬間、その者は、もう、どこにも存在しないのだから。
ただし、不可解なことに、この世界にはごく稀に、前の世界での記憶を消されぬまま生まれる者がいる。何故そのようなことが起きるのか、それはまだ解明されていない謎の一つであった。
ユーダレウスはそっと弟子を覗き込む。丸まっているせいで顔は見えず、曇天色の髪の毛先が馬車に合わせて小刻みに揺れているのが見えただけだった。小さな背をそっと撫でると、ティニの形をした温もりが、確かにそこにあった。
人であるならば、どこからか旅をして来た魂をもつ。
そして、それは、いつの日かどこかへ旅立つ魂である。
胸の内に一瞬だけ吹いた冷たい風から逃げるように、ユーダレウスは傍らに蹲った子供の柔らかな髪に触れた。
馬車はガタコトと揺れながら街道を進む。柔らかな初夏の風が、裾を半分ほどあげられた幌の下に吹き込み、馬車の揺れも相まって、うっかり微睡んでしまいそうな心地良さをもたらしていた。
既に脱落しかかっているヒューゴは、母親の膝を枕にして眠たげに瞼を揺らしながら、襲い来る睡魔に抗っていた。
捲られた幌の下から顔を出し、木や草ばかりで代わり映えのない景色が後ろに流れていくのを、ぼーっと眺めていたティニが、ふいに歌を口ずさむ。
『愛しい人よ
銀河の下で まみえたひとよ
われら永劫に 旅をしよう
しにがみの 笑みが二人を別つとも
いつの日か 再会の時ぞ来る
美しい人
われら来たれり 約束の場所
数多の世界を 廻りし旅路
しにがみの 腕が二人 別つとも
いつの日か 再会の時ぞ来る』
澄んだ子供の歌声が紡ぐ旋律は、馬車の中に響き、そして深い森に吸い込まれていった。パーシーとサラに拍手を送られ、振り返ったティニは照れくさそうにユーダレウスの外套で顔を隠した。子守唄の代わりになったのか、ヒューゴは寝息を立てていた。
「……お前、歌詞の意味、わかってるのか?」
師の問いにティニはきょとんとすると、首を横に振った。
ティニが歌った歌の詞は、この大陸の言葉ではない。
この歌の生まれは極東の小さな島国に住む民族だったとユーダレウスは記憶している。
音楽と共に生きて、音楽と共に死ぬと豪語するほど、音楽に秀でた民族だった。
彼らが生む旋律は複雑で、他所から来た者にとっては、たとえ音楽に秀でていても奏でるのが困難なほどだった。ただし、それ故に、その民族が奏でる音楽は身震いするほどに美しかった。
ティニが歌った歌の旋律は、確かに美しいのだが、かの民族の者にしてみれば簡単な部類に入る。それこそ、子供の遊戯に等しいものだ。しかし、だからこそこの歌は、彼らが奏でる他の音楽に比べれば圧倒的に歌い、奏でやすく、旅の芸人によってたちまち広まった。
この歌は、ユーダレウスが覚えている限り、かなり古い時代に流行った歌だ。それこそ、歌詞に使われている言語が廃れ、人の記憶から消える程度には遠い時代のものだ。
「こんな古い歌、どこで覚えたんだ」
「えっと、母さんが時々歌ってたやつです」
ティニの返答に、合点がいったユーダレウスは「なるほど」とこぼす。
ティニは元々旅芸人の一座にいたこと、そして母親がそこの看板歌姫だったことを、道行きの中でとりとめのない話として聞いたのを思い出したのだ。
「……上手く歌えてたぞ」
ユーダレウスはティニの頭を撫でて褒めた。
古い時代の歌だが、技術が進歩した今の音楽と比べても遜色がないほど美しい歌だ。旅芸人の一座でならば、歌詞の意味が分からずとも、歌い継がれていることもあるだろう。
唐突に師に褒められたティニは、驚いて外套から顔を上げると、じわじわと頬を紅潮させて喜んだ。
森の中の街道を進む馬車の車輪は回る。石畳とこすれ合うごろごろとした低い音は、どこか獣の唸る声にも聞こえた。
今朝の獣でも思い出したのだろう、ティニは少しだけユーダレウスに身を寄せた。
