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本編
第272話
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「タビト」
ふいに立ち止まったホズミはスマホを取り出し、目の前の背中に声を掛ける。
「社長から電話だ……対応してから行くから車で待っててくれ」
振り向いたタビトに向かってキーを投げ、スマホを耳に当てた。キャッチした彼は表情を変えず頷くと、エレベータに乗り込んで地下駐車場に降りていった。
車の後部座席に座り目を閉じていると、ようやくホズミがやってきた。運転席に乗り込むのを薄目で見遣れば、おもむろに振り返った彼がスマホを差し出してくる。
「向こうの電波が悪いらしくて途中で切れちまった。また掛かってくるかもしれないから、代わりに出てくれないか」
黙って受け取ったタビトは、前方の窓に無気力な視線を投げる。
「……社長、なんだって?なにか問題があったの?」
「物販トラブルの件だ。一連のことを詳しく説明しろってさ。落ち着いた口調だったがそうとう怒ってるなあれは」
「ああ……スタッフの手違いで別のアーティストのグッズがフェス会場に送られてたってやつ?」
ホズミは溜息を堪えて頷き、
「まったく、今回ばかりは本当に駄目かと思ったよ。深夜3時に物販担当のスタッフがいきなり電話かけてきて、グッズの搬入ができないかもしれないなんて言うもんだから」
「3時?なんでそんな遅い時間に……」
「ミスがバレるのを恐れてひとりでなんとかしようとしてたらしい。でも結局どうにもならなくて、ギリギリになってから助けを求めてきたのさ。ただ単に送る荷物を間違えただけなら、関係者に頭下げて当日搬入すればよかったんだが……本来搬入するはずだったグッズがまるごと行方不明ときたもんだ。無事見つかって事なきを得たけど、あんなトラブルはもう二度とごめんだね……」
話を聞きながら、タビトは曖昧な相槌を返す。先ほどファンの前で見せていた姿とは打って変わって、心ここにあらずの様子だ。
ホズミは覇気のないその顔をバックミラー越しに見て、ここ数日の彼の様子を思い起こす。
――チカルが出て行ったその翌日もスケジュールが詰まっていたが、彼はいつも通りのテンションできっちりと仕事をこなした。どれだけ落ち込んでいることかと心配していただけに、思わず拍子抜けしてしまったくらいだ。とびきりの明るい笑顔で――多くの人間を魅了してきたあの笑みで――インタビューや撮影の仕事に打ち込み、昏い顔などいっさい見せなかった。そうしてついに迎えた今日、彼は仲間と共にステージに上がり、これまでにないほど気合いの入った圧巻のパフォーマンスで観客を魅了したのだ。
しかし、フェスを終えた今……から元気もついに底をついたとみえる。
地下駐車場を出ると、小雨が降っていた。ホズミは車内に小さく流れていたラジオを消すと、ハンドルを切りつつ問う。
「訊いてこないんだな」
「ん?」
「那南城さんのこと」
タビトは雨粒を落とす黒ずんだ空を、無気力な目で見上げたまま黙っている。
「彼女は元気だよ。だから心配するな」
やはり彼は何も答えない。
ホズミもまた黙って車を走らせる。何回目かの赤信号にぶつかり停車したとき、ようやくタビトは唇を開いた。
「俺のこと、なにか言ってた?」
「おまえとのことについて、ふたりですこし話をしたよ」
「……怒ってたでしょ?」
「どうかな」
雨が強くなってきた。
ワイパーの早さを一段階あげて、けぶる夜を駆け抜ける。
「最初は、チカルさんの傍にいられることがただ嬉しかった」
ぽつりと言ったタビトは濡れる窓から視線を外して、冷たい手のひらで目元を覆った。
「わかるよ」
短く答えたホズミの胸に、かつて溺れるほど愛した女の姿が鮮やかに浮かび上がる。彼は苦い笑みを口の端に淡く浮かべて続けた。
「一緒の時間を過ごしてると、欲深くなっていくもんだ。悲しいことにね」
その言葉にまぶたを上げたタビトはかすかに頷いて、
「前に……彼氏といろいろあって悩んでたチカルさんに、言ったことがあったんだ。相手の望む通りにしなきゃ愛されないなんて馬鹿げてる、って」
ホズミが相槌を打つのを見つめ、彼は声を紡ぐ。
「自分を犠牲にして相手に尽くして、愛を手に入れても……そんなの本物じゃない。そう思ってたのに、俺……いつのまにかそれを忘れて……」
言葉が続けられず、黙った。窓を濡らす水滴の影が、タビトの青白い頬をゆっくりとなぞっていく。
「那南城さんは、おまえになにひとつ手放してほしくないと言ってたよ」
ホズミの静かな声を聞きながら、彼は深く俯いて嘆息した。その胸に、チカルがくれたたくさんの言葉がよみがえる。
どんなに愛しているか――その証明としてこの手にあるものを投げ出すことなど、チカルは初めからすこしも望んでいなかった。独りよがりの愛情に酔って、人生の責任を彼女に押しつけていただけだ。
