よあけ

紙仲てとら

文字の大きさ
267 / 378
本編

第265話

しおりを挟む
 リビングにはイサギがおり、いつもの和座椅子に座ってノートパソコンと睨めっこしていた。
「あ、おはようございます」
 彼はそう明るく声を掛けてきたが――徹夜でもしたのだろうか、顔色が優れない。挨拶を返したチカルは灯のないキッチンの方を見遣る。
「ホズミさんならもう出掛けましたよ」
 彼女の心中に湧いた疑問を察して言った。天井に向かって大きく伸びをすると、息を吐きつつ脱力して言葉を続ける。
「夜中に帰ってきて、風呂とか済ませてようやく寝ようとしたとき……3時半くらいかな、また出て行っちゃいました。トラブルがあったとかで」
 それを聞いたチカルは顔面蒼白になり目を瞠る。
 いくらトラブルとはいえそんな時間に呼び出されるなんて――まさかタビトになにかあったのだろうか?
 不安が胸をよぎった瞬間、いてもたってもいられなくなった彼女は踵を返し廊下に飛び出した。客間に駆け込んで文机の上のスマホを取ると、ホズミの番号を探し出し迷わず発信ボタンをタップする。
 無機質な呼出音を切羽詰まった思いで聞きながら10秒、20秒と待ったが、応答はない。
 彼女は電話を切り、震えながらスマホの画面に目を落とした。
 ――大丈夫だ……タビトは必ず、ステージに立つことを選ぶ。言い聞かせるようにそう何度も繰り返し、どくどく音を立てる心臓を服の上から押さえつける。
 悪い予感を必死に振り払い、チカルはリビングに戻った。紙のように白い顔をしている彼女を不思議そうな顔で見遣って、イサギは首を傾げる。
「ホズミさんに急ぎの用でもありました?」
「いいえ……」
 短く答え、無理にほほえんでみせる。
 先日イサギが持ってきてくれたアジの南蛮漬けと雑穀米おにぎり、味噌汁で朝食を済ませ、食器を片付けて――身支度まで終えても、ミヤオカとの待ち合わせの時間まではまだ2時間以上ある。新木場駅までは1時間も掛からないが、家でじっと待つのに耐えられなくなったチカルは9時前に家を出た。
 白いスニーカーによく合うからと、少し前にアコからもらったデニム素材のロングワンピース――タンスの肥やしになっていたらしい、インディゴブルーのそれが――歩みを進めるたびにひらひらと風に靡く。明るく爽やかなその格好には似合わない苦悶を眉間に刻んだまま、チカルは静かに大きく息を吸い込み、空を見上げた。
 湿った朝の空気が胸に沁みる。雲ひとつなく晴れ渡った空は、国内のアーティストやアイドルが一堂に会するビッグイベントの開催を祝福しているかのようだ。
 チケットを手に入れてからずっと、この日を待ちわびていた。夢にまで見た瞬間が刻一刻と迫っているにもかかわらず、今のチカルに歓喜の思いは一切ない。
 タビトがステージに現れることを信じ、強い気持ちで家を出てきたつもりだったが――駅に近づくにつれ、彼女はすこしずつ表情を曇らせていった。視線を地面に落とした瞬間、鉛でも詰まっているかのように体が一気に重くなり、歩む速度がどんどん遅くなっていく。
 そうして彼女はついに立ち止まってしまった。
 ほとんど無意識に、キャメル色のショルダーバッグからフェスのチケットを取り出す。紙面に書かれた文字を目で追っているうちに足裏から震えがのぼってきて、そのとき初めて彼女は自分が怖気づいていることに気付いた。
 弾かれたように、元来た道を振り返る。そして住宅に沿って伸びる誰もいない歩道を凝視しながらゆっくりと踵をめぐらせたかと思うと、今しがた出てきたばかりの家に向かって一目散に駆け出した。
 なにものかに追いかけられているかのように、怯えた顔で――息を切らしながら玄関の引き戸を開けたチカルは、靴を乱暴に脱ぎ捨てて勢いよく廊下を走り抜ける。
「那南城さん?」
 リビングから顔だけを出したイサギは、客間に消えたブルーのスカートを視認してつぶやいた。それから彼は玄関に行き、脱ぎ散らかされた白いスニーカーを揃えると客間の方に近づき声を掛ける。
「入りますよ」
 少し待ったが返事がない。彼は静かにふすまを開けて、やわらかい光に満ちた室内に入る。
 畳の上には革のショルダーバッグが無造作に放り出されている。チカルはチケットを握りしめたまま、横座りの体勢で窓際の文机に突っ伏していた。その姿はしおれた花のように物悲しく、感傷を誘う。
「どうしました」
 イサギの穏やかな声が背中に触れたが、彼女はぴくりとも動かない。
