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本編
第296話
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「もしアキラ君の言う通りなら、ずっとムナカタ社長の手のひらで踊らされてたってことか……。やられたな」
聴いたこともないウツギの柔らかい声に、ヤヒロは吸い寄せられるように顔を上げた。目が合うと、ウツギは体ごと彼の方に向き直る。
「さっそくアポ取ってムナカタ社長に会うから……同席してくれると嬉しい」
「……ん」
浅く頷いたヤヒロは、すぐに視線を外す。それを見たアキラはにんまり笑って、
「なに照れてんの」
「照れてねえよ」
「照れてんじゃん」
「うっせーな」
ふたりのあいだにいつもの空気が戻ってきた。
ヤヒロの顔色もいつのまにかすっかりよくなっている、それを見て、ウツギは引き締まった表情を崩し、エプロンの紐を締め直しながら言った。
「……ふたりとも、お腹すかない?」
「すいたぁ」
振り向いたアキラが元気よく答える。
「朝ごはん……つくるから、アキラ君も食べてって……」
「ありがとウツギさん」
そのやりとりを聞いていたヤヒロが、ウツギの方を睨むように見る。
「――あんたさあ……普段からあのしゃべり方してくんない?」
「あの……しゃべり方?……」
「自覚なしかよ」
あきれて溜息まじりに言うと、ウツギは眠そうな垂れ目を見開いて、それからしょんぼりと項垂れる。
「しゃべるの……やっぱり……早口だったよね……。ごめん……音楽のことになると……いつもこうなんだ……」
「あんたが早口だと思うくらいが聞く側にとってちょうどいい早さなんだよ!」
「……え、……。そうなんだ……」
「ウツギさんは今のままでいいよ」アキラはほほえんで、「情熱的な姿を見て好感度あがっちゃったな。俺、ギャップある人に弱いんだよね」
「またなんか言い出したぞこいつ……」
「ねえねえ、やっぱり俺のとこに来てよウツギさん。ユウも喜ぶと思うし」
「隙あらば引き抜こうとすんな!こいつは俺と契約してんの!」
「がさつで乱暴なヤヒロといるよりも俺たちの家に来た方が気持ちよく仕事できると思うけど?」
「性格悪いおまえのことだからどうせそのうち顎で使うようになるに決まってらあ」
「そんなことしませーん」
当人の意思などまるで無視して不毛な論争が始まる。ウツギは我関せずといった様子でのそのそと歩き出し、キッチンの灯りをつけた。
先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、なごやかな時が過ぎていった。
彼らが食事を終えると、時刻は午前11時を回っている。これからのことについて、ずいぶんと長く話し込んでしまった。
食事の余韻にひたりながらアキラは、キッチンに並び立つふたりを見遣った。なにやらひっきりなしに話をしているが、ソファに座る彼の耳には声が届かない。
ふたりのあいだに流れる特別な空気感を、アキラは肌で感じた。そして、一抹のさみしさを覚えた。
ヤヒロは淋しがりやで人好きだが、楽曲制作に集中しているときは他人との接触を極力避ける。制作のパートナーとして長年連れ添ってきたアキラでさえも拒絶されるときがままあった。しかし――ハウスキーパーとして招いたウツギだけは、24時間彼といることを許されている。
制作期間中は毛を逆立てた猫のように攻撃的になり、周囲を遠ざけるヤヒロが彼だけを無条件に受け入れたのは、自分の生活の質を保ってくれるというだけではなく、彼の正体が敬愛する「Diina」だったからかもしれない、とアキラは思った。裏に隠されたもうひとつの顔を知らずとも、ウツギの選ぶ言葉やその考え方から――なにか運命的なものを感じていたのではないか、と。
「……どうぞ……」
取りとめもなく考えていたアキラに、紅茶が注がれたティーカップが差し出される。夢から醒めたような顔で頬杖を解き声の方を振り仰いだ彼は、ウツギの手からそれを受け取った。
「ありがと」
「食事……足りましたか?」
「もうおなかいっぱい。エッグベネディクトもフルーツデニッシュも最高においしかったです。高級ホテルで食事した気分」
