よあけ

紙仲てとら

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本編

第293話

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「もう聞いたのかよ。早かったな」
 開口一番、ヤヒロはまだ眠そうな声で言う。
「ヨコイさんが歌詞を書くってどういうこと?丸投げしたの?」
 そう問うてくるアキラの声は落ち着いている。
「んなわけねえだろ……俺だってちゃんと書いた。でも日本語の歌詞の方がいいってアドバイスもらってさ。それに従っただけ」
「……なに言ってんの……」
 あきれているのか、はたまた失望のためか――語尾が嘲笑を含んで震えた。
 彼の怒りをひしひしと感じながら、ヤヒロはアーモンドアイを細める。
「文句あるなら直接言いに来い。面と向かって糾弾できる度胸があればの話だけど」
 次の瞬間、通話が切られる。
 激しく痛む頭を押さえながらベッドを降りると、扉がノックされる音が聞こえた。わずかに開いた隙間から声だけが流れ込んでくる。
「……ヤヒロ君、おはよう……さっきすごい音したけど……大丈夫?……」
「へーき」
 ぶっきらぼうに答えながら床に落ちているスウェットパンツを履く。
 クローゼットを開けて服を次々とベッドに放り、ふと動きを止めて自分の髪に指を差し込んだ。そして、帰宅後すぐ部屋に閉じこもり眠ってしまったことを思い出し、舌打ちする。着替える前にまずシャワーを浴びなければ――彼は床に脱ぎ散らかした服をまたいで、上半身裸のまま勢いよくドアを押し開ける。
 その瞬間、鈍い音がした。驚いて扉の向こう側を見ると、ウツギが鼻を押さえながら顔を覗かせる。
「まだいたのかよてめー!ぶつかるだろうが!」
「……もうぶつかった……」
 ドアの淵が見事めりこんだらしく、つぶやいたウツギの鼻から、血がたらりと流れ出てくる。あっというまに鼻の下を滑って栗色の無精髭を濡らし、唇を伝い、顎先にまで垂れていく赤色――それに慌てたのは負傷した本人ではなくヤヒロだ。
「ちょっ……おま、血っ!」
 肌を伝う温いものにようやく気付いたのか、ウツギは指先でぐいと乱暴に鼻をぬぐう。
「おい!触んなってバカ!」
 べたりとついた指の血をぼんやりと見つめているウツギに叫んで踵を返し、ドレッサーの上のティッシュを箱ごと掴み戻ってくる。乱暴に数枚引き出して顔面に押しつけるようにして渡すと、ウツギはくしゃくしゃのそれで鼻の下を拭きながら言う。
「……風邪ひくから……なにか着なさい……」
「俺より自分のこと心配しろよ」
 弱々しい声でつぶやいたヤヒロの顔は真っ青だ。ぐらぐら揺れながら暗くなり始めた視界に気分を悪くした彼は、小さく震えながら手を伸ばしウツギの服を握りしめる。だが、力がうまく入らない。
 指がするりと離れ、彼の体が大きく傾いだ。異変に気付いたウツギは、咄嗟に腰に片腕を回し支えると、そのままリビングのソファに連れて行く。
「大丈夫……?ヤヒロ君……」
「……クソが……ふざけんな……」
 悪態にも覇気がない。額に浮いた脂汗を手の甲で乱暴に拭って、裸の胸元を激しく上下させる。吐きそうだ。
「待ってて……すぐ、救急車呼ぶ……」
「いい、やめろ」
「でも」
「血、拭いてこい」
 言われたウツギはめずらしく戸惑っているような顔で、自分の血まみれの手とヤヒロを交互に見る。
「いいからあっちいけ……早く」
 目を固く閉じたヤヒロが絞り出すように言ったとき、インターホンが鳴る。アキラだろうとは思ったが、なかなか起き上がることができない。ウツギは彼にブランケットをかけ横になっているよう言い含めると、リビングを出ていった。
 玄関で出迎えたウツギを見るなり、アキラは目を丸くする。
「どうしたんですかその顔」
「扉に……鼻をぶつけまして……」
 顔面に血をこびりつかせたままのウツギは能面のような表情のままそう答え、
「ヤヒロ君に用事だったら……少し待ってもらえると……」
「いないんですか?」
「……います。……でも……」
「よかった。逃げたかと思った」
 にっこり笑いながら靴を脱ぎ、ウツギの横をすり抜けてリビングに入ろうとする。その肩を掴んで引き留めると、彼はわずかに視線を泳がせて言った。
「待って……。ヤヒロ君はいま、具合が……」
「仮病でしょ。さっき電話で話したときは俺を挑発できるくらい元気でしたよ」
「実はさっき……鼻血だした僕をみたとたん……具合悪くしちゃって……」
 大きな瞳をぱっちりと見開いたその次の瞬間、「――ああ、そっか……」アキラはウツギの顔面の血の跡を視線で辿る。
「……なにか……知ってるんですか?……」
「ヤヒロは血が苦手なんです。昔いろいろあって……」
「――アキラ」
 声の方に目をやると、ウツギが掛けてくれたブランケットを肩にひっかけたヤヒロがリビングの扉から顔を覗かせている。
「よけいなことしゃべんな」
 顎でリビングを指し示し、来いと合図する。ウツギの方には一瞥もくれない。
