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エピローグ

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 今宵こよいも吉原の街は人々で溢れかえっていた。その中央を闊歩かっぽする女性に、皆が道をけた。空けなくてはならないような、そんな気品をまとっていた。

「ヒュー、別嬪べっぴんじゃねーの、あの娘どこのだ?」
「おめぇもぐりだな? あの方は叶乃きょうの屋の桔梗ききょう様だよ」
「遊女を様付け? 花魁なのか? それにしても地味な装いだったが」

「阿呆! ここで遊びたきゃしっかり覚えて行きな。あの方は吉原一の妓楼ぎろうの主、女ろうしゅ様だ」






「桔梗さん、おかえりなさい」

 おかえりなさい。と、ところどころで木霊こだまする。

「お出迎えありがとうございます」

 履き物を脱ぎ、自室に入ると大きな溜め息をつく。

「……女だからって舐めてくれる」

 舌打ちしたい気分を息を吐くことで落ち着かせる。

「どうしたのご主人」
「今日の集会ですよ。女ひとりで切り盛り出来る筈がないだの散々言われたんですよ」
「失礼しちゃうねー。俺も一緒に頑張ってるのにさー」
「貴方、常に忍んでるから認識されてませんよ」
「あ、そうだった。いやーくせって中々抜けないよねー。でもいいや。誰にも知られなくても、あんたの物でいられるなら」

「物じゃありません」

 桔梗、ことあきは、赤兎せきとと目を合わせて力強く言う。

「家族です」

 赤兎は不意を突かれたように目をみはり、次いで照れたように頭を掻いた。

「へへっ」
「そうだ。明日はお墓参りに行きますよ。見世のたちもしっかりしてますし、少し留守にしても大丈夫でしょう」
「あ、もしかして桔梗さんと二乃助のお墓?」
「こら、一応年上には敬称を付けなさい。それと、今は姉さんの源氏名を借りてますが、彼女の本名はかなさんですよ」

 すると赤兎はパチパチと目をまたたいた後、溢れんばかりの笑顔を浮かべた。

「え、どうしました」
「ようやく教えてくれたなーって」
「あれ? そうでしたか? てっきり話してるものだと。すみません、不安にさせましたか?」
「んーん、実は知ってた。だけどそれは自分で調べたからで……。俺はそのカナエさんにとっては他人だし知らないのが普通でしょ? だから、ご主人の口から聞けたのが嬉しいんだ」
「はい? 何寂しいこと言ってるんです。貴方は私の家族でしょう。なら姉さんたちにとっても家族同然です。じゃなきゃ明日も同行を頼みませんよ」
「……うん、ありがと。実はずっと会いたかったんだー。特に二乃助!」
「さん! くっ、この私があの人に気を遣うなんて……っ」
「ならよくない?」
「許可したいですが一応けじめはつけないと。あ、でもそこの住職じゅうしょくさんは別に呼び捨てでも構いませんよ」
「ご主人ってわかりやすいよねー」

 その住職が誰か知っている赤兎は可笑しくなって笑った。この人の取りつくろわない性格が昔から好きだった。それこそ傍にいたくて、あっさり忍び稼業かぎょうを辞めるくらいに。おかしらとはちょっとめちゃったけどね! ご主人が気に病むといけないからこれは内緒。

(家族かぁ)

 自分には一生縁のないものだと思っていた。だが嬉しい半面、複雑な気分にもなる。

(どこまで行っても弟のいきなんだよなぁ)

 けれど知ってる。この人にとって一番大切なのが恋人でもなく家族なんだって。だから、今はそれで、いい。きっとこの人もそれを望んでる。

「ねぇご主人」
「なんですか」
「姉さん、って、呼んでも、いい?」

 でもやっぱり、と少し踏み込んでみる。もっと近くに。そしていつかは……。

 今度はあきが目をみはる番だった。何をそんなに遠慮しているのなら。不安げな様子の赤兎に呆れる。こっちは出逢った時からそのつもりでいたというのに。とにかく今更だった。あきは苦笑すると、ビクリと肩を揺らす赤兎のえりを掴み引き寄せると、その耳に顔を近づけ、


