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~第一章~
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世の中は広い。そりゃ色んな人間がいるもんだ。腐った奴なんて山ほど見て来たし会いもした。よほどのことじゃあ驚かない自負もあった。それを今撤回しよう。
「こんなにも早くお会いするとは思いませんでしたよ。まぁ私は約束は果たす方です。きちんと責任は取りましょう」
「ちがっ、え! あれは私に対する鼓舞じゃなかったのですか!」
「なぜ嫌いな相手をわざわざ励まさなければならないのですか。紛れもない本音ですよ」
「えええええええええっ!?」
……うん。訳わからん。とにかく、今は状況把握が先だ。決して現実から目を背けている訳でない。決して。
おれの名は二乃助。歳は二十歳。困ったことに少し前から怪奇現象というものに目下巻き込まれ中である。ここは怨霊が巣食う妓楼、櫻花。住み込み妓夫のおれが言うんだ。場所は間違いはねぇ。しかし疑問は増える一方だ。なぜウチが化け物屋敷になったのか。妓女たちは避難したのか。妹も含め、櫻花の人間が誰もいない。おれ以外は――。
「この腕を離しなさい。さもないと一息に殺して差し上げませんよ」
「待って待って待って!」
……あいつらさっきからうるせーな。
なるべく視界に入れないようにしていたが、そうもいかなくなった。いよいよ女の持つかんざしの切っ先が、男の喉元を突こうとしていた。女は軽装かつ、今は長い髪を下ろしているが、きっとどこかの見世の遊女なのだろう。この苦界に長くいると雰囲気で堅気かどうかわかるってもんだ。しかし、そもそも誰だこいつら。いや何者だ? あれだけおれを避けていた化け物が、二人を止めようとしている。まるで知り合い……なのか? あの残虐な化け物が、慌てているようにも見える。いや、確かに坊さんを刺殺しようとする遊女の絵面は道徳的にどうだろうっておれも思ったけどさ。だから無視していたんだが、あの三人(化け物含む)がそれぞれ知り合いだとしたら、坊主を易々殺らせる訳にもいかねぇ。てか、おっかねーなあの遊女!
「ちょいとお二人さん」
おれは意を決して二人に話しかけた。化け物がホッと胸に手を当てた。顔は相変わらず見えない奴だけど、どうもこいつ、おれのこと知ってる風なんだよなぁ。
「二乃助さん!」
「チッ、もう傍観はお止めになられたのですか? あと少し待ってて頂けます?」
坊さんの涙いっぱいの瞳と、溢れんばかりの殺気を放つ女の瞳が同時に向けられる。あ、やっぱ早まったかも。
「ああっと、まぁ、なんだ? 美女に馬乗りされるなんて男冥利に尽きるじゃねーの」
同時に命も尽きそうだが。
「冗談じゃないんですよ! この人本気で私を殺すつもりなんですよ! 私が貴方に頼めた義理じゃないのは重々承知ですが、今だけは助けて下さいいいいいいいい!」
必死か。
「本当に頼めた義理じゃありませんよね。どういう思考回路をなさっているのかとても興味がありますよ。その頭かち割って中身を覗いてみましょうか」
「いいいいやあああああ!」
「ほら! 泣いてるじゃん! やめてあげて! ね?」
「この人は昔っから泣けばいいと思ってるんですよ」
容赦ねぇ……。こりゃ口で言って聞く奴じゃねぇな。はぁ、仕方ない。
「いい加減ちょっと落ち着けおまえら」
ガチ泣きの坊主から女を放すと、坊主は這って逃げ、女は振り向きざまに手を上げた。を察知してよけるおれ、さすが優秀。じゃなくて、
「なんなの? なんでおまえそんなに凶暴なの? お願いだからおれの邪魔はしないでくれる?」
「それはこちらの台詞です。貴方のおかげで殺り損なったじゃありませんか」
あれ、最近空耳が酷いな。取ると殺るを聞き間違えるなんて。うん、聞き間違いだよね。
「だいたい貴方がなぜ彼を庇うのですか。私の納得いく理由が勿論あるんでしょうね」
山猫を連想させる大きな目が鋭く光を放つ。歳の頃は妹より三つ四つ上だろうか。こんな女、一度会ったら忘れない筈だ。色んな意味で。
「おまえらは何か勘違いしてるかもしれねぇけど、おれはおまえらを知らねぇからな?」
「は? 貴方、二乃助さんじゃないのですか?」
いや! 確かに二乃助はおれですけども!
女の怪訝そうな言い方に口ごもる。
「たぶん、おれは、おたくらの言う二乃助さんじゃないと思います」
その直後だった。パァンパァン! と連続して小気味良い音が辺りに響く。打たれたと気づいたのは、両頬がじんじんと熱を持ってからだ。
しばらく呆気に取られていると、眼前の女が叩いた手をそのままに言った。
「すみません。まだ寝ぼけてらっしゃるのかと思って」
「だからって二回も殴るか普通!」
「二発目は故意です」
しれっと女が言う。このクソ女!
