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本編
第354話
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アキラの実家は、数年前とほとんど変わっていなかった。
一時期、セナは毎日のようにここに遊びに来ていた。宿舎暮らしをする前、アキラと出会ったばかりの頃だ。広くとられた玄関ホール正面には螺旋階段があり、シンプルな調度品がセンス良く飾られている。玄関を上がって右に曲がった先にはリビングダイニングがあり、そこの大窓からは芝目の美しい庭が見渡せた。
「どうぞ」
あたたかいミルクの入ったマグカップが差し出され、セナはちいさく礼を言って受け取る。
バスルームで足裏の汚れを丁寧に洗い流してから、診察室で傷を縫合した。彼女はどこまでも親切だった。手当てをしてくれただけでなく、Tシャツが汗を吸ってぐっしょり濡れているのを見て、アキラの部屋着まで貸してくれた。
「すこし落ち着いたようね。よかった」
ビスケットの入った皿を彼の前に置き、ほっとしたように笑う。
ソファに身を預けたセナは頷き、ミルクをひとくち飲む。アキラの母は彼の向かい側にパーソナルチェアを持って来ると、ゆったりとした動作で腰を下ろした。セナは、その余裕のある振る舞いのなかにアキラの姿を見る。髪と瞳の色こそ違うが、顔の造形は母親にそっくりだ。父親は顔のパーツひとつひとつが大きく、全体的にワイルドな印象の大男だと記憶している。アキラは母親の顔の奇跡的な黄金比――美人顔といわれる要素を丸ごと受け継いだようだ。
「ああ、そうだ。これ……」
ビスケットを齧っているセナに、シルバーのチャームを差し出す。
「あなたのものよね?洗面台の床に落ちてましたよ」
きらりと光るそれを凝視し、セナは表情を強張らせた。これはサシャから与えられたものだ。捨ててくれと言いたかったが理由を聞かれることを恐れて、彼はそれを受け取った。見れば、丸カンの合わせ目がずれて隙間が空いてしまっている。
「直してあげようか?」
チャームを指差して、彼女が言う。かぶりを振ったセナはスウェットパンツのポケットにそれをしまった。
それからしばらくふたりは無言でミルクを飲んだ。大通りから少し離れているせいか、物音ひとつしない。
アキラとここで過ごす夜も、今日と同じように穏やかだった……それを思い出したセナがほんのりと明るい庭に目を遣ると、彼女は静かに唇を開いた。
「うちに来るのは、3、4年ぶりくらいかしら。あの頃はよく遊びにきてくれていましたね。ふたりで作った料理を私たちに振る舞ってくれたり、庭にテントを張ってキャンプごっこをしたり。懐かしいわ」
「覚えていてくれたんですね」
「もちろん。アキラの大切なお友達だからね」
にっこりと笑う顔には年相応の皺が刻まれたが、彼女の美しさは損なわれない。その笑顔からは、老いを恐れず堂々としている人間特有の、からっとした潔さが伝わってくる。
自信あふれる彼女の姿に羨望のまなざしを注ぎながらセナは問うた。
「最近、アキラ君と会いましたか?」
「いいえ。いつも私のいない時とか忙しい時に来るから、まったく会えていないの。――避けられても仕方がないわね。だって私たちは未だに、わかりあえないままなんですもの……」
儚く微笑んだ彼女は、首を左右に振る。
「連絡先も教えてもらえないから、元気にやってるのかどうか気になったときにSNSの公式アカウントを見にいくこともあるんだけど、あの子ちーっともポストしないでしょ?アキラとの写真とか近況をたくさんあげてくれるセナ君にどれだけ感謝したことか……。どの写真もみんな楽しそうで、アキラが幸せに過ごしていることが伝わってきたわ」
いつもありがとう、と礼を言われたセナは昏い顔になり視線を伏せる。公式アカウントをチェックしているとなれば、ウル・ラドが現在4人で活動していることも当然知っているはずだ。