「俺の人生は俺だけのものだって、気づかせようとしてくれてたのに……ほんとに、バカだ。あんなこと、言わなきゃよかった」
ホズミはハザードランプを点滅させ、路肩に停車する。
「那南城さんに会いたいか?」
「……――合わせる顔、ないよ」
項垂れるタビトをミラー越しに見つめていた彼はそっと息を吐き、ネクタイの結び目を指で緩めつつ続けた。
「こんな結末は望んでなかった……そうだろ?未練と後悔を残したまま関係を終わらせるつもりなのか?」
激しくかぶりを振ったタビトは、掠れた声でつぶやく。
「会いたいって伝えたとしても、会ってもらえるわけない。失望させただろうし、ぜったい、嫌われた……」
みるみるうちに視界が歪み、透明な雫が下まつげを濡らしてこぼれ落ちた。
「チカルさんに、嫌われちゃった……」
車の屋根を叩く優しい雨音だけが、彼らのあいだに満ちている。
やがてホズミは、前方を見据えたまま再び口を開いた。
「タビト……今日のおまえは完璧なアイドルだったよ」
きつく目を閉じたタビトは唇を噛んで声を押し殺し、肩を震わせる。ホズミは溜息をついてほほえむと、運転席で身をよじり座席のあいだから手を出した。
「スマホ、ずっと持たせてて悪かったな」
暗がりに沈んだまま、タビトは手の中のスマホを返す。
受け取ったホズミはスリープモードを解除すると、明るくなった画面をタビトの方にかざした。促されるままそれを覗き込んでみれば――通話中になっている。しかもその相手は「那南城チカル」だ。
状況が吞み込めず茫然としているタビトを横目に、ホズミはスピーカーモードを解除する。そしてスマホを耳にあてると「タビトの声、ちゃんと聞こえましたか?」と送話口に声をかけた。
驚愕の表情で固まったままの彼に笑みを送りながら「もうすぐ家に着きます」チカルにそう伝えると、通話を終えてアクセルを踏み込む。
慌てて車窓に張りついたタビトは思わず目を剥いた。自宅マンションへ続く道を走っていたはずなのに、いつのまにか知らない住宅街にいるではないか。目と口をまん丸にして連なる家々を見つめていた彼は、車内に視線を戻し震える声で尋ねた。
「……電話……繋がってたの?さっきの、ずっと聞かれて――」
「那南城さんからは反対されたんだが、俺が頼み込んだんだ。おまえの飾らない本音を聞かせたくて」
「俺の本音なんか聞いたって……チカルさんはもう……」
「そうやって勝手に決めつけるのはよくないな。つべこべ言ってないで、本人に直接会って確かめろよ」
ふいに立ち止まったホズミはスマホを取り出し、目の前の背中に声を掛ける。
「社長から電話だ……対応してから行くから車で待っててくれ」
振り向いたタビトに向かってキーを投げ、スマホを耳に当てた。キャッチした彼は表情を変えず頷くと、エレベータに乗り込んで地下駐車場に降りていった。
車の後部座席に座り目を閉じていると、ようやくホズミがやってきた。運転席に乗り込むのを薄目で見遣れば、おもむろに振り返った彼がスマホを差し出してくる。
「向こうの電波が悪いらしくて途中で切れちまった。また掛かってくるかもしれないから、代わりに出てくれないか」
黙って受け取ったタビトは、前方の窓に無気力な視線を投げる。
「……社長、なんだって?なにか問題があったの?」
「物販トラブルの件だ。一連のことを詳しく説明しろってさ。落ち着いた口調だったがそうとう怒ってるなあれは」
「ああ……スタッフの手違いで別のアーティストのグッズがフェス会場に送られてたってやつ?」
ホズミは溜息を堪えて頷き、
「まったく、今回ばかりは本当に駄目かと思ったよ。深夜3時に物販担当のスタッフがいきなり電話かけてきて、グッズの搬入ができないかもしれないなんて言うもんだから」
「3時?なんでそんな遅い時間に……」
「ミスがバレるのを恐れてひとりでなんとかしようとしてたらしい。でも結局どうにもならなくて、ギリギリになってから助けを求めてきたのさ。ただ単に送る荷物を間違えただけなら、関係者に頭下げて当日搬入すればよかったんだが……本来搬入するはずだったグッズがまるごと行方不明ときたもんだ。無事見つかって事なきを得たけど、あんなトラブルはもう二度とごめんだね……」
話を聞きながら、タビトは曖昧な相槌を返す。先ほどファンの前で見せていた姿とは打って変わって、心ここにあらずの様子だ。
ホズミは覇気のないその顔をバックミラー越しに見て、ここ数日の彼の様子を思い起こす。
――チカルが出て行ったその翌日もスケジュールが詰まっていたが、彼はいつも通りのテンションできっちりと仕事をこなした。どれだけ落ち込んでいることかと心配していただけに、思わず拍子抜けしてしまったくらいだ。とびきりの明るい笑顔で――多くの人間を魅了してきたあの笑みで――インタビューや撮影の仕事に打ち込み、昏い顔などいっさい見せなかった。そうしてついに迎えた今日、彼は仲間と共にステージに上がり、これまでにないほど気合いの入った圧巻のパフォーマンスで観客を魅了したのだ。