「……喜んでもらえて、よかった……うれしい……」
ウツギは無気力な瞳をゆっくりと瞬かせながら言う。もうすっかりいつも通りの彼だ。
やわらかい湯気の向こうに、いつのまにかヤヒロが座っている。彼はしばらくスマホの液晶画面にすいすいと指を滑らせていたが、ふいに目を上げてアキラを見る。
「このあとどうすんの」
「どうって……帰るけど」
やわらかな陽光に照らされているヤヒロの顔は、まだ十代半ばほどに見える。ヒゲが薄くほとんど生えないからということもあるだろうが、メイクをしていないと実にあどけない。体つきにしてもそうだ。骨格が華奢なため筋肉がついても線が細くすらりとして、少年期の未熟さを感じさせる。
ヤヒロに少年の面影を見るとき、アキラは必ずあの夏の夜を思い出す。まだ14歳だった彼の、白い背中。骨の輪郭を映し出す薄い皮膚。そして――
「一緒に行く」
ヤヒロの澄んだ声が鼓膜を打ち、我に返る。
一拍置いて言葉の内容を理解すると「一緒にって……」と小さくつぶやき、すこし戸惑った様子で言った。
「今日は遊ばないよ。まっすぐ家に帰る」
ヤヒロはなんとも答えず、手の中のカップを口元に運ぶ。アキラも同じく乾いた喉を潤し、次の瞬間おどろいたように眉を上げた。
「砂糖とミルクは?入れなくていいの?」
「あ?」
「ストレートの紅茶は渋くて苦手だって言って、いつも砂糖をたーっぷり入れたミルクティー飲んでるじゃん」
上目遣いで見つめ、いたずらっぽく微笑む。
「家じゃ入れねえよ。渋みの少ない茶葉をウツギが選んでブレンドしてくれてっからさ……」
「へえ。ヤヒロは子ども舌だからウツギさんも大変だね」
「そうだな」
心ここにあらずといった様子で答えた彼は、一定のタイミングで通知音が鳴り続けているスマホを手放さない。
アキラはつまらなそうに小さく鼻を鳴らす。ソファの背に凭れて、いつまでもそっぽを向いたままのヤヒロをじっくりと観察していたが、ティーカップの中身を飲み干したところで立ち上がった。
「じゃ、帰るね」
それを横目で見たヤヒロはようやく液晶画面から視線を剥がすと、
「待てって。着替えてくっから」
「見送りならいらないよ」
キッチンで朝食の後片付けをしていたウツギに挨拶し、ヤヒロの制止も聞かずにアキラは部屋を出ていく。
聴いたこともないウツギの柔らかい声に、ヤヒロは吸い寄せられるように顔を上げた。目が合うと、ウツギは体ごと彼の方に向き直る。
「さっそくアポ取ってムナカタ社長に会うから……同席してくれると嬉しい」
「……ん」
浅く頷いたヤヒロは、すぐに視線を外す。それを見たアキラはにんまり笑って、
「なに照れてんの」
「照れてねえよ」
「照れてんじゃん」
「うっせーな」
ふたりのあいだにいつもの空気が戻ってきた。
ヤヒロの顔色もいつのまにかすっかりよくなっている、それを見て、ウツギは引き締まった表情を崩し、エプロンの紐を締め直しながら言った。
「……ふたりとも、お腹すかない?」
「すいたぁ」
振り向いたアキラが元気よく答える。
「朝ごはん……つくるから、アキラ君も食べてって……」
「ありがとウツギさん」
そのやりとりを聞いていたヤヒロが、ウツギの方を睨むように見る。
「――あんたさあ……普段からあのしゃべり方してくんない?」
「あの……しゃべり方?……」
「自覚なしかよ」
あきれて溜息まじりに言うと、ウツギは眠そうな垂れ目を見開いて、それからしょんぼりと項垂れる。
「しゃべるの……やっぱり……早口だったよね……。ごめん……音楽のことになると……いつもこうなんだ……」
「あんたが早口だと思うくらいが聞く側にとってちょうどいい早さなんだよ!」
「……え、……。そうなんだ……」
「ウツギさんは今のままでいいよ」アキラはほほえんで、「情熱的な姿を見て好感度あがっちゃったな。俺、ギャップある人に弱いんだよね」
「またなんか言い出したぞこいつ……」
「ねえねえ、やっぱり俺のとこに来てよウツギさん。ユウも喜ぶと思うし」
「隙あらば引き抜こうとすんな!こいつは俺と契約してんの!」
「がさつで乱暴なヤヒロといるよりも俺たちの家に来た方が気持ちよく仕事できると思うけど?」
「性格悪いおまえのことだからどうせそのうち顎で使うようになるに決まってらあ」
「そんなことしませーん」