「……師匠、あの、朝の獣は……死んじゃったんですか?」
「いや。しばらく意識を失っただけだ」
あの獣は、ただ生きるために、食事をしに来ただけだった。おそらく、あの辺りが獣の縄張りだったのだろう。そこに、知らない生き物がいたから激昂して排除しようとしたのだ。
人間の生活と獣の生活は、基本的には相容れないものである。せっかく杭によって棲み分けていたのに、彼らの領域に踏み入ったのは子供たちだ。それなのに、かの獣の命まで奪うことは、あまりにも理不尽だ。
ユーダレウスは静かに弟子を見下ろすと、話を続けた。
「ただな、もしお前らのどっちかが噛まれでもしていたら、あいつは死んでいた」
ティニが息をのむ音がした。外套がぎゅっと引っ張られるのをユーダレウスは感じた。
「人間は弱くて、食い物なんだと理解しちまった獣は、何度でも人を襲うようになる」
何しろ、人間はそこらじゅうにたくさんいる。足の速い草食獣や、耳が良く、近づく前に逃げていく小動物など、他の獣に比べたら逃げるのも圧倒的に下手だ。鋭い牙や爪もなければ、毒もない。
道具を扱うことはできるが、抵抗になる程の手段を常に持っている者はそう多くない。獣にとって、これ以上手頃な獲物もいないだろう。
味を知ってしまった獣は、いつか、守り石の杭の抜け穴を見つけ、街道に出てくるだろう。人里に現れ、弱い順に獲物を貪るかもしれない。
そして、人間が生きる領域では、犠牲が出てしまってからでは遅い。
「生きててよかったな」
ユーダレウスが呟くと、ティニは神妙な声で「はい」と応えた。
ティニは、ユーダレウスにしっかりくっつきながら、納まりの良いところを探すようにもそもそと動いた。すぐに、丁度いい体勢を見つけると丸くなった。
「……師匠、もし、死んじゃったら、どうなるんですか?」
馬車の走る音の中、ティニはまるで内緒話のような抑えた声で、師に質問を投げる。その掠れた声音は、眠る友人への気遣いか、それとも死への畏怖か。
ユーダレウスは後ろに凭れかかり、考え込むようにゆっくり目を瞑る。
「肉体は土に還る。魂は……遠くへに旅に出る」
「遠く? 戻ってこられないってことですか?」
身を起こしたティニは、不安そうに声を震わせた。ユーダレウスは曇天色のつむじに重く手を乗せた。
「そうだ。この命はこれ一回きりだ。だから、ちゃんと、気をつけて生きろ」
師の手のひらの下でティニは瞬きをする。小さく「はい」と呟くと、また猫のように丸くなった。
この世界に生きる魂は、死を迎えると全て記憶を洗い流され、別な世界に完全な他者として生まれる。この世界に生まれ落ちる魂もまた、別な世界から旅をしてきた魂である。
それは、魔術師だけが知る魂の真実であり、人の手では変えることのできない理であった。
この理が世界に存在するからこそ、死者蘇生の魔術は不可能であり、死者と会話する術もまた存在しない。
死を迎えた瞬間、その者は、もう、どこにも存在しないのだから。
ただし、不可解なことに、この世界にはごく稀に、前の世界での記憶を消されぬまま生まれる者がいる。何故そのようなことが起きるのか、それはまだ解明されていない謎の一つであった。
ユーダレウスはそっと弟子を覗き込む。丸まっているせいで顔は見えず、曇天色の髪の毛先が馬車に合わせて小刻みに揺れているのが見えただけだった。小さな背をそっと撫でると、ティニの形をした温もりが、確かにそこにあった。
人であるならば、どこからか旅をして来た魂をもつ。
そして、それは、いつの日かどこかへ旅立つ魂である。
胸の内に一瞬だけ吹いた冷たい風から逃げるように、ユーダレウスは傍らに蹲った子供の柔らかな髪に触れた。
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