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その日は、とても見事な満月の夜だった。
それは、追う者にとっては好都合で、逃げる者にとっては最低の夜。
逃げ込んだのは、古びた小屋。
暗くて狭い樽の中に押し込められて、細い両手に頬を掴まれて上向かされる。
「お前はここにいな。静かに、じっとして。明るくなるまで」
散々逃げ回って疲れ切った顔の「母さん」はそれだけ言うと、すぐにその場を離れていった。「行かないで」と泣いて縋る暇すらなかった。
知らない男たちの怒号。
粗末な家具たちの断末魔。
知っている男の声が「俺達は何も知らない」と命乞いをする。その直後に、長い物が空を切る音がして、ドサリという重たい音が響いた。
続いて聞こえたのは、甲高い悲鳴。
吐きそうなほどに立ち込める血の匂いを残して、人殺したちは出て行った。
静かになった小屋の中。静かになってしまった、小屋の中。
母の言いつけを破ったティニは、樽の中から顔を出してしまった。そして、見てしまった。
さっきまで生きていたものがふたつ。
知っている顔をした死体がふたつ。
見事な満月がもたらす月明かりは、小屋の窓から入り込んで部屋を照らす。普段は優しく穏やかな月光は、部屋の全てを明らかにした。
亡骸を亡骸たらしめる凄惨な傷も、その瞳の哀しい虚ろさすらも、幼い少年の前に曝け出していた。
――まるで「目を背けておくれ」と言うように。
「ああぁあああっ!」
「ティニ、おい、どうした、ティニ! ティニエト!」
ティニは両手で頭を抱え、声の限りに泣き叫ぶ。腕の中で仰け反った小さな身体を強く引き寄せ、ユーダレウスは負けじと声を張り上げて弟子の名を呼ぶ。
しかし、その声は全く耳に届いていないらしく、何かから逃げ出そうとするかのように腕の中のティニは大きく身じろいだ。
ユーダレウスは舌打ちを一つすると、暴れる身体を落とさないようベッドに横たえる。
「どうしたんだい、ユーダレウス!?」
泣き叫ぶ声が下まで届いたのだろう。マーサ達が階段を駆け上がり、寝室のドアを開けた。
「わからん! ティニが急に……!」
ベッドに横たえられても尚、ティニはもがくようにして苦しむ。
ユーダレウスは忙しなく動く胸に手を宛がった。手のひらに感じる振動は正常よりも不規則で格段に早い。
「ティニ、落ち着け」
覆いかぶさるようにして、涙をこぼしながら恐慌に陥るその顔を覗き込むが、ティニの目は耳と同じようにユーダレウスを捉えなかった。
普通の呼吸と鼓動を思い出させるように、ユーダレウスはティニの胸に置いた手をゆっくり上下する。人の手の体温が触れることで安心したのか、もがくような手足の動きはいくらか落ち着いたが、ティニはとめどなく流れる涙をぬぐうこともせず、引き攣ったような悲痛な泣き声をあげ続けていた。
「……ユーダレウス、この子、訳ありだろう」
背後に立ったマーサが落ち着いた声で問いかける。後ろでミアが小さく息をのんだが、誰もそれを咎めることはなかった。
「どういうことだ、マーサ」
ユーダレウスがティニから視線を逸らすことなく低い声で尋ねる。近寄ってきたマーサが労わるようにティニの額にそっと触れたが、触れられたティニは何の反応も示さずに、ガラス玉よりも虚ろな瞳で空を見つめてしゃくりあげた。
「何か、心に昏いものがある子は、時々こうして、赤ん坊の夜泣きみたいに泣くことがあると聞いたことがある」
曇天色の前髪をかき分ける、皺のある指を眺めながら、ユーダレウスは苛立ったように眉間の皺を濃くした。
その苛立ちが、心の底からティニを案じているからであることをわかっているマーサは、励ますようにユーダレウスの肩をさする。
「……今まで、こんなことは一度もなかった」
「普段はそうでなくとも、何かきっかけになることがあったんじゃないかい」
ユーダレウスは衝動的に天窓を見上げた。真珠の粒のような月は、増えてきた雲に覆われて姿を隠していた。
「一つ、心当たりはあるが……」
ユーダレウスが続きを口にはしなかった。
また発作のようにティニが愚図り始めたからだ。膝の上に座らせるようにして抱き上げ背中を撫でる。胸に凭れるティニの頬に、また新しく涙の筋ができるのを親指で拭った。
涙の根源である目元。そこに嵌る瞳は、過去を見るばかりでまだ現実を映してはいない。
「……とりあえず、今はどうすればいい?」
念のため、発熱がないかとティニの額を確認したマーサは、困ったようにため息をつく。
「自然に落ち着くのを待つしかないだろうね」
「……そうか」
ユーダレウスは腕の中でずり下がっていくティニの身体を抱え直す。その身体は強張っているのにだらりとしていて、まるで生気がなかった。本当に人形になってしまったのではと思うほどだ。流れ落ちる温い涙と、乱れていても息をしていることが、かろうじてティニを人らしく見せていた。
「それなら……見ているだけなら、俺一人で問題ないだろう。あんたらは休んでくれ」
「……根気強くね。何かあったら遠慮なく言いな」
「ああ」
硬い面持ちのマーサに、ユーダレウスは穏やかな表情で頷いた。
その表情の裏に淡い焦燥を隠していることを察したマーサだったが、それ以上何も言うことができず、労わるようにユーダレウスの肩をさすると、メアリとミアを連れて部屋を出て行った。