「すみません」
セナは膝を揃えて頭を深く垂れ、そう言った。
「どうして謝るの?」
「――僕、いろいろあって……ウル・ラドを脱退するつもりなんです。なのでもう、お役に立つことは……」
語尾が消え入り、彼は唇を固く引き結んだ。
彼女は何も言わずにダークブルーの目を細める。その沈黙に耐えきれず、彼は捲し立てるように言葉を続けた。
「僕がいなくなっても、ウル・ラドは活動を続けていきます。ひとり欠けたところでなにも変わりません……だから安心してください」
青白い顔を上げたセナは彼女を窺い見た。その緊張のまなざしを、彼女は静かに受け止めている。
「すみません……」
消え入りそうな声でセナは再び謝罪を口にする。
すると、手にしていたカップをテーブルに置いた彼女はようやく唇を開いた。
「変わらないなんてことはないと思う」
「え……?」
「いつも傍にいた大切な人がいなくなるのは、残された側にとって大きな衝撃よ」
すべてを見透かすような神秘的なまなざしが彼の言葉を奪う。
「――大事なピースが欠けてしまったらもう二度と元の形には戻せない……この家もアキラが出て行ってからずいぶん変わってしまったわ」
さみしそうな微笑と共にそう言って、彼女はアキラによく似た横顔を伏せた。
泊まっていけと言ってくれたが、セナは実家に帰ることを理由にそれを丁重に断った。アキラが以前履いていたというサンダルを借りて邸宅を出ると、ほの明るい空の下を歩き出す。
(いつも傍にいた、大切な人……)
先ほどの彼女の思い出しながら門を開け、彼は大きく息を吸い込んだ。傷は痛むが、気持ちはだいぶ落ち着いている。
実家に戻ったら母と父に謝ろう。姉が帰ってきていたら説教されるだろう。長くなりそうだが、それも黙って受け入れなければ。そして明日は、オフィスウイルドに連絡して一度だけメンバーに会わせてもらう。ちゃんと謝りたい……許してもらえなかったとしても。
そんなことを漠然と考えながら彼は後ろ手に門を閉め階段を降りた。そのときだった。
物陰から飛び出してきた影にタックルされ、勢いよく地面に倒れた。驚愕に顔を染めて仰ぎ見れば、恰幅のいい黒服の男が立っている。
「……――なんでっ……」
居場所がわかるようなものはなにも持っていないはず……セナが思ったのと同時、男がにやりと笑う。
「諦めろ。ペットは逃げられない」
そのとき彼は、はっと息を呑んで自分の胸元に手を当てた。
――これだ。
冷たいシルバーのネックレスに指で触れる。チャーム部分にGPSが搭載されていたに違いない。
「くそっ……!」
彼はチェーンを掴み力任せに引き千切ると、ポケットに入れていたチャームを男の方に投げつける。そうして尻を地面につけたまま後ろに下がり、もつれる足で必死に立ち上がった。だがそのとき――逃げようとした先に車が現れ、ヘッドライトの光が彼の体を舐める。細い道を塞ぐように停まった車の中から、男がふたり出てきた。
「誰かっ……!誰か助けて!」
叫んだ次の瞬間、みぞおちに硬い拳がめり込む。背中を波打たせた彼は先ほど飲み食いしたものを地面にぶちまけ、激しく咳き込みながら膝をつく。
「犬小屋に帰る時間だぞ」
男のひとりが、四つん這いで逃げようとするセナの首根っこを掴み、笑いながら言った。
一方その頃、アキラはユウを助手席に乗せて都内の道をひた走っていた。
肉接部屋。そのおぞましい名を頭のなかで何度も繰り返している彼の瞳は、怒りと悲しみに燃えている。
レノから電話を受けたとき、彼はユウと自宅にいた。通話を切るなり仕事部屋から飛び出したアキラは、キッチンで立ったままカップ麺を啜っていたユウの腕を掴むと、「セナの居場所がわかった!」といつになく荒々しい口調で叫び――まだ食事中にもかかわらず彼の腕を引っ張って、抵抗する余地も与えない強引さで玄関へと向かったのだった。
「セナ君がそこにいるってほんとなん?」
