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しおりを挟む翌日。
惣右介は茂吉と一緒に村の外れの溜池に来ていた。溜池とは名ばかりで、干ばつのせいで池はすっかり干上がって、池の底の土には草まで生えている。
「おい……、惣右介。こんな時に村の風景でも描こうって言うのか……?」
黙々と絵を描く為の準備を始める惣右介に、茂吉は若干腹を立てていた。
惣右介は建具でも外してきたような大きな板に紙を何枚か並べると、硯に墨を擦っていく。
時刻は午の刻。昼時になろうという時だ。
照り付ける陽射しは強く、惣右介の額にも大粒の汗が浮かぶ。
「惣右介が持って来てくれたニワトリは感謝しているよ。今朝、早速卵を産んでくれたから買い取って貰ったんだ。お陰でアワがいくらか買えたよ……。だけどそれだけじゃ足りないんだ……」
惣右介は硯に墨をある程度出すと、少し大きめな筆に調墨する。汗をかきながらクチビルを噛み締めて、紙に筆を下ろしていく。
「なぁ、惣右介……。今日にでも女楼主さんが来るかもしれないんだ……。俺はお前の遊びに付き合っている暇はないんだ……っ! 惣右介っ! 聞いてやがるのかっ!」
「聞いていますよ……、茂吉さん……。だけど、わからないけど、もしかしたら……雨を降らせる事が出来るかもしれない──」
「ふざけるな惣右介っ!……俺は帰るっ! おキヨの準備もしてやらないといけないからなっ」
茂吉は憤慨して、自分の家へと歩いて帰ってしまう。
それでも惣右介は筆を動かす手を止めたりはしなかった。
「雨さえ降れば……、雨さえ……」
茂吉の怒鳴るような声を聞いて、近くの農民と村長が惣右介の所にやって来た。
「茂吉が騒いどったようだが……。あんたは絵描きか? こんな枯れた池の絵を描こうなんて酔狂な絵描きがいたもんだ。こんな時にまた……」
惣右介は村長と農民などお構いなく、額に汗をかきながら一心不乱に絵を描いていく。
干上がった池に照り付ける陽射し。乾いた大地と乾いた田畑。
それを描ききると、今度は雨雲が空を覆う様子を描き出した。
「ほぅなるほど。こりゃ縁起の良い絵だな」
「はんっ、絵なんか描いて雨が降るんなら、とっくにみんな描いてるよっ! 村長、茂吉が怒るのも無理ないですよ。おい、あんたっ!」
惣右介は筆と墨だけでこの干上がった池と、ここから見える風景を見事に描いた。
絵の中の空には雨雲が拡がり、今にも雨が降り出しそうだった。
惣右介は農民の声がやっと耳に入り、我に帰るように辺りを見回す。
「あれっ……?」
「絵描きさん。今この村で絵なんて描くのはどうかと思うわなぁ。皆、干ばつで気が立ってるんだ」
「おい、あんたっ! そんなくだらない絵なんか描いてるならこの村から出てってくれっ」
惣右介は男の言葉に唇を噛んで押黙る。
「絵描きさんよ。しかし、そりゃ見た所、縁起の良い絵だな。それにあんたの腕は実に見事だ。もし嫌じゃなければ、最後まで描いてもらえんかのう」
「村長……。まったく。もしもそんな絵だけで雨が降るなら、俺が御社でも建てて、その絵をここに祀って末代まで拝んでやるよっ」
「おいっ、弥太郎、さっきから他所者に嫌味はよさねぇか……っ!」
「ふんっ!」
弥太郎という農民に散々馬鹿にされる惣右介だったが、村長の言う通り、筆を持ち替えて墨を丁寧に付けていく。
「俺には絵しか無ぇんだ……。この地に雨を……、天の恵みを……降らせるんだ……っ!」
──ヴァンッ
惣右介の並々ならぬ気迫と共に、その体から【銀龍の腕】が発動する。
発動したその龍の影は分離しては重なり、やがて惣右介の筆にピタリと重なり合う。