今にも喧嘩に発展しそうなおれたちの間に入ったのは、意外にも化け物だった。女の方を向いている。幾つもの上品なかんざしが艶やかな髪の上で揺れ、生前はきっと位の高い遊女だったんじゃないかと思わせた。
「え?」
クソ女の声だけが聞こえる。
「は? なんでそんな面倒なことに?」
化け物はしゃべれなかった筈だ。どうやって会話してんだおまえら。
「はああああああああぁぁぁ……」
会話が終わったのだろう。それはもう、腹の底から深い溜め息をはいた女が額を押さえていた。
「ハゲ下さん」
「木ノ下です!」
「この人、どうやら記憶を失くしているみたいですよ」
「え?」
…………え。
ちょっと失礼。いったん頭の整理をすることにする。
ここはおれの見世で、でも今は化け物屋敷になっていて、いつからそうなったのかは覚えがない。
ただ、たまに人が迷い込んで来ては化け物に殺された。そう、目の前にいる遊女の化け物だ。殺し方はえげつないし、おまけに顔は見えねぇときた。けれど、不思議と怖くはなかった。何度か会話を試みても、化け物はおれを避けた。避け続けた。今、この時までは。
化け物が襲う人間は逃げるのに必死だったのか、誰ひとりおれに気づこうとしなかった。声をかけても無視する者もいた。
ただ一つわかっているのは、この化け物が『桔梗』という名前だということ。本名はよほどの仲じゃなければまず知りえない。となると源氏名か。彼女の顔は先も言ったが見えない。どう見えないかというと、うーん、難しいな。こう、月の出ねぇ夜って言やぁわかるか? 前髪の生え際から下がとにかく真っ暗なんだ。ゾッとするだろ? まだのっぺらの方がマシだ。とにかく、顔だけだ。おれがわからないのは。あとは凝った衣装や重そうな髪型から、生前は花魁だったかもしれないということ。だが、おれの記憶に桔梗という花魁は存在しない。もちろん見世にもだ。ここ櫻花は割と吉原でも名を馳せている。そんなうちが他所の花魁、言わば好敵手を見落とすとは思えない。
遊郭と聞けば大抵の野郎は極楽浄土を想像する。が、それは上辺だけだ。揚げ代が払えなくなった奴は人知れず始末され、売られて来た女は身も心も拘束され、自ら命を絶つ。そして幕府は、それを知っていても見て見ぬふりだ。どこが浄土だ。アホらしい。だがそんな中でも強く生きる女だっている。男よりよほど男らしい。
おっと話が逸れたな。あ~何を話していたんだっけな。ああ! そう、その顔の見えない幽霊。今からは桔梗と呼ぶな。もう五日も前のことだ。いつものように客を引こうと外に出ると誰ひとり歩いていなかった。ありえないことだ。いくら安政(※元号)になってから客足が減ったとはいえ、馴染みの姿すら見えないのは不自然すぎた。慌てて見世に引き返し、また驚く。楼主も女将も遊女たちも姿を消していた。信じられない気持ちで妹を探す。そこで現れたのが先の幽霊、桔梗だった。おれの勘が、こいつのしわざだと言っていた。
「おれの妹をどこへやった……!」
あんなに叫んだのは久しぶりだった。
顔があろうが無かろうが幽霊だろうが、妹に害なす奴は、例え殿さまだって許さない。
その後も色々罵倒したと思う。が、顔を見せないくせに、どうしてかおれが悪い気持ちになって、口汚く罵った自分に後悔した。桔梗からは哀しみの匂いしかしなかった。とても哀しい、哀しい、そんな気持ちがひしひしと伝わり、思わず謝って、抱きしめて、慰めてやりたくなった。
その日はとりあえず妹の無事を祈りつつ就寝した。ここぞとばかりの楼主の部屋を使ってやった。いい気分だ。しかし目覚めは最悪だった。女の甲高い悲鳴に叩き起こされ、慌てて声のした方に向かうと、ちょうど頭上で女の四肢がもがれ、血と共に飛び散ったところだった。
「ちょっと聞いてます?」
ハッと意識を戻す。目の前にはしかめっ面の女。
「その顔、聞いてませんでしたね」
そうだ、あれから人間が現れる度に同じように殺された。不思議なのは殺された後。血も死体も綺麗に消え、あの惨劇は夢だったんじゃないかと今でも思う。それともうひとつ、やっぱりおれは桔梗を嫌いになれなかった。化け物だとか言っていたが、心からは思っていない。声を聴きたい。顔を見たい。おまえはおれのなんだ――?
「戻って来て早々またどこかに行かないで貰えます」
「え?」
「……はあ」
これ見よがしに溜め息をつかれムッとする。こちとら色々あったんだから物思いぐらい浸らせろ。
「ご自身はお幾つのつもりなのですかと散々訊いているんですが、呆けるほど歳を取っているのなら仕方ありませんね」
「誰がじじいだ!」
「ならさっさとお答え願えますか? こっちも暇じゃないんですよ」
こいつ……っ、
(これまで色んな女を見て来たが、ここまで生意気な女は…………)
……今、何か頭をよぎったような……気のせいか?
気を取り直して頭を掻く。
「二十歳だ。あんたとそう変わんねー筈だ」
「チッ」
「今のどこに舌打ちされる謂れがあったかオイ?」
こいつ舌打ち多くね? それも堂に入ってるし。本当に女かよ。
「それじゃあ私を覚えていなくて当然じゃないですか。なんで忘れてるんですか頭でも打ったのですか? また打てば思い出しますか?」
「落ち着け! そしてこぶしはしまえ!」
え? これっておれの落ち度なのか?
「姉さんのことはもちろん覚えてらっしゃいますよね?」
「って、そこの幽霊のことだよな?」
「ハゲ下さん命拾いしましたね。先に片付ける相手が出来ました」
「木ノ下ですってば! 事情があるんですよきっと、彼のお話を伺いましょう!」
「どんな理由があれ姉さんを忘れるなんて万死に値します」
「君がお姉さんを慕ってるのは十分理解してますから! ここは私に任せて下さい!」
「えっと、あんたがハゲ下さん?」
「あんたらわざとですか」
凶暴女と入れ替わり坊さんが前に出た。頭は綺麗に丸められ、修行服に袈裟を身に着けている。パッと見たところ三十路手前だろうか。まだ若いのにどうしてとも思ったが、人の好さそうな顔つきは、案外僧に向いているのかもしれない。
「私の名前は木ノ下壮碁と申します。願命寺という場所で住職をやらせて貰っています」
「は? その若さで?」
「ふふ、よく驚かれますが、私はこの道十年ですよ。ちなみに今年で二十九になりました」
「はあ? 十九で出家したのかあんた。ああ、失礼、『あなた』ですね」
「……そんな、畏まらないで下さい。私は逃げたのです。俗世から。それに私より貴方の方が……」
「余計なことまでは言わなくていいです」
「すみません!」
「……おまえらの関係って何?」
住職っつったら高僧じゃねーの? いいの? そんなに雑に扱って。そういやさっきも必死の攻防が行われてたな。まぁ必死だったのは主に坊さんだけど。
「そして彼女は、」
「自分の紹介まで頼んだ覚えはありませんが?」
「誠に申し訳ない!」
どんだけ腰低いんだあんた!