「待っていたくらいですよ」


 吐息と共に吐かれた台詞せりふに、赤兎は耳を押さえて真っ赤になった。この人は時にとんでもないことを平気でやらかす。それがまた無自覚だからたまったもんじゃない。

「ご主人のはれんち!」
「あら、姉と呼んでくれるんじゃなかったのですか」
「……っ、いつか絶対俺が勝つから!」
「私たち何か勝負してましたっけ?」

 真っ赤になりながら怒る赤兎に、あきはこてんと首をかしげた。








「いらっしゃいお二人方」

 翌日、笑顔で迎えてくれたのは、ここがん命寺みょうじの住職、浄安じょうあんだった。

「貴女から訪問のふみを頂いた時は驚きましたよ。忙しいのは重々承知してますからね。こんなに早くお見えになられるとは」
「遅いくらいですよ。もっと早く伺う予定だったのに上層部がやかましくて……。いえ、ここで愚痴ぐちはよします」
「ふふ、随分と有名になられましたね。桔梗さんの名前がここまで届いてますよ」
「どちらの?」
「もちろん、女楼主の、です。私の桔梗さん――叶絵かなえさんは、ここに眠っていますからね」

 浄安、もとい木ノ下壮碁そうごは愛し気に目を細めた。

「じょーあんさん、二乃助どこー?」
「だから、さん!」
「ははっ、貴女の手を焼かすなんて、彼は大物ですね」
「ほんとですよ。それなのにあの子は私が振り回してるようなこと言うんですよ? 逆ですよね」
「……そうですね」
「今の沈黙の間に何を考えたのか事細かく教えて頂けませんか?」
「あ、いえ! ほら、あの子、」
「赤兎です。文に書いた筈ですが?」
「赤兎くんが呼んでますから!」
「じょーあんさん! まだー?」
「……仕方ありませんね。案内をお願いしても?」
「はい!」

 壮碁とあきの付き合いは遡れば十年と言わない。決して仲がいい訳ではないのに、なぜか切れない縁がある。それを人は腐れ縁と呼ぶのだが、きっと彼らがそれに気づくのは互いに老いてからだろう。

 案内して貰った目的の墓は、こけ一つ雑草一本なかった。毎日綺麗に手入れされているのが一目でわかった。

「では私は仕事に戻ります。ゆっくりして行って下さいね」
「ありがとうございました」
「ありがとー。お仕事頑張ってねー」

 無邪気に手を振る赤兎に壮碁の頬が緩む。
 あきが膝と着くと、赤兎も習って膝を着いた。

「姉さん、二乃助さん、来ましたよ。お久しぶりです」

 手を合わせると、二乃助さんの「おせーよ」と、姉さんの「いらっしゃい」という声が聞こえた気がした。いや、きっとそう言っているに違いない。

「知ってます? 今、吉原に人魂が出るって噂になってるんですよ。いったい誰なんでしょうね」

 言いながらあきは笑った。誰かなんてとっくに気づいてる。呼んだら来るとか言っておいて、まったく。二人とも心配しすぎだ。

「この子は赤兎。会わせるのは初めてですね。彼は私たちの新しい家族で、弟で、そして、私の右腕です。どうか彼のこともお見守り下さい。それと、」

 あきはずっとこれを言いたかった。

「私は今、幸せですよ。きっと、これからも幸せです。だから安心して見てて」

 二人から望まれたのだ。多少の困難に当たったくらいで折れる訳にはいかない。それに私の隣には赤兎もいてくれる。もはや負ける気がしなかった。

「さて、名残惜しいですがそろそろ戻りますか」

 正直離れがたかったが、今の自分はいち妓楼を支える女楼主だ。明日からまた気持ちを入れ替えて頑張らないといけない。それに、これから先も訪れる機会はいくらでもある。

「赤兎?」

 墓を凝視したまま動かない彼に声を掛けると、赤兎は「ごめん」と両手をパンっと打った。

「ちょっと俺ひとりにして貰える?」
「え? ええ、構いません、けど」
「ありがとー。あとでちゃんと戻るから、じょーあんさんのとこで待ってて」
「……はい」

 拒絶というほどのものではないが、彼が自分を遠ざけるようなことを言ったのは初めてで、あきは動揺する自分に驚いた。

「ご主人?」
「あ、いえ、すみません。……貴方も……離れていきそうで……」

 呟いてからしまったと思った。これでは縛り付けるようなものだ。きちんと彼の自由も尊重してあげねば。慌てて訂正しようと俯きかけていた顔を上げる。すると、なぜか赤兎が顔を両手で覆って天を仰いでいた。……何やってんだろ。