そして惣右介は、その絵の中に水色に輝く大きな龍を描いた。
その龍は雨雲の中を泳ぐように、そしてその長い身体を自由に踊らせるように描いていく。
細かいタッチや、太い墨の部分も惣右介は額に大粒の汗を浮かべながら一息に描いていく。
弥太郎や村長に銀龍の腕こそ見えないが、その惣右介の筆運びの見事さに固唾を飲んで見つめるのだ。
その技はまさに神の御業と呼ぶに相応しかった。
「す……、凄ぇ……っ」
「こりゃたまげた……っ!」
絵の中に描かれた水色の龍は、今にも絵から飛び出さんばかりの迫力だった。
その龍の目がギラリと光った気がした。
「……ひっ!」
──ガランッ
惣右介の手から筆が落ちると、フラフラと後ろに尻もちを付いて倒れた。
倒れた惣右介に村長が慌てて駆け寄る。
「いてて……っ」
「……大丈夫かねっ?」
「なんか……身体の力が急に抜けちまって……」
「なぁ……村長……あれ……」
「どうした?」
弥太郎の震える指が空を差した。
その指の先には太陽を隠していくように小さな雨雲が産まれていた。
そしてその産まれた小さな雨雲は、村を覆うように次第にその影を伸ばしていくのだ。
「こんな晴れてるのに……、雨雲が……、奇跡だ……」
こんな風に何の前兆も無く、大きな雨雲が拡がっていく事など、長く生きてきた村長も見た事はなかった。
「まさか……、本当に……」
そして、水分をたっぷりと含んだような黒く分厚い雲が惣右介や村長達の上空をすっぽりと覆ってしまった。
──わあぁぁっ!
昼間だというのに暗くなった事に気付いた村の百姓達が、大騒ぎで家の外に出てくる声が聞こえて来る。
「雨を……っ! 神様っ! お願いです!、雨をくだせぇ……っ!」
「お願いしますっ……!」
「雨を……! 恵みの雨を分けてくだせぇっ!」
そして、村長の額に一粒の雨が落ちた。
「おぉっ……!」
そして水の粒は次第にその数を増して、乾いた心と土を潤すかのような恵みの雨が降り注いだ。
──ザァァァッ
「雨だぁぁっ!」
「雨だっ!雨だっ!もっとくだせぇ……!もっと降ってくだせぇっ……!」
集落の者達はお祭り騒ぎのように、家の外に出て服も来たままはしゃいで大騒ぎしている。
村長は狐にでもつままれたように呆然とその様子を眺めていた。
「き……奇跡だ……」
「ひゃあっ!……村長っ! 絵を……っ、絵を見て下さいっ!」
「なっ……?!」
弥太郎の声に村長は自分の目を疑った。
惣右介の描いた絵には、先程まで確かに水色の龍が恐ろしい程の迫力で描かれていたはずだった。
それがどうだ。
絵の中の龍は跡形もなく消えていたのだ。
そこにはただ雨雲と村の風景だけが描かれているのだった。
「そんな……そんな事が……」
村長と弥太郎は空を見上げて啞然とした。
その日、集落の者たちが見た光景は、後世まで語り継がれ、後に藁で編み込んだ水神様に水の感謝を捧げる豊穣の神事へと発展する事になったという。
雨雲から降り注ぐ雨粒の向こうに、空を見上げた全員が確かに巨大な龍の姿を見たのだ。
雲の中を優雅に泳ぎ、現れては雲に潜り込み、まるで稲光と遊ぶようにして、時折その恐ろしい形相の顔を覗かせた。
だが、巨大な龍が現れた事に誰一人、恐怖する者はいなかった。何故なら雨という恵みをもたらしてくれた神様だからだ。
泥にまみれることなどお構いなく、農民達はひれ伏し、額を地面に擦り付け、龍に感謝したのだ。
「ありがとうございます……、水の龍神様っ……!」
「ありがてぇ……、ありがてぇ……」
「なんまんだぶなんまんだぶ……ありがとうごぜぇます……」
村長と弥太郎は目の前で起こった奇跡に顔を合わせた後、尻餅を付いている惣右介の方を振り返った。
──バシャッ