「あんま坊さんいじめてやるなよ! 見てるこっちがハラハラすっから! 道徳的に!」
深々と頭を下げた坊さん、壮碁さんは静々と後ろへ下がった。結果、女と睨み合う形になる。そして女は手の平で幽霊を指し、
「彼女は桔梗姉さんです」
「いやおめぇの紹介じゃねぇのかよ」
「……桔梗姉さんですよ?」
「いやもう、そいつの名前は知ってっから」
おいおいおい、こいつ視線で人殺せるぞ。
「まだ、おわかりにならないと?」
「だーかーらー、おれにはそいつの顔が見えねぇんだよ」
今度はパチクリと目を丸くする女。ようやく反撃できた。
「見えない?」
「名前は殺された奴らから聞いたんだ。顔は最初から見えねぇんだよ。なんでか」
女は幽霊とおれを交互に見た後、何か考えるように口に手を当てた。
「……拒絶……」
「あ?」
「いえ、そのような事情があるのなら仕方ありません。今回は勘弁して差し上げます」
「あのよ、なんでおまえ、そんなに偉そうなの?」
壮碁さんが後ろでシッと指を立てた。一応あなたも思ってるんっスね。
「それで? これまでに何人死にました?」
「サラッと訊くな! つか数えてねーし!」
「チッ、……姉さん」
女は、思いっきり役立たず! とおれを睨んだ後、幽霊に話を振った。あれー? おれってば結構女ウケ良かったんだけどなぁ。女からこんな酷い仕打ち受けたのは生まれて初めてだわ。話が終わったのか(幽霊の声は相変わらず聞こえなかった)、再び女がおれを見る。
「取りこぼしがあとひとりいるようです」
「え、なんの?」
「危険なので団体で行動しようと思いましたが、一刻も早く見つけたいので二手に分かれましょう」
「おーい。おれの声聞こえてるー?」
「では二乃助さんはハゲと」
「とうとう下も無くなった!」
「頑張れ坊さん! じゃなくて詳しく説明しろ! 取りこぼしってなんだよ!」
「姉さんの祟りから逃げ回ってる馬鹿のことです。向こうもこちらを敵視しているでしょうから攻撃される恐れがあります。見つけたら速やかに仕留めることをお勧めします」
「お勧めされたくねぇよそんなこと! てか祟りっつった? え、あの殺された奴らは祟られたのか? そいつはただの幽霊じゃなかったの?」
「優しくてお淑やかで美人な怨霊ですが何か?」
「優しい怨霊ってナニ!?」
怨霊って怨霊って! あれか、菅原公みたいな? マジか! つかなんで親し気なんだよおまえも! そしておれは重大なことを思い出した。
「つか、結局おまえ名乗ってねーけど!」
仕切っている奴が一番謎を残してやがる。さすがのおれでもわざとだとわかる。
「……必要ですか?」
「いざとなった時に呼べねーと困るだろ。何? 名乗りたくない理由でもあんのか?」
「いえ、以前教えた名前を忘れられた屈辱と、もう一度教えなければならない二度手間に戸惑ってしまって……」
「おれも今、超戸惑ってる。 おまっ、普通に私情じゃねーか! 気ぃ遣って損したわ!」
しかも口悪っ! 丁寧に言やぁいいってもんじゃねぇぞ!
「あんたがおれにキレてんのはわかった。ちゃんと思い出すから、今は名前を教えてくれ」
「私が怒っているのはそれだけじゃありませんよ?」
「まだあんのかよ! ああもうっ、とりあえず今は仲良くしようぜ。な?」
「結構です」
「……」
無言で壮碁さんの方に目を向けると、もの凄い勢いで視線を逸らされた。
「どうしました姉さん?」
「え?」
「え~……」
「…………はい」
沸き上がる怒りを鎮めようと努めていると、幽霊に何か言われたらしい女が、不服そうに唇を尖らせていた。
「姉さんから貴方あなたの面倒を見るよう仰せつかりました」
桔梗さあああああん!
思わず怨霊をさん呼びである。
「大変不服ですがよろしくお願いします」
「おれの台詞だから!」
「そうなると確かに名前が必要ですかね。源氏名で宜よろしければ、私のことは呂布と」
「一騎当千んんんんん! おまえの見世、どこに向かおうとしてんだよ!」
「それか項羽にするか大変迷いました」
「しかも名付け親おめーかよ! なんでどっちも中華最強の武将なんだよ!」
「強くて格好良いじゃないですか」
「つよ、いや、せっかく知識が豊富なんだから、どうせなら傾国の美女の名前とかよ」
「強い方がいいんです。強くなければ、何も護れないと知っているので」
「……まぁ、一理あるわな。でもなんで中華? いや中華が嫌いとかじゃなくて、日本は駄目なの?」
「日の本だと姓も含めて長くなるので」
「そこかよ!」
だが普通、男の名前を付けるか? 周りは止めなかったのか? どうも今まで知り合った女たちとはかけ離れて過ぎてて扱いに困る。
「改めて訊くけど、遊女なんだよな?」
「今更ですね」
確かに軽装とはいえ、化粧は遊女の仕様だ。愚問だった。故に尚更思うのだ。
「客取れてる?」
失礼を承知で訊ねる。
客足を気にするのは妓夫の性分だが、それ以上に好奇心が勝った。呂布という名の妓女を指名する奴が存在するのかと。
「余計なお節介ですね。心配しなくてもうちは大繁盛です」
「嘘だろ!」
「失敬な。夜な夜な熱く盛り上がってますよ」
「そういうことは人前で言っちゃ駄目!」
「今は三國志にハマっていますね」
「って歴史の話かよ!」
「時に平家物語で熱く議論を交わしたり」
「そこは枕を交わせ!」
「な! 何を恥ずかしいことを! 下世話です! 軽蔑しますよ!」
「え? おれがおかしいのか?」
あれ? 遊郭とは? 遊女とは? いかん、わからなくなってきた。
ふと背後に目をやると、桔梗とやらの幽霊が腰を折り曲げて震えていた。もしかして笑ってる? ジワリと心が温かくなるのを感じた。この感覚は覚えがある。どこで?