ユウは、運転席でハンドルを握っているアキラを横目で見遣る。彼の手には割り箸が刺さったままのカップ麺。すっかり冷めて、麺は汁を吸い伸びてしまっている。
「ライバルからの情報なんて信用できなくね?」
「俺はレノを信じる」
アキラは険しい顔で正面を睨むように見つめ、強く言い放つ。ユウはそれ以上なにも言わず、視線を前に戻した。
そのときアキラのスマホが鳴り、ユウが代わりに出た。電話をしてきた相手はヤヒロである。
「あ?……ユウか?なんでおめーが出るんだよ」
「アキラは運転中。メッセージ見た?」
「まだ。アキラに、何度も何度も電話してくんじゃねえよアホって伝えとけ。次会ったらしばく」
「怒ってる場合じゃねーよ。セナ君の居場所がわかったかもしんない。いまそこに向かってる」
その言葉を聞いて驚愕の声を漏らしたヤヒロは、わずかな沈黙のあと声を低めて尋ねる。
「どこにいた?」
「西新宿のタワマン。住所送る」
電話を切ってすぐあと、ヤヒロはタビトに連絡し、彼の住まいまで迎えに行った。ホズミは電話に出られない状態らしく連絡がつかないためウツギに車を出してもらい、彼らは新宿へと向かう。
5人は、セナがいると思われるマンション近くのコインパーキングで合流した。顔を見合わせたとき、誰もなにも言葉を交わさなかった。ただ互いに頷き合うと、アキラが先陣を切って歩き出す。
このあたりは商業施設も多い。彼らは人目を避けるために遠回りし、ようやく目的地に辿り着いた。
マンションの名が刻まれたゴールドの銘板が明かりに照らされている。その向こうに、豊かな木々に囲まれて建物がいくつか建っているのが見えた。どうやら中層と高層で棟が分かれ、エントランスも2か所あるようだ。まっすぐに伸びた道を行った先には、コンビニや飲食店などのテナントが入った建物もある。
迷いながらウエストタワーのメインエントランス前まで来ると、アキラが重々しく口を開く。
「セナはここの最上階……サシャからペントハウスを与えられて暮らしてるみたい」
「ペントハウスだぁ?」
天を貫くように聳えるマンションを仰ぎ見たヤヒロは、先ほどよりも更に険しい顔になる。
「一介のアイドルに――しかも自社と契約してるわけでもねえヤツにそこまでの待遇するか?なんかクセェな」
「レノの話によると、その部屋はサシャの別宅で……新人とか売り出したいアイドルを住まわせて芸能界の有力者とか民放キー局のお偉いさんの相手させてるんだって……仕事を優先的に回してもらえるから、みんな黙って受け入れてるらしい」
「有名になる対価として枕営業させられるってわけか」
乾いた笑いを言葉にのせるヤヒロの横でやりとりを聞いていたユウは、蒼白の顔を彼らに向ける。
「ちょ、待って。セナ君がスケベ野郎の相手させられてるってこと?」
全員がユウを見た。しかし、重苦しい表情で口を閉ざしたまま誰もなにも言わない。
「なんで黙るんだよ。まだギリセーフだって、……」
声が途切れ、俯く。彼はTシャツの胸元をきつく掴み、消え入りそうな声で続けた。
「――大丈夫って……、誰か言えってば」
「とにかく部屋を訪ねてみよう」
硬い声でタビトが促す。誰からともなく歩を進め、共用部分のエントランスに入った。オートロック操作盤の前に立ったアキラが、部屋番号のボタンを入力し呼出ボタンを押す。
応答を待ちながらタビトはショックを隠せない様子でつぶやいた。
「噂には聞いてたけどほんとにこんなことがあるなんて……」
「俺も信じられないよ」
答えたのはアキラだ。
「レノが詳しく教えてくれたけど……あれはもう枕営業の域を越えてる。サシャとお偉いさんとの間で行われてるのはアイドルとかタレントの人権を完全に無視した人身売買だ」
驚愕に目を瞠るタビトの横で、拳をきつく握りしめる。
「セナの無事を祈るしかない」
アキラが言ったとき、エントランスホールに続く自動ドアが急に開いた。
彼らの視線の先には、黒服の男がひとり立っている。