「だから! そーゆーとこ!!」
「何が!?」
「もう! 俺が離れる訳ないでしょー!」

 そっか。安心した。けれどなんで怒ってるんだろ。赤兎は未だ「もうもう」と言っている。牛か。

「じゃあ私は行きますね? ちゃんと戻って来て下さいよ?」
「わかったからわかったから!」

 あきは何度も振り返りながらその場を離れていった。そしてようやくひとりになった赤兎は、それはもう深い溜め息をはいた。

「もー何あれぇ。無自覚こわい」

 あの人は好き嫌いがはっきりした人種だ。ふところに入れた人間にはとことん甘い。それが嬉しくもあり、歯がゆくもあった。出逢った当初は、それまでろくに食べていなかったせいで背も低かった。だから年下扱いされても仕方ないと諦めた。けれどあの人の元でしっかり栄養をれば、あっという間に背は追いついた。だのに、肝心のあの人は叶絵さんと二乃助に夢中でまったく気づかないし、おまけに復讐相手に気を遣って体調を崩すし! あの時、何度楼主を殺しに行こうかと思ったことか。けれど、それをやるとあの人が哀しむのを知っていたから我慢した。一年間ずっと気掛かりで、下見と言って江戸に行くとか言った時はさすがに怒った。体調を考えろと。まぁ怒って聞く性格の女性ひとじゃないとは知ってたけどもね!

(着いて早々消えちゃうし!)

 叶絵さんが亡くなったという妓楼の跡地で少し時間が欲しいとお願いされ、先に宿を探すことにした。場所は覚えていたし、宿の予約を取ってすぐに戻ったらあの人の姿が消えていた。あの時の絶望感といったらもう! 吉原中を探し回って何度も跡地にも戻った。いなくなってた時間は半日だったかもしれない。けれど何年も経ったような感覚だった。戻って来たあの人の姿を捉えた時、思わず力いっぱい抱きしめた。抱き潰したと言っても過言じゃない。謝られたし探したことへの礼も言われたけれど怒りは収まらなかった。主にあの人を連れ去った叶絵さんに。――これは知られると怒られるから内緒ね。もういっそ閉じ込めてしまおうかと思えば、突然身長の話を持ち出すし! 今なの! ってあの時は思ったよ! あの人は同じくらいとか思ってたみたいだけど、俺の方が高かったからね! 今はもうそんな錯覚さっかくも起こさせないほど伸びた背は、あの人のつむじを見下ろせるくらいだ。

 ふー、と、再び赤兎は息をつく。

(まったく脈がないと思ったら、突然びっくりするようなこと言うし!)

 心臓を鷲掴わしづかみどころか手の平の上でもてあそばれている気分だ。だけど負けられない相手がいる。たとえ同じ土俵に立つことがないとわかっていても。

(……二乃助)

 あの日起こった話を聞いてわかったことがある。昔から何かとあの人の口から名前が出ていた二乃助。名前を聴く度に気に喰わないと思っていたけど、想像以上にムカつく男だった。あの人の髪に触るわ結うわ(額の口づけのことはさすがに伏せたあき)、とにかくベタベタしすぎ。だから今日は色々ぶちまけるつもりで来た。