「ふふ、なんだか懐かしいですね」
女がどこか眩しそうに微笑んだ。
「貴方がいて、姉さんがいて……あの頃が一番幸せだったかもしれません」
「おれもだよ」
…………は?
「やっと笑ったな」
な、んだ……? 口が、勝手に……。
「あき」
あき……?
「二乃助さん? もしかして思い出して……?」
皆の視線が集中する。おれは何を言っているんだ?
ガツン、と頭に楔が打ち込まれた感覚がした。それを皮切りに、激しい頭痛と動悸が同時に襲って来た。
「うっ、あ……っ」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン……ドクンドクンドクンドクンドクン……ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク!
「はっ……はっ……」
何なんだ急に。どうしたんだおれは。
たまらず心臓を押さえる。跳ね上がる心臓は速さを増し、額から汗が流れ落ちた。
(苦し……っ)
このままでは心臓が破けるのではないかと思った。頭が割れそうな痛みは瞳に涙の膜を貼り、呼吸もままならなくなって来た。
「落ち着いて! 今は何も考えないで下さい!」
切羽詰まった声が聞こえ、なんだ、おまえでも焦ることがあるんだな、と遠くなる意識の中でぼんやりと思った。
「さ、」
先に行け。そう言おうとしたが叶わず、気づけば視界いっぱいに天井が広がった。ああ倒れる。そう思った時、すぐ後ろに人の気配を感じた。力を振り絞って首だけ向けると、仁王立ちした女が両腕を広げていた。
(馬鹿!)
成人男性の体重を支えきれる筈がない。例え前から男と女の幽霊がそれぞれ腕を伸ばしていたとしても。身体を捻って向きを変えようとしたら、背後から鋭い声が飛んできた。
「いいから素直に倒れなさい!」
一応気を遣われたのだろうか。相変わらず(相変わらず?)親切が斜め上に行く奴だと笑い、そこで意識が途絶えた。
『あき、大丈夫?』
端から支えきれるとは思っていなかった。強かに打ち付けた背中とお尻に眉をひそめながら腕の中の男性を見る。瞼は閉じているが、先ほどまでの苦痛に満ちた表情はそこにはなく、ただ静かに呼吸を繰り返している。
「大丈夫ですよ。ところでハゲ下さん、その袈裟を寄越しなさい」
「はいっ」
あきの有無を言わせない迫力に、壮碁はひとつ返事で了承した。あきは受け取った袈裟を折り畳み、そっと二乃助の頭の下に添えた。
『ありがとう、あき』
優しい声音が脳裏に響く。彼女の声は音としてではなく、直接脳を震わせた。
「いえ、こうなる気がしていたので、なるべく刺激を与えないようにしていたのですが、私が迂闊でした。すみません」
きっと、自分が零した『懐かしい』という言葉に反応したのだろう。五年分だ。五年分の記憶を取り戻そうとしたら身体に掛かる負荷も大きい。そう思ったから本名も明かさず過去も明かさず、慎重に、ゆっくり思い出してくれるのを待とうと思った矢先にこれだ。真っ青な彼を見た瞬間、血の気が引いた。糸が切れた操り人形のように、フラリと後ろに傾いていく彼を受け止めなければと、頭で考えるよりも先に身体が動いた。良かった間に合う。それなのに、突然向きを変えられそうになってカッと血がのぼった。いつもそうだ。彼は自分が犠牲になるのを厭わない。いい加減素直に助けられろと思った。その時自分が何を口走ったのかは必死だった為覚えていないが、彼が小さく笑ったのはわかった。
「姉さん、彼に付いていて貰えますか?」
『あなたはどうするの?』
「危険がないか少しこの辺りを散策して来ます。彼が起きるまで下手に動かさない方がいいでしょうから」
『わたくしも共に行くわ』
「いえ、もし彼が起きた時の為にも、姉さんには残っていて欲しいんです」
そう言うと、姉さんの瞳が不安げに揺れた。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
私は姉さんの手を取る。己の手にすっぽり収まるほど小さな手。この手に、昔はよく頭を撫でられたものだ。
「二乃助さんは貴女を恐れません。絶対に」
それに、と続ける。
「全てを思い出した彼が、一番に見たい顔、聴きたい声は、姉さんでしょうから」
姉さんの顔がクシャリと歪む。垂れた目尻から幾つもの涙が零れる。
「今までひとりでよく頑張りましたね。後のことは私に任せて下さい」
『あ、き』
ぎゅうっ、と強く抱きしめて来た姉さんの背を優しく叩く。
(手も、肩も、こんなにも小さかったんだな……)
幼い頃の私の全てだった女性。あっという間に歳は追いつき、身長も抜いた。それでも彼女はいつまでも私の姉さんだ。
「木ノ下さん」
「だから私は木ノ下で、え?」
あきは愛する姉から離れると、帯の中から取り出した懐剣を彼に手渡した。それを驚いた顔で受け取る壮碁。そして気づく。彼女は本気で自分を殺す気ではなかったことに。