どうやらサシャの使いらしい。男は顎先でエレベーターホールの方を示し、歩き出す。それぞれに視線を交わし合った彼らは黙って男のあとについていった。
一時期、セナは毎日のようにここに遊びに来ていた。宿舎暮らしをする前、アキラと出会ったばかりの頃だ。広くとられた玄関ホール正面には螺旋階段があり、シンプルな調度品がセンス良く飾られている。玄関を上がって右に曲がった先にはリビングダイニングがあり、そこの大窓からは芝目の美しい庭が見渡せた。
「どうぞ」
あたたかいミルクの入ったマグカップが差し出され、セナはちいさく礼を言って受け取る。
バスルームで足裏の汚れを丁寧に洗い流してから、診察室で傷を縫合した。彼女はどこまでも親切だった。手当てをしてくれただけでなく、Tシャツが汗を吸ってぐっしょり濡れているのを見て、アキラの部屋着まで貸してくれた。
「すこし落ち着いたようね。よかった」
ビスケットの入った皿を彼の前に置き、ほっとしたように笑う。
ソファに身を預けたセナは頷き、ミルクをひとくち飲む。アキラの母は彼の向かい側にパーソナルチェアを持って来ると、ゆったりとした動作で腰を下ろした。セナは、その余裕のある振る舞いのなかにアキラの姿を見る。髪と瞳の色こそ違うが、顔の造形は母親にそっくりだ。父親は顔のパーツひとつひとつが大きく、全体的にワイルドな印象の大男だと記憶している。アキラは母親の顔の奇跡的な黄金比――美人顔といわれる要素を丸ごと受け継いだようだ。
「ああ、そうだ。これ……」
ビスケットを齧っているセナに、シルバーのチャームを差し出す。
「あなたのものよね?洗面台の床に落ちてましたよ」
きらりと光るそれを凝視し、セナは表情を強張らせた。これはサシャから与えられたものだ。捨ててくれと言いたかったが理由を聞かれることを恐れて、彼はそれを受け取った。見れば、丸カンの合わせ目がずれて隙間が空いてしまっている。
「直してあげようか?」
チャームを指差して、彼女が言う。かぶりを振ったセナはスウェットパンツのポケットにそれをしまった。
それからしばらくふたりは無言でミルクを飲んだ。大通りから少し離れているせいか、物音ひとつしない。
アキラとここで過ごす夜も、今日と同じように穏やかだった……それを思い出したセナがほんのりと明るい庭に目を遣ると、彼女は静かに唇を開いた。
「うちに来るのは、3、4年ぶりくらいかしら。あの頃はよく遊びにきてくれていましたね。ふたりで作った料理を私たちに振る舞ってくれたり、庭にテントを張ってキャンプごっこをしたり。懐かしいわ」
「覚えていてくれたんですね」
「もちろん。アキラの大切なお友達だからね」
にっこりと笑う顔には年相応の皺が刻まれたが、彼女の美しさは損なわれない。その笑顔からは、老いを恐れず堂々としている人間特有の、からっとした潔さが伝わってくる。
自信あふれる彼女の姿に羨望のまなざしを注ぎながらセナは問うた。
「最近、アキラ君と会いましたか?」
「いいえ。いつも私のいない時とか忙しい時に来るから、まったく会えていないの。――避けられても仕方がないわね。だって私たちは未だに、わかりあえないままなんですもの……」
儚く微笑んだ彼女は、首を左右に振る。
「連絡先も教えてもらえないから、元気にやってるのかどうか気になったときにSNSの公式アカウントを見にいくこともあるんだけど、あの子ちーっともポストしないでしょ?アキラとの写真とか近況をたくさんあげてくれるセナ君にどれだけ感謝したことか……。どの写真もみんな楽しそうで、アキラが幸せに過ごしていることが伝わってきたわ」
いつもありがとう、と礼を言われたセナは昏い顔になり視線を伏せる。公式アカウントをチェックしているとなれば、ウル・ラドが現在4人で活動していることも当然知っているはずだ。
「すみません」
セナは膝を揃えて頭を深く垂れ、そう言った。
「どうして謝るの?」
