よあけ

紙仲てとら

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本編

第315話

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 スタッフのいるテントに向かって勢いよく駆けてきたタビトを、腕組みをしたホズミが険しい顔で見つめている。
 彼らは早朝から、春駒コーポレーションの商品コマーシャルの撮影のために茨城県日立市の海岸に来ていた。現場に向かう車の中、スマホを見つめているタビトがなにやら難しい顔をしていたのが気になっていたが――休憩時間に入ったとたん電話をかけに行ったところを見るとやはりなにかあったらしい。
 通話相手が誰なのかは察しがついている。仕事中にわざわざ連絡を入れるような相手といえば……チカルしかいない。
 ホズミは、スタッフに迎えられメイクや髪型を直されているタビトを視線で追う。彼の表情や態度は撮影が始まったときとなんら変わらない。無垢な瞳は新鮮な朝露のようにきらめいて、神聖さすら感じさせる。
 この世のものとも思えぬ美貌を惜しげもなくさらし、持ちうる限りの魅力を最大限に発揮している彼を見つめながらホズミは、そっと息を吐く。なにがあったにせよ、仕事に持ち込まないのはさすがだ。
 チカルを失ったと信じ込み、アイドルという仮面の下で血の涙を流しながらステージに立ったあの日を境にタビトは変わった。以前よりも堂々とふるまうようになり、ファンの前での言動も優雅で落ち着きがある。色気が増したように感じるのも彼女の影響だろう……もしかしたら、女の味を知ったのかもしれない。
 ホズミはチカルの首筋の白さや繻子のようになめらかな肌を脳裏に浮かべた。可憐に色づく小さな唇がタビトに奪われる瞬間を想像しかけたとき、
「はーいオッケーです!お疲れさまでした!」
 遠くでカットの声が掛かり、撮影が終了する。我に返ったホズミは、顔の砂を払いながら近づいてきたタビトにタオルを手渡した。彼は笑顔でそれを受け取り、霧吹きで水をかけられてしっとりと濡れた肌や髪を拭い始めた。
「今日はもうこれで終わりだよね」
「ああ。マンションまで送ってくよ」
 どこかぼんやりとした口調で言葉を返すと、タビトは小さくかぶりを振る。
「ホズミさんの仕事が終わるまで待ってるから、家ついて行ってもいい?……チカルさんに直接会って話したいことがあってさ」
「――どうした……ケンカでもしたか」
「してないよ」
 あっさりとそう返され、彼は眉を上げる。どうやら杞憂だったようだ。
「ね、連れてって」
「……。駄目だ」
「えー?なんで!」
「用事がある」
「ホズミさんが、でしょ?チカルさんに用事がなければいいでしょ?ね!大人しくするから!」
「駄目だ」
「ケチ!」
「なんとでも言えよ」
 素っ気なく返して腕時計に視線を落とす。
「14時か。昼飯おごるから、食って帰ろう」
 近くの蕎麦屋に入った。タビトはとろろ蕎麦、ホズミはチキンカツ定食を頼み無言で食べる。平日の14時すぎとあってか彼ら以外の客はたったひとり――新聞を読みながらカレーうどんを頬張っている作業服姿の男のみで、店内は閑散としていた。
 会計を済ませて店を後にすると、一足先に表に出ていたタビトが車の傍らに立ち広大な海原を眺めているのが見えた。
 蕎麦屋に向かう道中も、食事中も、タビトは一切チカルのことを口にしなかった。いつもなら会いに来ることを断るともっとしつこく食い下がってくるのに、やけにあっさりしているじゃないか――ホズミがすこし不気味に思いながら近づくと、気配に気づいた彼がゆっくりと振り返った。温もりを感じない彫刻のような顔に微笑みが咲く。
「ごちそうさまでした」
「旨かったな」
「うん。チキンカツ分けてくれてありがとね」
「最近、“食いたい”って気持ちに胃がついてきてくれなくてな」油に負け、すっかりもたれてしまった胃をさすって、「これが老いか……」さみしくつぶやく。
「なーに弱気になってんの。まだ43でしょ?」
 あっけらかんと言いながら助手席に乗り込む。ホズミも続いて運転席に座ると、力なくぼやいた。