当人の意思などまるで無視して不毛な論争が始まる。ウツギは我関せずといった様子でのそのそと歩き出し、キッチンの灯りをつけた。
先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、なごやかな時が過ぎていった。
彼らが食事を終えると、時刻は午前11時を回っている。これからのことについて、ずいぶんと長く話し込んでしまった。
食事の余韻にひたりながらアキラは、キッチンに並び立つふたりを見遣った。なにやらひっきりなしに話をしているが、ソファに座る彼の耳には声が届かない。
ふたりのあいだに流れる特別な空気感を、アキラは肌で感じた。そして、一抹のさみしさを覚えた。
ヤヒロは淋しがりやで人好きだが、楽曲制作に集中しているときは他人との接触を極力避ける。制作のパートナーとして長年連れ添ってきたアキラでさえも拒絶されるときがままあった。しかし――ハウスキーパーとして招いたウツギだけは、24時間彼といることを許されている。
制作期間中は毛を逆立てた猫のように攻撃的になり、周囲を遠ざけるヤヒロが彼だけを無条件に受け入れたのは、自分の生活の質を保ってくれるというだけではなく、彼の正体が敬愛する「Diina」だったからかもしれない、とアキラは思った。裏に隠されたもうひとつの顔を知らずとも、ウツギの選ぶ言葉やその考え方から――なにか運命的なものを感じていたのではないか、と。
「……どうぞ……」
取りとめもなく考えていたアキラに、紅茶が注がれたティーカップが差し出される。夢から醒めたような顔で頬杖を解き声の方を振り仰いだ彼は、ウツギの手からそれを受け取った。
「ありがと」
「食事……足りましたか?」
「もうおなかいっぱい。エッグベネディクトもフルーツデニッシュも最高においしかったです。高級ホテルで食事した気分」
「……喜んでもらえて、よかった……うれしい……」
ウツギは無気力な瞳をゆっくりと瞬かせながら言う。もうすっかりいつも通りの彼だ。
やわらかい湯気の向こうに、いつのまにかヤヒロが座っている。彼はしばらくスマホの液晶画面にすいすいと指を滑らせていたが、ふいに目を上げてアキラを見る。
「このあとどうすんの」
「どうって……帰るけど」
やわらかな陽光に照らされているヤヒロの顔は、まだ十代半ばほどに見える。ヒゲが薄くほとんど生えないからということもあるだろうが、メイクをしていないと実にあどけない。体つきにしてもそうだ。骨格が華奢なため筋肉がついても線が細くすらりとして、少年期の未熟さを感じさせる。
ヤヒロに少年の面影を見るとき、アキラは必ずあの夏の夜を思い出す。まだ14歳だった彼の、白い背中。骨の輪郭を映し出す薄い皮膚。そして――
「一緒に行く」
ヤヒロの澄んだ声が鼓膜を打ち、我に返る。
一拍置いて言葉の内容を理解すると「一緒にって……」と小さくつぶやき、すこし戸惑った様子で言った。
「今日は遊ばないよ。まっすぐ家に帰る」
ヤヒロはなんとも答えず、手の中のカップを口元に運ぶ。アキラも同じく乾いた喉を潤し、次の瞬間おどろいたように眉を上げた。
「砂糖とミルクは?入れなくていいの?」
「あ?」
「ストレートの紅茶は渋くて苦手だって言って、いつも砂糖をたーっぷり入れたミルクティー飲んでるじゃん」
上目遣いで見つめ、いたずらっぽく微笑む。
「家じゃ入れねえよ。渋みの少ない茶葉をウツギが選んでブレンドしてくれてっからさ……」
「へえ。ヤヒロは子ども舌だからウツギさんも大変だね」
「そうだな」
心ここにあらずといった様子で答えた彼は、一定のタイミングで通知音が鳴り続けているスマホを手放さない。
アキラはつまらなそうに小さく鼻を鳴らす。ソファの背に凭れて、いつまでもそっぽを向いたままのヤヒロをじっくりと観察していたが、ティーカップの中身を飲み干したところで立ち上がった。
「じゃ、帰るね」
それを横目で見たヤヒロはようやく液晶画面から視線を剥がすと、
「待てって。着替えてくっから」
「見送りならいらないよ」
キッチンで朝食の後片付けをしていたウツギに挨拶し、ヤヒロの制止も聞かずにアキラは部屋を出ていく。
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