惣右介は力尽きたのか、その身体を雨に濡らして倒れ込んでしまった。
「いかんっ……! 弥太郎、わしの家にこの方を運べっ!」
「あ、あぁ、はいっ!」
「この方は……、この方は、龍の御使い様だっ!」
*
惣右介が目を醒ますと、知らない屋敷の板の間にゴザを敷かれて眠っていた。
「あれ……?……俺、なんで……」
「お、起きられましたか……。心配しましたよ」
「村長さん……、俺……」
惣右介の声に囲炉裏に当たっていた村長が振り返る。
「絵を描かれてから、倒れられたんです。それで勝手ながら私の家へ運ばせてもらいました」
「そ、そうだったんですか……、すみません、ご迷惑を──」
「と、とんでもないっ! あれだけの絵を描かれたんですから……、そりゃさぞかし気力を減らしたでしょう……」
村長の何か羨望のような眼差しに、惣右介は訳も分からず、居心地の悪さを感じてゆっくり重い体を起こした。
「そうだ……、あの、茂吉さんの所に行かないと……。俺はどの位寝てたんでしょうか?」
「おや、茂吉の知り合いだったんですかな? えっと、二刻半程ですが……」
「え、そんなに……っ!あの、ちょっと茂吉さんの所に行きますっ!、村長さん、ありがとうございましたっ」
「あ、あの、お名前を教えて頂いてもらっ……」
惣右介は横に丁寧に畳んであった自分の服を羽織り、帯を締めると慌てて土間に降りて草履を履いた。
「惣右介ですっ、茂吉さんから、いつも野菜を分けて頂いてたんです。村長、それじゃあ失礼しますっ」
雨の降る中、惣右介が村長の家から転がるように慌てて出ていくと、茂吉の家に走って行った。
代わるようにして、村長の家に弥太郎が戻って来た。
「村長、今、あの絵描きさんが走って行かれたが……」
「あぁ。茂吉の所に用事らしい。惣右介さんか……。弥太郎、あの描いてくださった絵はどうした?」
「ちゃんと納屋に入れておきました。俺……、社を建てて祀るって約束しちまったからなぁ……」
ぬかるんだ畦道で何度か滑りながら、惣右介は茂吉の家に着くと、玄関の引き戸を勢い良く開けた。
「茂吉さんっ!」
「……惣右介か」
茂吉の家の中は暗く、静まり返っていた。
聞こえるのはおミヨさんのすすり泣く声だけ。
その横で母にすがるようにおハナは眠っていた。
「雨……降りましたよっ! おキヨちゃん、これで売らなくて良いんですよねっ……!」
惣右介の言葉に茂吉は下を向いて何も答えてくれなかった。
ふと、おハナを見るとまるで泣き疲れたように目元の布団が濡れていた。
「え……」
茂吉達のその様子に、惣右介は全てを理解してしまった。
途端、立っていた脚の力が抜けて、土間にがっくりと膝を付いた。
「そんな……」
「うぅ……、うぅっ……」
惣右介が呆然とおミヨの泣き声を聞いていると、茂吉が重い口を開いた。
「おキヨはちっちゃい時から……手のかからねぇ、本当に賢い娘だった。百姓の家なんかに産まれなけりゃ、あの娘はもっと……幸せ……だったかもしんねぇ……っ! くぅっ……、うぅっ」
茂吉はそう言って土間に泣き崩れた。
惣右介はゆっくりと立ち上がると、茂吉の家から出た。庭の端に、おキヨが育てたヒマワリの花が、雨を浴びて喜ぶように揺れている。
その幸せそうに大きく咲いた花に、惣右介はおキヨの笑顔を重ねた。
結果的に多くの人を助けた惣右介だったが、自分の無力さが、頬を伝って流れていた。
惣右介は降り続く雨に濡れながら、茂吉の家を後にしたのだった。
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早く続きが読みたいです。
ありがとうございます〜。ゆったり更新しますので、ゆったり読んでくださいね😉