「40過ぎると急にガタガタッと来るんだよ。油もの食べると胃もたれするようになったり、白髪とか小皺が急に増えたりさ」
 バックミラーを覗き込み、生え際の白髪を指でなぞる。
「那南城さんも今年だか来年だか、40になるんだろ。同年代の感覚で接して無理させるなよ」
「わかってますって……」
 辟易した様子で溜息まじりに答え、ぷいと窓の方を向いてしまう。
 いつも通りマンションの車寄せまでタビトを送り、事務所に戻って雑務をこなしたあと自宅へと車を走らせた。夕暮れ時のうら寂しい気配のなかに降り立つと、ちょうど玄関灯に光が入る。チカルがスイッチを入れてくれたのだろう。
 明かりの灯された家に帰るのはやはりよいものだと、ホズミは思う。そして同時に、彼は今なお褪せない面影をまぶたの裏に見た。もしもあのとき、あの人の腕を掴み引き止めていたら――そう考えてしまったのをきっかけに、過去においてきたはずの思い出が次々と浮かんで、慌てて打ち消す。そして沈鬱な気分のまま扉を開いた。
「おかえりなさいませ」
 夕刊を手に廊下を戻りかけていたチカルが彼を出迎える。
「ただいま」
 憂いを含んだ微笑と共に言葉を返したホズミは、イサギの草履がないことに気づきすこし驚いた顔になる。
「イサギ、今日は来なかったんですか?」
「ホズミ様がお出かけになられてからすぐにいらして、私といっしょに朝食を……。それからすぐにご帰宅されました」
「メシ食いにわざわざ?まったく、よくわからん奴だなあ」
「朝早くにいらっしゃったのは……ホズミ様が早朝から不在と知って、料理が苦手な私を気にかけてくださったのだと思います。ご帰宅される前に私のお昼ごはんまで作ってくださって……感謝しきりでした」
「へえ……」
 そんなに面倒見のいい人間だっただろうか。気まぐれな印象しかないため、ここまで甲斐甲斐しい一面があったとは驚きだ。
「最近お忙しいと言ってらしたのに、お仕事の合間、わずかな時間でも毎日顔を見せにきてくださるのです。おかげで、さみしくありません」
「いつも玄関じゃなくて庭の方から来るでしょう?猫みたいな男なんですよ」
 ふたり同時に破顔して笑いに肩を揺らしながら、どちらからともなく廊下を歩き出す。
「夕食はもうお済みですか?」
「軽く食べました。那南城さんはこれからですか」
 事務所で食べたコンビニの総菜パンの味を舌に思い出しながら問えば、彼女はこくりと少女のように頷く。
「イサギさんが野菜入りのコンソメスープを多めに作ってくださって、まだ残っているので……マカロニを入れて、かさましして食べようかと」
「それは旨そうだ」
「よろしければホズミ様もいかがですか?」
「いいんですか?ぜひご馳走になりたいな」
 そう言ってから、彼はふと真面目な顔になる。
「――あの……那南城さん。ずっと思ってたんですけど、そろそろ名前に“様”をつけるのやめませんか」
「仕事関係の方のことは様付けで呼んでいるので、つい……。ご不快でしたか?すみません……」
「いや、不快ではないんです。普段そういう呼ばれ方されないんで、なんだかくすぐったくて」
「では……ホズミさんと呼ばせていただいても?」
「もちろんです。その方がしっくりきますんで」
「私のことも呼びやすい名でお呼びくださいね」
「正直、苗字よりも名前の方が呼びやすいのでそうしたいんですが……タビトになに言われるかわからないんでやめときます」
 溜息まじりに言うと、チカルは困ったように笑った。近頃のタビトの様子からすると確かに突っかかってきそうではある。
「こうしてふたりきりのときはチカルと呼んでくださいな」
 その言葉にホズミは少し驚いたような顔になったが、やがてゆっくりと目を細める。
「……――チカルさん」
「そう呼んでいただいた方が、私もしっくりきます」
 やわらかな口調で言うと、薄桃色の唇のあいだから白い歯をわずかに覗かせた。
 その魅惑的な微笑を見つめながらホズミは、彼女の言葉をひとつひとつをじっくりと耳を澄ませて聞いていることに気づく。なにせ、低く落ち着いた、なんとも惚れ惚れする声なのだ。いつまでも聞いていたくなる。
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