「血を見るの、今も苦手なんだ?」アキラは床に鞄を放って、ソファに倒れ込むように座る。「時間が解決するだろうと思ってたけど難しいもんだね」
「うっせえな……そんな話しに来たんじゃねえだろ」
「お父さんは死んだ。もう、弟たちが傷つけられることはないよ」
 アーム部分に肘をついて、上目遣いにヤヒロを見遣る。
「わかってる」
 彼から目を逸らしてつぶやいたヤヒロは、ダイニングの椅子に座って言葉を続けた。
「――この話は終わりだ。文句あんなら早く言えよ。そんでとっとと帰れ」
「ひどい物言いだなあ……」
「歌詞のことで来たんだろ?ヨコイさんに任せたりしたらおまえがブチ切れんのはわかってた」
 両腕を広げてへらへら笑う。
「さあ、どーぞ。気が済むまで罵れば?」
 アキラは特に表情を変えないが、怒りはすでに沸点を超えていた。そうなるといつも彼は、冷静そのものになる。ヤヒロが挑発すればするほど落ち着きを増していくようだった。
「ヤヒロは、ウル・ラドを壊す気なんだね」
「ははッ……プロデューサーのアドバイスを無視して好き勝手に曲つくってるおまえがそれ言っちゃうの?」
 彼は体を揺すって笑い、淀みなく言葉を継ぐ。
「ひとりでも多くの人にウル・ラドの曲を聴いてもらう――これが俺たちの共通の目的だったはずだ。最新のトレンドに合わせればそれが叶うのに、おまえときたら……いつまでもガキみてえな我儘通そうとしやがって」
「俺だって、たくさんの人に聴いてもらいたい気持ちは今も変わらずある。でも――そのためにアーティストとしてのプライドを捨てる気にはなれない」
 そう言った彼はかすかにかぶりを振ると、切々と言葉を紡ぐ。
「ヤヒロ……おまえのつくる曲はヨコイさんの手垢がべったりこびりついてるよ。あいつの好みが全面に散りばめられててヤヒロ独自のカラーがなくなってる……そんなのもう“ヨコイさんの曲”じゃん。誰かの都合のいい人形になるためにデビューしたの?俺は他人の指示通りにつくった曲が売れたって嬉しくない」
「そういうつまんねえプライドがグループの足を引っ張ってんだよ」溜息をつき、ヤヒロは続ける。「売れなきゃ生き残れねえんだぞ」
「なかなか結果が出なくてもどかしいのはわかる……でも、それでも俺たちは、俺たちだけのカラーで愛されるように努力を続けるべきなんだよ。諦めさえしなければいつかトップに――」
「バカがよ……」
 アキラの言葉を遮って嘲笑し、
「いつまでも甘ったるい夢見てんじゃねえぞ。“いつか”なんて待ってられっか。俺は今すぐトップに上り詰めてえんだよ。そのためにはヨコイさんの力が必要だ。だから俺はこれからもあの人の指示に従って曲を書く」
 睨み据えてくるヤヒロに、彼は氷のような目を向ける。
「それ、本心で言ってるの?」
「ああそうだ。文句あっか?」
「……そっか。なら、もういいよ。あんな曲で満足してるっていうなら好きにすれば」
「ヘソ曲げてんじゃねえよ。おまえ、ほんとガキだな」
「――ヤヒロ」
 きんと張り詰めた声が響く。
 静寂が流れるなか、アキラは顔を少し仰向け……ヤヒロを見下ろすようにして言い放った。
「ウル・ラドから出ていって」
「は?」
 ヤヒロの顔から、先ほどまでのしまりのない笑みが消し飛んだ。手と顔を洗いちょうどリビングに戻ってきたウツギも、その言葉を聞いて思わず目を剥く。
「これ以上グループイメージを崩すようなことをするのは許さない。ああいう曲を歌いたいなら他でやってよ」
「は……?」
 ヤヒロはもう一度短くつぶやいたのみで、そのあとの言葉を続けられず絶句している。
「なにその顔。こんな話を切り出されると思ってなかった?」
 薄く笑うアキラは、ゆっくりと立ち上がってヤヒロの傍に歩み寄る。彼の青白い顔を射貫くように見つめ、真顔のまま言った。
「自分がつくる音楽に対してあんなにプライドを持ってたのに……まさかここまで考え方が変わっちゃうとはね」
 低く重厚な声が残酷に響き渡る。
「音楽を商品としてしか見なくなったおまえとは、もう一緒にやっていけない。ヨコイさんとがんばって。……ああ、そうだ。脱退したらあいつとふたりでユニット組んで曲をリリースすればいいじゃん。売れるよきっと」
「――本気か?そんなこと……本気で思ってんのかよ、おまえ」
「俺から解放されて清々するね。ヤヒロ……」
 水面のように輝くアキラの瞳の中、絶望に染まる自分の顔が映る。それを見つめるヤヒロは、かすかに震えていた。好戦的な男がこれだけ勢いをなくしているのはめずらしいことだ。
 返す言葉を見失っている彼に、アキラはさらに迫る。
「はっきり言いなよ。思い通りにならない俺が邪魔だった、疎ましかった、って」
 その言葉を聞いた瞬間――ヤヒロの目の奥に突如として怒りの炎が灯った。勢いよく椅子から立ち上がった彼はアキラの胸倉を掴み上げて壁に押しつけ、唸るように低く言う。
「勝手なことばっかほざいてんじゃねえぞテメェ……」
「ふたりともいい加減にしなさい」
 矢のように飛んできた言葉に驚いて、ふたりは同時に声の主を見る。
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