「それをお貸しします。何かあったら死ぬ気で二人を護って下さい」
「そしたら貴女が!」
「私はそんなものに頼らずとも強いので大丈夫です」
そう言い残し踵を返そうとした時、ふと、思い出したかのように首だけで振り返る。
「それで許します」
「え」
「貴方を殺す約束を反故にしますよ。まぁ姉さんを危険な目に遭わせたらいの一番で殺しますが」
あきが去った後もしばらく呆然としていた壮碁は、ようやく一言、
「敵わないな」
と、苦笑まじり呟いた。
「こんなにも早くお会いするとは思いませんでしたよ。まぁ私は約束は果たす方です。きちんと責任は取りましょう」
「ちがっ、え! あれは私に対する鼓舞じゃなかったのですか!」
「なぜ嫌いな相手をわざわざ励まさなければならないのですか。紛れもない本音ですよ」
「えええええええええっ!?」
……うん。訳わからん。とにかく、今は状況把握が先だ。決して現実から目を背けている訳でない。決して。
おれの名は二乃助。歳は二十歳。困ったことに少し前から怪奇現象というものに目下巻き込まれ中である。ここは怨霊が巣食う妓楼、櫻花。住み込み妓夫のおれが言うんだ。場所は間違いはねぇ。しかし疑問は増える一方だ。なぜウチが化け物屋敷になったのか。妓女たちは避難したのか。妹も含め、櫻花の人間が誰もいない。おれ以外は――。
「この腕を離しなさい。さもないと一息に殺して差し上げませんよ」
「待って待って待って!」
……あいつらさっきからうるせーな。
なるべく視界に入れないようにしていたが、そうもいかなくなった。いよいよ女の持つかんざしの切っ先が、男の喉元を突こうとしていた。女は軽装かつ、今は長い髪を下ろしているが、きっとどこかの見世の遊女なのだろう。この苦界に長くいると雰囲気で堅気かどうかわかるってもんだ。しかし、そもそも誰だこいつら。いや何者だ? あれだけおれを避けていた化け物が、二人を止めようとしている。まるで知り合い……なのか? あの残虐な化け物が、慌てているようにも見える。いや、確かに坊さんを刺殺しようとする遊女の絵面は道徳的にどうだろうっておれも思ったけどさ。だから無視していたんだが、あの三人(化け物含む)がそれぞれ知り合いだとしたら、坊主を易々殺らせる訳にもいかねぇ。てか、おっかねーなあの遊女!
「ちょいとお二人さん」
おれは意を決して二人に話しかけた。化け物がホッと胸に手を当てた。顔は相変わらず見えない奴だけど、どうもこいつ、おれのこと知ってる風なんだよなぁ。
「二乃助さん!」
「チッ、もう傍観はお止めになられたのですか? あと少し待ってて頂けます?」
坊さんの涙いっぱいの瞳と、溢れんばかりの殺気を放つ女の瞳が同時に向けられる。あ、やっぱ早まったかも。
「ああっと、まぁ、なんだ? 美女に馬乗りされるなんて男冥利に尽きるじゃねーの」
同時に命も尽きそうだが。
「冗談じゃないんですよ! この人本気で私を殺すつもりなんですよ! 私が貴方に頼めた義理じゃないのは重々承知ですが、今だけは助けて下さいいいいいいいい!」
必死か。
「本当に頼めた義理じゃありませんよね。どういう思考回路をなさっているのかとても興味がありますよ。その頭かち割って中身を覗いてみましょうか」
「いいいいやあああああ!」
「ほら! 泣いてるじゃん! やめてあげて! ね?」
「この人は昔っから泣けばいいと思ってるんですよ」
容赦ねぇ……。こりゃ口で言って聞く奴じゃねぇな。はぁ、仕方ない。
「いい加減ちょっと落ち着けおまえら」
ガチ泣きの坊主から女を放すと、坊主は這って逃げ、女は振り向きざまに手を上げた。を察知してよけるおれ、さすが優秀。じゃなくて、
「なんなの? なんでおまえそんなに凶暴なの? お願いだからおれの邪魔はしないでくれる?」
「それはこちらの台詞です。貴方のおかげで殺り損なったじゃありませんか」
あれ、最近空耳が酷いな。取ると殺るを聞き間違えるなんて。うん、聞き間違いだよね。
「だいたい貴方がなぜ彼を庇うのですか。私の納得いく理由が勿論あるんでしょうね」
山猫を連想させる大きな目が鋭く光を放つ。歳の頃は妹より三つ四つ上だろうか。こんな女、一度会ったら忘れない筈だ。色んな意味で。
「おまえらは何か勘違いしてるかもしれねぇけど、おれはおまえらを知らねぇからな?」
「は? 貴方、二乃助さんじゃないのですか?」
いや! 確かに二乃助はおれですけども!
女の怪訝そうな言い方に口ごもる。
「たぶん、おれは、おたくらの言う二乃助さんじゃないと思います」
その直後だった。パァンパァン! と連続して小気味良い音が辺りに響く。打たれたと気づいたのは、両頬がじんじんと熱を持ってからだ。
しばらく呆気に取られていると、眼前の女が叩いた手をそのままに言った。
「すみません。まだ寝ぼけてらっしゃるのかと思って」
「だからって二回も殴るか普通!」
「二発目は故意です」
しれっと女が言う。このクソ女!