「――僕、いろいろあって……ウル・ラドを脱退するつもりなんです。なのでもう、お役に立つことは……」
語尾が消え入り、彼は唇を固く引き結んだ。
彼女は何も言わずにダークブルーの目を細める。その沈黙に耐えきれず、彼は捲し立てるように言葉を続けた。
「僕がいなくなっても、ウル・ラドは活動を続けていきます。ひとり欠けたところでなにも変わりません……だから安心してください」
青白い顔を上げたセナは彼女を窺い見た。その緊張のまなざしを、彼女は静かに受け止めている。
「すみません……」
消え入りそうな声でセナは再び謝罪を口にする。
すると、手にしていたカップをテーブルに置いた彼女はようやく唇を開いた。
「変わらないなんてことはないと思う」
「え……?」
「いつも傍にいた大切な人がいなくなるのは、残された側にとって大きな衝撃よ」
すべてを見透かすような神秘的なまなざしが彼の言葉を奪う。
「――大事なピースが欠けてしまったらもう二度と元の形には戻せない……この家もアキラが出て行ってからずいぶん変わってしまったわ」
さみしそうな微笑と共にそう言って、彼女はアキラによく似た横顔を伏せた。
泊まっていけと言ってくれたが、セナは実家に帰ることを理由にそれを丁重に断った。アキラが以前履いていたというサンダルを借りて邸宅を出ると、ほの明るい空の下を歩き出す。
(いつも傍にいた、大切な人……)
先ほどの彼女の思い出しながら門を開け、彼は大きく息を吸い込んだ。傷は痛むが、気持ちはだいぶ落ち着いている。
実家に戻ったら母と父に謝ろう。姉が帰ってきていたら説教されるだろう。長くなりそうだが、それも黙って受け入れなければ。そして明日は、オフィスウイルドに連絡して一度だけメンバーに会わせてもらう。ちゃんと謝りたい……許してもらえなかったとしても。
そんなことを漠然と考えながら彼は後ろ手に門を閉め階段を降りた。そのときだった。
物陰から飛び出してきた影にタックルされ、勢いよく地面に倒れた。驚愕に顔を染めて仰ぎ見れば、恰幅のいい黒服の男が立っている。
「……――なんでっ……」
居場所がわかるようなものはなにも持っていないはず……セナが思ったのと同時、男がにやりと笑う。
「諦めろ。ペットは逃げられない」
そのとき彼は、はっと息を呑んで自分の胸元に手を当てた。
――これだ。
冷たいシルバーのネックレスに指で触れる。チャーム部分にGPSが搭載されていたに違いない。
「くそっ……!」
彼はチェーンを掴み力任せに引き千切ると、ポケットに入れていたチャームを男の方に投げつける。そうして尻を地面につけたまま後ろに下がり、もつれる足で必死に立ち上がった。だがそのとき――逃げようとした先に車が現れ、ヘッドライトの光が彼の体を舐める。細い道を塞ぐように停まった車の中から、男がふたり出てきた。
「誰かっ……!誰か助けて!」
叫んだ次の瞬間、みぞおちに硬い拳がめり込む。背中を波打たせた彼は先ほど飲み食いしたものを地面にぶちまけ、激しく咳き込みながら膝をつく。
「犬小屋に帰る時間だぞ」
男のひとりが、四つん這いで逃げようとするセナの首根っこを掴み、笑いながら言った。
一方その頃、アキラはユウを助手席に乗せて都内の道をひた走っていた。
肉接部屋。そのおぞましい名を頭のなかで何度も繰り返している彼の瞳は、怒りと悲しみに燃えている。
レノから電話を受けたとき、彼はユウと自宅にいた。通話を切るなり仕事部屋から飛び出したアキラは、キッチンで立ったままカップ麺を啜っていたユウの腕を掴むと、「セナの居場所がわかった!」といつになく荒々しい口調で叫び――まだ食事中にもかかわらず彼の腕を引っ張って、抵抗する余地も与えない強引さで玄関へと向かったのだった。
「セナ君がそこにいるってほんとなん?」
ユウは、運転席でハンドルを握っているアキラを横目で見遣る。彼の手には割り箸が刺さったままのカップ麺。すっかり冷めて、麺は汁を吸い伸びてしまっている。
