よあけ

紙仲てとら

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本編

第343話

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 まさかさっきの話を、ずっと聞かれていたのか?そう思った瞬間、全身に嫌な汗が浮いた。
 チカルが弁明しようとするより先に、マリは薄い唇を開く。
「あばずれ」
 怯える娘の瞳を真っすぐに見て、氷のような表情でそうつぶやいた。
 ぞっと身を震わせたチカルは思わず母の元に駆け寄る。
「母さん!」
「うるさい。近寄るな」彼女はハンカチを鼻先に当て、「恋人以外の男に股を開くだなんて……けがらわしい」
「違うの!誤解よ」
 必死にかぶりを振り訴えるも、マリには届かない。彼女はチカルの胸元を強い力で押しやると、薄っすらと笑った。
「誤解?なにが違うって?」
「シュンヤ以外の男性と関係を持ったりなんかしてないわ!」
「じゃあさっきの話はなんだったの?彼、はっきり言っていたわね。『他の男との子ども』って」
「……――それは……」
 鋭い声で指摘されたチカルは、蒼白の顔で口籠る。あまりにも複雑な話だ、洗いざらい打ち明けたところで信じてもらえるとは思えない。
 しかしこのまま黙っていれば、誤解されたままになる……チカルが逡巡するなか、マリは突然くつくつと笑い出した。
「ああ……なんてことだろう。まさかあの男と同じ悪癖がここに受け継がれていたとはねえ」
「……あの男?」
「私の父。つまりあなたのおじいさまのことよ」
 マリは美しい口元に薄笑いを刻んだまま、ゆったりと腕を組み柱に凭れかかった。
「あれもおまえと同じように性にだらしない男でね……よそに何人も女をつくって婚外子を産ませていたの。お母さまが不貞を咎めたとき、あいつ、なんて言ったと思う?『おまえが男児を産めないせいだ』と言ったのよ。どうやら、妾が男児を産んだらそれを那南城家の跡取りに迎えるつもりだったようね」
 驚愕のあまり声も出ないチカルを見下ろすように顎を上げ、彼女は続ける。
「そのことを知ったお母さまは、狂ってしまった。――妻が自分のせいで苦しんでいると知りながら……それでもあの男は、多くの女を囲って子どもを産ませ続けたわ。あんな悪人を、私はこれまで見たことがない」
 那南城一族の本家はもう何代も前から、男児に恵まれなかった。あの家を出て新たに家庭を築いた者はみな男児を授かっていることから、本家に男児が生まれないのは何かの呪いだと、親族のあいだでまことしやかに囁かれてきたのである。
 だからこそ本家を継いだマリがリョウを産んだことは、那南城家にとって奇跡だった。呪いは解けたと、誰もが思ったに違いない。
 しかしそれは間違いだった。この家は今もなお、呪われ続けている。
 命を削り何人産もうとも男児を腕に抱くことは叶わず、そのうえ夫が不貞を働いた――これがきっかけとなり終ぞ溢れてしまった積年の恨みつらみを受け止めきれず、狂ってしまった祖母……彼女の光のない眼を思い、チカルは背筋を震わせた。
「早く死ねって毎日願ってた。なのになかなか死なないから……いっそ殺してやろうかと、何度思ったか知れない」
「母さん……そんなの本心じゃないんでしょう?あんなにお爺さまを慕っていたじゃないの……」
「馬鹿な子。ぜんぶお芝居に決まってるじゃない」
 ハンカチで口元を隠したまま、目を三日月形に細める。
「あの男が死ぬ間際に、耳元でささやいてやったわ……『地獄に落ちろ』って。それを聞いたときのあいつの顔、思い出すと今でも笑っちゃう。あなたにも見せたかった」
「――ひどい……」
「失礼ね。向こうがしてきたことの方がよっぽど酷いじゃあないの」
 唄うように軽やかな声で、マリは言い継ぐ。
「婿養子として女の家に入る男なんてしょせん、相続問題から除外された余り物。女の家の財産を食いつぶす能無しよ。なのにあいつは自分の立場を理解しようとはしなかった。掃きだめから拾ってもらった恩を忘れて、私たちを苦しめた……。家の存続のためとはいえ、正当な血筋でない人間に偉そうな顔をされるのは、本当に悔しくてたまらなかったわ」
 彼女は口元を押さえていたハンカチを外した。茫然と立ち竦むチカルから視線を外し、にたりと笑みを浮かべる。
「あのクソ親父……最期までリョウのことばかり心配していたっけね。未練を残して死んでいい気味だ」
 くつくつと喉の奥で笑っていたが、マリはやがてゆっくりとその笑みを消した。そして再びチカルを見つめると、低めた声でつぶやく。
「だいじに育ててきたのに……おまえも同じだったのね。私がこの世でいちばん憎んでいた、あの男と……」
「やめてっ……!私はお爺さまとは違う!ちゃんと説明するから、話を聞いて!」
「説明なんてしなくていいわ。黙って消えて。もう二度と顔も見たくない」
「母さん……!」
「産むんじゃなかった」
 そう言い残し柱から体を離したマリは、庭に立つふたりに背を向ける。
 残されたチカルはがたがた震えながら、腹の底から込み上げる慟哭を堪えるように上体を丸めると、地面にくずおれた。
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