それは、追う者にとっては好都合で、逃げる者にとっては最低の夜。
逃げ込んだのは、古びた小屋。
暗くて狭い樽の中に押し込められて、細い両手に頬を掴まれて上向かされる。
「お前はここにいな。静かに、じっとして。明るくなるまで」
散々逃げ回って疲れ切った顔の「母さん」はそれだけ言うと、すぐにその場を離れていった。「行かないで」と泣いて縋る暇すらなかった。
知らない男たちの怒号。
粗末な家具たちの断末魔。
知っている男の声が「俺達は何も知らない」と命乞いをする。その直後に、長い物が空を切る音がして、ドサリという重たい音が響いた。
続いて聞こえたのは、甲高い悲鳴。
吐きそうなほどに立ち込める血の匂いを残して、人殺したちは出て行った。
静かになった小屋の中。静かになってしまった、小屋の中。
母の言いつけを破ったティニは、樽の中から顔を出してしまった。そして、見てしまった。
さっきまで生きていたものがふたつ。
知っている顔をした死体がふたつ。
見事な満月がもたらす月明かりは、小屋の窓から入り込んで部屋を照らす。普段は優しく穏やかな月光は、部屋の全てを明らかにした。
亡骸を亡骸たらしめる凄惨な傷も、その瞳の哀しい虚ろさすらも、幼い少年の前に曝け出していた。
――まるで「目を背けておくれ」と言うように。
「ああぁあああっ!」
「ティニ、おい、どうした、ティニ! ティニエト!」
ティニは両手で頭を抱え、声の限りに泣き叫ぶ。腕の中で仰け反った小さな身体を強く引き寄せ、ユーダレウスは負けじと声を張り上げて弟子の名を呼ぶ。
しかし、その声は全く耳に届いていないらしく、何かから逃げ出そうとするかのように腕の中のティニは大きく身じろいだ。
ユーダレウスは舌打ちを一つすると、暴れる身体を落とさないようベッドに横たえる。
「どうしたんだい、ユーダレウス!?」
泣き叫ぶ声が下まで届いたのだろう。マーサ達が階段を駆け上がり、寝室のドアを開けた。
「わからん! ティニが急に……!」
ベッドに横たえられても尚、ティニはもがくようにして苦しむ。
ユーダレウスは忙しなく動く胸に手を宛がった。手のひらに感じる振動は正常よりも不規則で格段に早い。
「ティニ、落ち着け」
覆いかぶさるようにして、涙をこぼしながら恐慌に陥るその顔を覗き込むが、ティニの目は耳と同じようにユーダレウスを捉えなかった。
普通の呼吸と鼓動を思い出させるように、ユーダレウスはティニの胸に置いた手をゆっくり上下する。人の手の体温が触れることで安心したのか、もがくような手足の動きはいくらか落ち着いたが、ティニはとめどなく流れる涙をぬぐうこともせず、引き攣ったような悲痛な泣き声をあげ続けていた。
「……ユーダレウス、この子、訳ありだろう」
背後に立ったマーサが落ち着いた声で問いかける。後ろでミアが小さく息をのんだが、誰もそれを咎めることはなかった。
「どういうことだ、マーサ」
ユーダレウスがティニから視線を逸らすことなく低い声で尋ねる。近寄ってきたマーサが労わるようにティニの額にそっと触れたが、触れられたティニは何の反応も示さずに、ガラス玉よりも虚ろな瞳で空を見つめてしゃくりあげた。
「何か、心に昏いものがある子は、時々こうして、赤ん坊の夜泣きみたいに泣くことがあると聞いたことがある」
曇天色の前髪をかき分ける、皺のある指を眺めながら、ユーダレウスは苛立ったように眉間の皺を濃くした。
その苛立ちが、心の底からティニを案じているからであることをわかっているマーサは、励ますようにユーダレウスの肩をさする。
「……今まで、こんなことは一度もなかった」
「普段はそうでなくとも、何かきっかけになることがあったんじゃないかい」
ユーダレウスは衝動的に天窓を見上げた。真珠の粒のような月は、増えてきた雲に覆われて姿を隠していた。
「一つ、心当たりはあるが……」
ユーダレウスが続きを口にはしなかった。
また発作のようにティニが愚図り始めたからだ。膝の上に座らせるようにして抱き上げ背中を撫でる。胸に凭れるティニの頬に、また新しく涙の筋ができるのを親指で拭った。
涙の根源である目元。そこに嵌る瞳は、過去を見るばかりでまだ現実を映してはいない。
「……とりあえず、今はどうすればいい?」
念のため、発熱がないかとティニの額を確認したマーサは、困ったようにため息をつく。
「自然に落ち着くのを待つしかないだろうね」
「……そうか」
ユーダレウスは腕の中でずり下がっていくティニの身体を抱え直す。その身体は強張っているのにだらりとしていて、まるで生気がなかった。本当に人形になってしまったのではと思うほどだ。流れ落ちる温い涙と、乱れていても息をしていることが、かろうじてティニを人らしく見せていた。
「それなら……見ているだけなら、俺一人で問題ないだろう。あんたらは休んでくれ」
「……根気強くね。何かあったら遠慮なく言いな」
「ああ」
硬い面持ちのマーサに、ユーダレウスは穏やかな表情で頷いた。
その表情の裏に淡い焦燥を隠していることを察したマーサだったが、それ以上何も言うことができず、労わるようにユーダレウスの肩をさすると、メアリとミアを連れて部屋を出て行った。
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