今にも喧嘩に発展しそうなおれたちの間に入ったのは、意外にも化け物だった。女の方を向いている。幾つもの上品なかんざしが艶やかな髪の上で揺れ、生前はきっと位の高い遊女だったんじゃないかと思わせた。
「え?」
クソ女の声だけが聞こえる。
「は? なんでそんな面倒なことに?」
化け物はしゃべれなかった筈だ。どうやって会話してんだおまえら。
「はああああああああぁぁぁ……」
会話が終わったのだろう。それはもう、腹の底から深い溜め息をはいた女が額を押さえていた。
「ハゲ下さん」
「木ノ下です!」
「この人、どうやら記憶を失くしているみたいですよ」
「え?」
…………え。
ちょっと失礼。いったん頭の整理をすることにする。
ここはおれの見世で、でも今は化け物屋敷になっていて、いつからそうなったのかは覚えがない。
ただ、たまに人が迷い込んで来ては化け物に殺された。そう、目の前にいる遊女の化け物だ。殺し方はえげつないし、おまけに顔は見えねぇときた。けれど、不思議と怖くはなかった。何度か会話を試みても、化け物はおれを避けた。避け続けた。今、この時までは。
化け物が襲う人間は逃げるのに必死だったのか、誰ひとりおれに気づこうとしなかった。声をかけても無視する者もいた。
ただ一つわかっているのは、この化け物が『桔梗』という名前だということ。本名はよほどの仲じゃなければまず知りえない。となると源氏名か。彼女の顔は先も言ったが見えない。どう見えないかというと、うーん、難しいな。こう、月の出ねぇ夜って言やぁわかるか? 前髪の生え際から下がとにかく真っ暗なんだ。ゾッとするだろ? まだのっぺらの方がマシだ。とにかく、顔だけだ。おれがわからないのは。あとは凝った衣装や重そうな髪型から、生前は花魁だったかもしれないということ。だが、おれの記憶に桔梗という花魁は存在しない。もちろん見世にもだ。ここ櫻花は割と吉原でも名を馳せている。そんなうちが他所の花魁、言わば好敵手を見落とすとは思えない。
遊郭と聞けば大抵の野郎は極楽浄土を想像する。が、それは上辺だけだ。揚げ代が払えなくなった奴は人知れず始末され、売られて来た女は身も心も拘束され、自ら命を絶つ。そして幕府は、それを知っていても見て見ぬふりだ。どこが浄土だ。アホらしい。だがそんな中でも強く生きる女だっている。男よりよほど男らしい。
おっと話が逸れたな。あ~何を話していたんだっけな。ああ! そう、その顔の見えない幽霊。今からは桔梗と呼ぶな。もう五日も前のことだ。いつものように客を引こうと外に出ると誰ひとり歩いていなかった。ありえないことだ。いくら安政(※元号)になってから客足が減ったとはいえ、馴染みの姿すら見えないのは不自然すぎた。慌てて見世に引き返し、また驚く。楼主も女将も遊女たちも姿を消していた。信じられない気持ちで妹を探す。そこで現れたのが先の幽霊、桔梗だった。おれの勘が、こいつのしわざだと言っていた。
「おれの妹をどこへやった……!」
あんなに叫んだのは久しぶりだった。
顔があろうが無かろうが幽霊だろうが、妹に害なす奴は、例え殿さまだって許さない。
その後も色々罵倒したと思う。が、顔を見せないくせに、どうしてかおれが悪い気持ちになって、口汚く罵った自分に後悔した。桔梗からは哀しみの匂いしかしなかった。とても哀しい、哀しい、そんな気持ちがひしひしと伝わり、思わず謝って、抱きしめて、慰めてやりたくなった。
その日はとりあえず妹の無事を祈りつつ就寝した。ここぞとばかりの楼主の部屋を使ってやった。いい気分だ。しかし目覚めは最悪だった。女の甲高い悲鳴に叩き起こされ、慌てて声のした方に向かうと、ちょうど頭上で女の四肢がもがれ、血と共に飛び散ったところだった。
「ちょっと聞いてます?」
ハッと意識を戻す。目の前にはしかめっ面の女。
「その顔、聞いてませんでしたね」
そうだ、あれから人間が現れる度に同じように殺された。不思議なのは殺された後。血も死体も綺麗に消え、あの惨劇は夢だったんじゃないかと今でも思う。それともうひとつ、やっぱりおれは桔梗を嫌いになれなかった。化け物だとか言っていたが、心からは思っていない。声を聴きたい。顔を見たい。おまえはおれのなんだ――?
「戻って来て早々またどこかに行かないで貰えます」
「え?」
「……はあ」
これ見よがしに溜め息をつかれムッとする。こちとら色々あったんだから物思いぐらい浸らせろ。
「ご自身はお幾つのつもりなのですかと散々訊いているんですが、呆けるほど歳を取っているのなら仕方ありませんね」
「誰がじじいだ!」
「ならさっさとお答え願えますか? こっちも暇じゃないんですよ」
こいつ……っ、
(これまで色んな女を見て来たが、ここまで生意気な女は…………)
……今、何か頭をよぎったような……気のせいか?
気を取り直して頭を掻く。
「二十歳だ。あんたとそう変わんねー筈だ」
「チッ」
「今のどこに舌打ちされる謂れがあったかオイ?」
こいつ舌打ち多くね? それも堂に入ってるし。本当に女かよ。
「それじゃあ私を覚えていなくて当然じゃないですか。なんで忘れてるんですか頭でも打ったのですか? また打てば思い出しますか?」
「落ち着け! そしてこぶしはしまえ!」
え? これっておれの落ち度なのか?
「姉さんのことはもちろん覚えてらっしゃいますよね?」
「って、そこの幽霊のことだよな?」
「ハゲ下さん命拾いしましたね。先に片付ける相手が出来ました」
「木ノ下ですってば! 事情があるんですよきっと、彼のお話を伺いましょう!」
「どんな理由があれ姉さんを忘れるなんて万死に値します」
「君がお姉さんを慕ってるのは十分理解してますから! ここは私に任せて下さい!」
「えっと、あんたがハゲ下さん?」
「あんたらわざとですか」
凶暴女と入れ替わり坊さんが前に出た。頭は綺麗に丸められ、修行服に袈裟を身に着けている。パッと見たところ三十路手前だろうか。まだ若いのにどうしてとも思ったが、人の好さそうな顔つきは、案外僧に向いているのかもしれない。
「私の名前は木ノ下壮碁と申します。願命寺という場所で住職をやらせて貰っています」
「は? その若さで?」
「ふふ、よく驚かれますが、私はこの道十年ですよ。ちなみに今年で二十九になりました」
「はあ? 十九で出家したのかあんた。ああ、失礼、『あなた』ですね」
「……そんな、畏まらないで下さい。私は逃げたのです。俗世から。それに私より貴方の方が……」
「余計なことまでは言わなくていいです」
「すみません!」
「……おまえらの関係って何?」
住職っつったら高僧じゃねーの? いいの? そんなに雑に扱って。そういやさっきも必死の攻防が行われてたな。まぁ必死だったのは主に坊さんだけど。
「そして彼女は、」
「自分の紹介まで頼んだ覚えはありませんが?」
「誠に申し訳ない!」
どんだけ腰低いんだあんた!