しかし、フェスを終えた今……から元気もついに底をついたとみえる。
地下駐車場を出ると、小雨が降っていた。ホズミは車内に小さく流れていたラジオを消すと、ハンドルを切りつつ問う。
「訊いてこないんだな」
「ん?」
「那南城さんのこと」
タビトは雨粒を落とす黒ずんだ空を、無気力な目で見上げたまま黙っている。
「彼女は元気だよ。だから心配するな」
やはり彼は何も答えない。
ホズミもまた黙って車を走らせる。何回目かの赤信号にぶつかり停車したとき、ようやくタビトは唇を開いた。
「俺のこと、なにか言ってた?」
「おまえとのことについて、ふたりですこし話をしたよ」
「……怒ってたでしょ?」
「どうかな」
雨が強くなってきた。
ワイパーの早さを一段階あげて、けぶる夜を駆け抜ける。
「最初は、チカルさんの傍にいられることがただ嬉しかった」
ぽつりと言ったタビトは濡れる窓から視線を外して、冷たい手のひらで目元を覆った。
「わかるよ」
短く答えたホズミの胸に、かつて溺れるほど愛した女の姿が鮮やかに浮かび上がる。彼は苦い笑みを口の端に淡く浮かべて続けた。
「一緒の時間を過ごしてると、欲深くなっていくもんだ。悲しいことにね」
その言葉にまぶたを上げたタビトはかすかに頷いて、
「前に……彼氏といろいろあって悩んでたチカルさんに、言ったことがあったんだ。相手の望む通りにしなきゃ愛されないなんて馬鹿げてる、って」
ホズミが相槌を打つのを見つめ、彼は声を紡ぐ。
「自分を犠牲にして相手に尽くして、愛を手に入れても……そんなの本物じゃない。そう思ってたのに、俺……いつのまにかそれを忘れて……」
言葉が続けられず、黙った。窓を濡らす水滴の影が、タビトの青白い頬をゆっくりとなぞっていく。
「那南城さんは、おまえになにひとつ手放してほしくないと言ってたよ」
ホズミの静かな声を聞きながら、彼は深く俯いて嘆息した。その胸に、チカルがくれたたくさんの言葉がよみがえる。
どんなに愛しているか――その証明としてこの手にあるものを投げ出すことなど、チカルは初めからすこしも望んでいなかった。独りよがりの愛情に酔って、人生の責任を彼女に押しつけていただけだ。
「俺の人生は俺だけのものだって、気づかせようとしてくれてたのに……ほんとに、バカだ。あんなこと、言わなきゃよかった」
ホズミはハザードランプを点滅させ、路肩に停車する。
「那南城さんに会いたいか?」
「……――合わせる顔、ないよ」
項垂れるタビトをミラー越しに見つめていた彼はそっと息を吐き、ネクタイの結び目を指で緩めつつ続けた。
「こんな結末は望んでなかった……そうだろ?未練と後悔を残したまま関係を終わらせるつもりなのか?」
激しくかぶりを振ったタビトは、掠れた声でつぶやく。
「会いたいって伝えたとしても、会ってもらえるわけない。失望させただろうし、ぜったい、嫌われた……」
みるみるうちに視界が歪み、透明な雫が下まつげを濡らしてこぼれ落ちた。
「チカルさんに、嫌われちゃった……」
車の屋根を叩く優しい雨音だけが、彼らのあいだに満ちている。
やがてホズミは、前方を見据えたまま再び口を開いた。
「タビト……今日のおまえは完璧なアイドルだったよ」
きつく目を閉じたタビトは唇を噛んで声を押し殺し、肩を震わせる。ホズミは溜息をついてほほえむと、運転席で身をよじり座席のあいだから手を出した。
「スマホ、ずっと持たせてて悪かったな」
暗がりに沈んだまま、タビトは手の中のスマホを返す。
受け取ったホズミはスリープモードを解除すると、明るくなった画面をタビトの方にかざした。促されるままそれを覗き込んでみれば――通話中になっている。しかもその相手は「那南城チカル」だ。
状況が吞み込めず茫然としているタビトを横目に、ホズミはスピーカーモードを解除する。そしてスマホを耳にあてると「タビトの声、ちゃんと聞こえましたか?」と送話口に声をかけた。
驚愕の表情で固まったままの彼に笑みを送りながら「もうすぐ家に着きます」チカルにそう伝えると、通話を終えてアクセルを踏み込む。
慌てて車窓に張りついたタビトは思わず目を剥いた。自宅マンションへ続く道を走っていたはずなのに、いつのまにか知らない住宅街にいるではないか。目と口をまん丸にして連なる家々を見つめていた彼は、車内に視線を戻し震える声で尋ねた。
「……電話……繋がってたの?さっきの、ずっと聞かれて――」
「那南城さんからは反対されたんだが、俺が頼み込んだんだ。おまえの飾らない本音を聞かせたくて」
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