 いつものように口角に微笑を湛えて、彼女の隣に膝をつく。そのまま端座し、障子を開けて、縁側から続く庭を窓に映した。
 組んだ両腕の中に顔を埋めたチカルの黒髪が、光を帯びて輝いている。線のような目をさらに細めてそれを見つめながら、イサギは静かに問うた。
「今日のお出かけは中止ですか?」
 チケットを分配してくれた知人と共に音楽フェスに参加することは、ホズミから聞いて知っている。夕飯は外で食べてきますと言い残して家を出て、それから10分も経たずに帰ってきた彼女をしげしげと眺めて、イサギは困ったような笑みを浮かべた。
「じゃあ、お昼ごはんは何にしましょうかね」
 その言葉にチカルは顔を上げた。乱れた髪の中に光る双眸には涙が――いまにもこぼれ落ちそうになっている。
 彼女はイサギを見つめたままなにか言いたそうに口を開いたが一向に言葉にならず、辛そうな顔で下唇を噛んだ。視線を逸らして濡れたまつげを伏せると、畳の上に置いた手を固く握りしめる。
「きょうも店屋物にしましょうよ。中華なんてどうです?この近くにある麗凰飯店のワンタン麺、旨いんですよねえ」
 彼女は子どものように首を左右に振る。
「店屋物はお気に召さないか……」イサギは宙を見つめ唸り、それからほとと手を叩く。「なら、食事をしにどこか出掛けましょうか」
 赤く潤んだ目を見開いているチカルの腕を取り、もう片方の手で床に転がっていたショルダーバッグを手繰り寄せる。
「ささ、行きましょう。俺もちょうど外の空気を吸いたいと思ってたんです」
 有無を言わさぬ勢いでチカルを立ち上がらせ、玄関まで連れていく。軽やかに草履を履いたイサギの流れるような動きに抗えず、スニーカーを爪先に引っ掛けて玄関を出た。
「喉乾いちゃったな。ちょっとコンビニ寄ってもいいですか?」
 言うが早いか、イサギは再びチカルの腕を取る。ぐいぐいと引っ張られるがまま店内に入ると彼はやっと手を放して、
「昨日の朝、コーヒー飲んでましたよね」
 言いながらチルドカップコーヒーを2つ手にし、チカルに断る隙を与えずレジに向かった。コンビニを出たところで、イサギはカップにストローを差して彼女に差し出す。ためらいながらもよく冷えたそれを受け取って、窺うような目で彼を見た。
「……いったいどこへ?」
「さて、どこに行こうかな。まだ昼飯までに時間があるからちょっと遠出してもよくないですか?」
 食事をする気分ではなかったが、イサギの強引さにペースを乱されたチカルはもう、拒絶する元気もない。魂が抜けたように無表情のまま、規則的な間隔でコーヒーを飲んでいる。
 このままだと完全に遅刻だ。ミヤオカに行けなくなったことを連絡をしなければと思いながらも、チカルはスマホを鞄から取り出す気になれない。それらしい理由はいくらでも考えついたが、どの言葉を選んでもミヤオカに申し訳なく気が引けて、まるで自分がこの世で一番の悪党になったように感じた。
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、イサギは上機嫌だ。どの店がいいかなあと独り言ちながら踊るような指先でスマホをタップしていたが、やがて顔を上げにっこりと笑った。
「とりあえずこの近くにある池上駅に行きましょ」
 ただ機械的に右足と左足を交互に出し亡者のように歩くチカルのペースに合わせ、駅へと向かう。その道中イサギは、民家の垣根に咲いた花の美しさに感動したり、吠えてくる犬をからかったりしていた。行きつけの居酒屋を指差しながら、酒に酔ったホズミの面白エピソードを教えてくれたりもした。これにはすこし、チカルも笑った。
 駅に辿りつくと、ちょうど五反田方面行きの電車が到着しようとしていたためひとまずそれに乗ることにした。大型連休中とあってか電車内はいつもよりも人が多かったが、運よく座ることができた。
 シートに凭れ、向かいの窓に映る景色をぼんやりと見つめる。タビトへの想いが胸に迫るのを感じながらチカルは、いつのまにか眠っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。 青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。 肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。 44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...