「あんま坊さんいじめてやるなよ! 見てるこっちがハラハラすっから! 道徳的に!」
深々と頭を下げた坊さん、壮碁さんは静々と後ろへ下がった。結果、女と睨み合う形になる。そして女は手の平で幽霊を指し、
「彼女は桔梗姉さんです」
「いやおめぇの紹介じゃねぇのかよ」
「……桔梗姉さんですよ?」
「いやもう、そいつの名前は知ってっから」
おいおいおい、こいつ視線で人殺せるぞ。
「まだ、おわかりにならないと?」
「だーかーらー、おれにはそいつの顔が見えねぇんだよ」
今度はパチクリと目を丸くする女。ようやく反撃できた。
「見えない?」
「名前は殺された奴らから聞いたんだ。顔は最初から見えねぇんだよ。なんでか」
女は幽霊とおれを交互に見た後、何か考えるように口に手を当てた。
「……拒絶……」
「あ?」
「いえ、そのような事情があるのなら仕方ありません。今回は勘弁して差し上げます」
「あのよ、なんでおまえ、そんなに偉そうなの?」
壮碁さんが後ろでシッと指を立てた。一応あなたも思ってるんっスね。
「それで? これまでに何人死にました?」
「サラッと訊くな! つか数えてねーし!」
「チッ、……姉さん」
女は、思いっきり役立たず! とおれを睨んだ後、幽霊に話を振った。あれー? おれってば結構女ウケ良かったんだけどなぁ。女からこんな酷い仕打ち受けたのは生まれて初めてだわ。話が終わったのか(幽霊の声は相変わらず聞こえなかった)、再び女がおれを見る。
「取りこぼしがあとひとりいるようです」
「え、なんの?」
「危険なので団体で行動しようと思いましたが、一刻も早く見つけたいので二手に分かれましょう」
「おーい。おれの声聞こえてるー?」
「では二乃助さんはハゲと」
「とうとう下も無くなった!」
「頑張れ坊さん! じゃなくて詳しく説明しろ! 取りこぼしってなんだよ!」
「姉さんの祟りから逃げ回ってる馬鹿のことです。向こうもこちらを敵視しているでしょうから攻撃される恐れがあります。見つけたら速やかに仕留めることをお勧めします」
「お勧めされたくねぇよそんなこと! てか祟りっつった? え、あの殺された奴らは祟られたのか? そいつはただの幽霊じゃなかったの?」
「優しくてお淑やかで美人な怨霊ですが何か?」
「優しい怨霊ってナニ!?」
怨霊って怨霊って! あれか、菅原公みたいな? マジか! つかなんで親し気なんだよおまえも! そしておれは重大なことを思い出した。
「つか、結局おまえ名乗ってねーけど!」
仕切っている奴が一番謎を残してやがる。さすがのおれでもわざとだとわかる。
「……必要ですか?」
「いざとなった時に呼べねーと困るだろ。何? 名乗りたくない理由でもあんのか?」
「いえ、以前教えた名前を忘れられた屈辱と、もう一度教えなければならない二度手間に戸惑ってしまって……」
「おれも今、超戸惑ってる。 おまっ、普通に私情じゃねーか! 気ぃ遣って損したわ!」
しかも口悪っ! 丁寧に言やぁいいってもんじゃねぇぞ!
「あんたがおれにキレてんのはわかった。ちゃんと思い出すから、今は名前を教えてくれ」
「私が怒っているのはそれだけじゃありませんよ?」
「まだあんのかよ! ああもうっ、とりあえず今は仲良くしようぜ。な?」
「結構です」
「……」
無言で壮碁さんの方に目を向けると、もの凄い勢いで視線を逸らされた。
「どうしました姉さん?」
「え?」
「え~……」
「…………はい」
沸き上がる怒りを鎮めようと努めていると、幽霊に何か言われたらしい女が、不服そうに唇を尖らせていた。
「姉さんから貴方あなたの面倒を見るよう仰せつかりました」
桔梗さあああああん!
思わず怨霊をさん呼びである。
「大変不服ですがよろしくお願いします」
「おれの台詞だから!」
「そうなると確かに名前が必要ですかね。源氏名で宜よろしければ、私のことは呂布と」
「一騎当千んんんんん! おまえの見世、どこに向かおうとしてんだよ!」
「それか項羽にするか大変迷いました」
「しかも名付け親おめーかよ! なんでどっちも中華最強の武将なんだよ!」
「強くて格好良いじゃないですか」
「つよ、いや、せっかく知識が豊富なんだから、どうせなら傾国の美女の名前とかよ」
「強い方がいいんです。強くなければ、何も護れないと知っているので」
「……まぁ、一理あるわな。でもなんで中華? いや中華が嫌いとかじゃなくて、日本は駄目なの?」
「日の本だと姓も含めて長くなるので」
「そこかよ!」
だが普通、男の名前を付けるか? 周りは止めなかったのか? どうも今まで知り合った女たちとはかけ離れて過ぎてて扱いに困る。
「改めて訊くけど、遊女なんだよな?」
「今更ですね」
確かに軽装とはいえ、化粧は遊女の仕様だ。愚問だった。故に尚更思うのだ。
「客取れてる?」
失礼を承知で訊ねる。
客足を気にするのは妓夫の性分だが、それ以上に好奇心が勝った。呂布という名の妓女を指名する奴が存在するのかと。
「余計なお節介ですね。心配しなくてもうちは大繁盛です」
「嘘だろ!」
「失敬な。夜な夜な熱く盛り上がってますよ」
「そういうことは人前で言っちゃ駄目!」
「今は三國志にハマっていますね」
「って歴史の話かよ!」
「時に平家物語で熱く議論を交わしたり」
「そこは枕を交わせ!」
「な! 何を恥ずかしいことを! 下世話です! 軽蔑しますよ!」
「え? おれがおかしいのか?」
あれ? 遊郭とは? 遊女とは? いかん、わからなくなってきた。
ふと背後に目をやると、桔梗とやらの幽霊が腰を折り曲げて震えていた。もしかして笑ってる? ジワリと心が温かくなるのを感じた。この感覚は覚えがある。どこで?