 赤兎はにっこり笑みを浮かべると、手を合わせて愛想よく話しかけた。

「初めまして! 俺、赤兎。あ、ご主人がさっき紹介してくれたんだったね。さてと、叶絵さん、と二乃助。まずはご主人を愛してくれてありがとう。あんたたちのおかげで、俺はご主人に出逢えたから。ご主人は俺にたくさんの感情を教えてくれてね、ただの道具だった俺を人間にしてくれたんだ。でも人間って不思議だね。どんどん欲張りになるんだよ。俺さ、昨日からご主人を姉さんって呼ばせて貰えるようになったんだ。まだ照れ臭くって呼べてないけどね。けど、俺はそこで満足する気はないよ。ゆくゆくは奥さんって呼びたいし、名前も呼んでみたい。……ねぇ二乃助、きっとご主人はあんたが好きだよ。まぁご主人は気づいてないみたいだけどね! 気づかせるつもりもないから安心して眠ってていいよ! 俺はねーずっとあんたに言っておきたかったんだ。今はあんたの存在がデカいけど、いつか絶対追い越してやるから。だからあんたはそこで指をさしてー……ん? くわえて? ま、どっちでもいいや。見てなよ。俺が責任持ってご主人を幸せにするからさ!」

 言いたい放題言った赤兎は、満足したのか二度ほど頷き、「またね」と手を振ってあきの元へと駆けて行った。




(あんクソガキ! 最初はいい奴だと思ったら普通にムカつくガキだった!)

 その後の二乃助は荒れに荒れていた。無論、誰にも視えていないが。

(兄様落ち着いて。せっかくあきが来てくれたのよ? もっと喜びましょう)
(喜んでたよ! あいつが現れる前まで喜んでたよ! おれにもさん付けろよ!)
(……そこなの)
(あきがおれのこと好きだあ? 馬鹿かあいつ。おれとあきがいくつ離れてると思ってんだ)
(と言いつつ、内心おだやかじゃないでしょ)
(ったりめーだ! 結局おまえには止められるし、でも確かに、あいつの未練になったらわりーなって、そう、大人になって! こっちは我慢したっつーのに! あのガキ! 堂々と宣戦布告せんせんふこくしやがった! ふっざけんな!)
(今の兄様はまったく大人じゃないわよ)

 叶絵は呆れた。あの時、兄を止めたのは少し悪かったかもしれない。けれど、これから前を向く彼女を引き留めるような真似はしたくなかった。自分たちは見守ることしか出来ないのだから。しかし、それも行き過ぎてあきに指摘されてしまった。違うのよあき。いっつも兄様が勝手に飛びだして行くのよ。

(知ってる兄様? わたくしたち、吉原で怪談になっちゃってるわよ)
(う……。だってあいついじめられてんじゃねーかと。女の楼主とか舐められるだろ? 心配じゃねーか)

(そうね。一緒に見に行くわたくしも同罪ね)
(……全然名前呼ばねーし)
(あきはすぐへこたれるような子じゃありませんからね)
(おまけに変な虫はついてるし!)

 叶絵は付き合っていられないと眠った。こうして安らかに眠っていられるのも、あきが『桔梗の怨霊』の噂を見事に上書きしてくれたおかげだ。

(おい! カナ! おれを見捨てるなよ! カーナー!)

 かつて頼もしかった兄の面影おもかげはそこにはなかった。あるのは嫉妬に囚われるただの男。カナは眠ったふりをしながらふっと笑った。いつも自分たちの為に身を裂いて来た兄が、やっと自由になったのだ。まぁ自分くらいは応援してあげようと思った。え? もう死んでるのにって? そんなの微々たる問題だわ!




 遊郭吉原にはいくつもの怪談があった。その中のひとつにこんなものもある。それは吉原一の妓楼『叶乃きょうの屋』の空を、夜な夜な二つの人魂ひとだまが飛び交うとか。

「え? 毎夜ですか?」

 たまたま吉原を寄った旅人が訊くと、中年の語り部の男がにやりと笑って肯定した。

「ひえ! お祓いとかしなくてもいいんですか?」
「いいんだよ。あれは今じゃ吉原の名物だからな。あんたも見ていくといい」
「人魂が名物って!」

 旅人はそんな馬鹿なと思いながらも、わざわざ一泊し、噂の妓楼の空を見上げた。そして息を呑む。二つの人魂が円を描くように飛んでいたからだ。だが不思議と怖いとは感じなかった。なぜか、直感でわかってしまった。あの人魂たちは誰かを見守っているのだと。ここまで想われるその誰かが少し羨ましいと思った。が、

(さすがに毎夜は勘弁だな)

 一途すぎて若干じゃっかん引いた。しかし、それはそれで面白い。いい土産話が出来たと、旅人は嬉しそうにさかずきを傾けた。
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