「ライバルからの情報なんて信用できなくね?」
「俺はレノを信じる」
アキラは険しい顔で正面を睨むように見つめ、強く言い放つ。ユウはそれ以上なにも言わず、視線を前に戻した。
そのときアキラのスマホが鳴り、ユウが代わりに出た。電話をしてきた相手はヤヒロである。
「あ?……ユウか?なんでおめーが出るんだよ」
「アキラは運転中。メッセージ見た?」
「まだ。アキラに、何度も何度も電話してくんじゃねえよアホって伝えとけ。次会ったらしばく」
「怒ってる場合じゃねーよ。セナ君の居場所がわかったかもしんない。いまそこに向かってる」
その言葉を聞いて驚愕の声を漏らしたヤヒロは、わずかな沈黙のあと声を低めて尋ねる。
「どこにいた?」
「西新宿のタワマン。住所送る」
電話を切ってすぐあと、ヤヒロはタビトに連絡し、彼の住まいまで迎えに行った。ホズミは電話に出られない状態らしく連絡がつかないためウツギに車を出してもらい、彼らは新宿へと向かう。
5人は、セナがいると思われるマンション近くのコインパーキングで合流した。顔を見合わせたとき、誰もなにも言葉を交わさなかった。ただ互いに頷き合うと、アキラが先陣を切って歩き出す。
このあたりは商業施設も多い。彼らは人目を避けるために遠回りし、ようやく目的地に辿り着いた。
マンションの名が刻まれたゴールドの銘板が明かりに照らされている。その向こうに、豊かな木々に囲まれて建物がいくつか建っているのが見えた。どうやら中層と高層で棟が分かれ、エントランスも2か所あるようだ。まっすぐに伸びた道を行った先には、コンビニや飲食店などのテナントが入った建物もある。
迷いながらウエストタワーのメインエントランス前まで来ると、アキラが重々しく口を開く。
「セナはここの最上階……サシャからペントハウスを与えられて暮らしてるみたい」
「ペントハウスだぁ?」
天を貫くように聳えるマンションを仰ぎ見たヤヒロは、先ほどよりも更に険しい顔になる。
「一介のアイドルに――しかも自社と契約してるわけでもねえヤツにそこまでの待遇するか?なんかクセェな」
「レノの話によると、その部屋はサシャの別宅で……新人とか売り出したいアイドルを住まわせて芸能界の有力者とか民放キー局のお偉いさんの相手させてるんだって……仕事を優先的に回してもらえるから、みんな黙って受け入れてるらしい」
「有名になる対価として枕営業させられるってわけか」
乾いた笑いを言葉にのせるヤヒロの横でやりとりを聞いていたユウは、蒼白の顔を彼らに向ける。
「ちょ、待って。セナ君がスケベ野郎の相手させられてるってこと?」
全員がユウを見た。しかし、重苦しい表情で口を閉ざしたまま誰もなにも言わない。
「なんで黙るんだよ。まだギリセーフだって、……」
声が途切れ、俯く。彼はTシャツの胸元をきつく掴み、消え入りそうな声で続けた。
「――大丈夫って……、誰か言えってば」
「とにかく部屋を訪ねてみよう」
硬い声でタビトが促す。誰からともなく歩を進め、共用部分のエントランスに入った。オートロック操作盤の前に立ったアキラが、部屋番号のボタンを入力し呼出ボタンを押す。
応答を待ちながらタビトはショックを隠せない様子でつぶやいた。
「噂には聞いてたけどほんとにこんなことがあるなんて……」
「俺も信じられないよ」
答えたのはアキラだ。
「レノが詳しく教えてくれたけど……あれはもう枕営業の域を越えてる。サシャとお偉いさんとの間で行われてるのはアイドルとかタレントの人権を完全に無視した人身売買だ」
驚愕に目を瞠るタビトの横で、拳をきつく握りしめる。
「セナの無事を祈るしかない」
アキラが言ったとき、エントランスホールに続く自動ドアが急に開いた。
彼らの視線の先には、黒服の男がひとり立っている。
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