「ふふ、なんだか懐かしいですね」
女がどこか眩しそうに微笑んだ。
「貴方がいて、姉さんがいて……あの頃が一番幸せだったかもしれません」
「おれもだよ」
…………は?
「やっと笑ったな」
な、んだ……? 口が、勝手に……。
「あき」
あき……?
「二乃助さん? もしかして思い出して……?」
皆の視線が集中する。おれは何を言っているんだ?
ガツン、と頭に楔が打ち込まれた感覚がした。それを皮切りに、激しい頭痛と動悸が同時に襲って来た。
「うっ、あ……っ」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン……ドクンドクンドクンドクンドクン……ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク!
「はっ……はっ……」
何なんだ急に。どうしたんだおれは。
たまらず心臓を押さえる。跳ね上がる心臓は速さを増し、額から汗が流れ落ちた。
(苦し……っ)
このままでは心臓が破けるのではないかと思った。頭が割れそうな痛みは瞳に涙の膜を貼り、呼吸もままならなくなって来た。
「落ち着いて! 今は何も考えないで下さい!」
切羽詰まった声が聞こえ、なんだ、おまえでも焦ることがあるんだな、と遠くなる意識の中でぼんやりと思った。
「さ、」
先に行け。そう言おうとしたが叶わず、気づけば視界いっぱいに天井が広がった。ああ倒れる。そう思った時、すぐ後ろに人の気配を感じた。力を振り絞って首だけ向けると、仁王立ちした女が両腕を広げていた。
(馬鹿!)
成人男性の体重を支えきれる筈がない。例え前から男と女の幽霊がそれぞれ腕を伸ばしていたとしても。身体を捻って向きを変えようとしたら、背後から鋭い声が飛んできた。
「いいから素直に倒れなさい!」
一応気を遣われたのだろうか。相変わらず(相変わらず?)親切が斜め上に行く奴だと笑い、そこで意識が途絶えた。
『あき、大丈夫?』
端から支えきれるとは思っていなかった。強かに打ち付けた背中とお尻に眉をひそめながら腕の中の男性を見る。瞼は閉じているが、先ほどまでの苦痛に満ちた表情はそこにはなく、ただ静かに呼吸を繰り返している。
「大丈夫ですよ。ところでハゲ下さん、その袈裟を寄越しなさい」
「はいっ」
あきの有無を言わせない迫力に、壮碁はひとつ返事で了承した。あきは受け取った袈裟を折り畳み、そっと二乃助の頭の下に添えた。
『ありがとう、あき』
優しい声音が脳裏に響く。彼女の声は音としてではなく、直接脳を震わせた。
「いえ、こうなる気がしていたので、なるべく刺激を与えないようにしていたのですが、私が迂闊でした。すみません」
きっと、自分が零した『懐かしい』という言葉に反応したのだろう。五年分だ。五年分の記憶を取り戻そうとしたら身体に掛かる負荷も大きい。そう思ったから本名も明かさず過去も明かさず、慎重に、ゆっくり思い出してくれるのを待とうと思った矢先にこれだ。真っ青な彼を見た瞬間、血の気が引いた。糸が切れた操り人形のように、フラリと後ろに傾いていく彼を受け止めなければと、頭で考えるよりも先に身体が動いた。良かった間に合う。それなのに、突然向きを変えられそうになってカッと血がのぼった。いつもそうだ。彼は自分が犠牲になるのを厭わない。いい加減素直に助けられろと思った。その時自分が何を口走ったのかは必死だった為覚えていないが、彼が小さく笑ったのはわかった。
「姉さん、彼に付いていて貰えますか?」
『あなたはどうするの?』
「危険がないか少しこの辺りを散策して来ます。彼が起きるまで下手に動かさない方がいいでしょうから」
『わたくしも共に行くわ』
「いえ、もし彼が起きた時の為にも、姉さんには残っていて欲しいんです」
そう言うと、姉さんの瞳が不安げに揺れた。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
私は姉さんの手を取る。己の手にすっぽり収まるほど小さな手。この手に、昔はよく頭を撫でられたものだ。
「二乃助さんは貴女を恐れません。絶対に」
それに、と続ける。
「全てを思い出した彼が、一番に見たい顔、聴きたい声は、姉さんでしょうから」
姉さんの顔がクシャリと歪む。垂れた目尻から幾つもの涙が零れる。
「今までひとりでよく頑張りましたね。後のことは私に任せて下さい」
『あ、き』
ぎゅうっ、と強く抱きしめて来た姉さんの背を優しく叩く。
(手も、肩も、こんなにも小さかったんだな……)
幼い頃の私の全てだった女性。あっという間に歳は追いつき、身長も抜いた。それでも彼女はいつまでも私の姉さんだ。
「木ノ下さん」
「だから私は木ノ下で、え?」
あきは愛する姉から離れると、帯の中から取り出した懐剣を彼に手渡した。それを驚いた顔で受け取る壮碁。そして気づく。彼女は本気で自分を殺す気ではなかったことに。
「それをお貸しします。何かあったら死ぬ気で二人を護って下さい」
「そしたら貴女が!」
「私はそんなものに頼らずとも強いので大丈夫です」
そう言い残し踵を返そうとした時、ふと、思い出したかのように首だけで振り返る。
「それで許します」
「え」
「貴方を殺す約束を反故にしますよ。まぁ姉さんを危険な目に遭わせたらいの一番で殺しますが」
あきが去った後もしばらく呆然としていた壮碁は、ようやく一言、
「敵わないな」
と、苦笑まじり呟いた。
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