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本編
第230話
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玄関に入ったとき、いつもの匂いがしないことにチカルは気付いた。
靴を脱ぐタビトの後ろで立ち尽くしたままコンソールテーブルに視線をずらせば、いつものリードディフューザーが置いていない。少し前に見たときは、まだ半分以上残っていたはずだ。
「シャワー浴びておいでよ。タオルとか準備しとくから」
チカルのスリッパを並べながら、彼は沈黙を恐れるかのように続けて言う。
「部屋着は俺のでいい?」
「タビト君」
消えそうな声で呼ばれ顔を上げると、視線がぶつかる。
チカルは薄く唇を開いた。だが、喉に綿でも詰まっているかのように苦しく、なかなか言葉が出てこない。一言も発することができぬまま、陰る顔を床に落とした。その様子を黙って見つめていたタビトは、落ち着いた声音で問う。
「あのふたりに見られたこと気にしてる?」
きつく眉根を寄せ、チカルは頷く。
「大丈夫。仲良い友達だから心配しないで」
いつかの“ジーマに気をつけろ”というアキラの言葉が耳によみがえるもそれを振り払い、彼は明るく笑ってみせた。その笑顔は完璧にいつもの彼だったが、チカルの胸にかかった靄は晴れない。
外でふたりきりで会わないでくれとホズミに言われていたというのに、取り交わしを反故にしてしまった……それは契約書に記されていたわけでもなく、単なる口約束にすぎなかったが、生真面目なチカルはひどく責任を感じてしまっている。
タビトの友人らと別れたあと、すぐに人けのない路地に入って身を隠した。複雑に入り組んだ細い道を抜けると、商社が立ち並ぶ大通りに出たので、そこでタクシーを呼んだ。深夜1時過ぎということに加え、飲み屋もないためか人通りは皆無であったが、誰かに見られているのではないかと気が気ではなかった。こうして部屋に入ってもなお、チカルはそのときの緊張を引きずっている。
なかなか靴を脱ごうとしない彼女の心中を思い、タビトは床に片膝をつくと、昏く陰るその顔を見つめ上げた。
「考えなしに押しかけてごめん」
チカルは黙って、首を左右に振った。頬に触れる手をマスク越しに感じた瞬間、目の奥が燃えるように熱くなる。
親指の腹が、隠された痣の上を優しくなぞった。彼の手はそのままゆっくりと頬を辿って耳の裏に辿り着く。ゴム紐が外されマスクが取り去られてしまうと、チカルは苦しげに目を逸らし、わずかに顔を背けた。
「チカルさん」
両の手のひらで頬をやわらかく包み込み促すと、彼女は小さく震えながら、再びタビトを見た。
傷痕の残る小さな薄紅の唇。すこしこけた頬と、白い肌に透けて見える痣。それを視線で辿ったタビトは――静謐な輝きを帯びたチカルの双眸を、熱のこもったまなざしで見つめ返す。
そうして彼はチカルの顔に刻まれた生々しい傷と正面から向き合った。彼女も、もう目を逸らすことはなかった。
「あいつが?」
短い問いかけに答えようと唇を開いたが、チカルはけっきょく押し黙ってしまう。
その後、彼女は熱いシャワーを浴びながら、なぜはっきり「恋人にやられた」と言えなかったのかを考えた。そして、シュンヤを許すと決め、警察に駆け込まなかったあの日の自分のことを思った。
シャワーの栓を締め、静寂の中でじっと床を見据え考え込んでいたが、答えを出すのをあきらめて顔を上げる。濡れた鏡に映る女は自分とは思えないほどやつれている。
バスルームから出ると、タオルバスケットの横にボストンバッグが置いてあった。中から下着を取り出して身につけ、タビトが用意してくれた部屋着を手に取る。彼が着れば普通の半袖Tシャツだが、自分が着るとほとんど五分袖だ。穿いたズボンの裾を何度もまくりながら、彼との体格の差を実感する。
靴を脱ぐタビトの後ろで立ち尽くしたままコンソールテーブルに視線をずらせば、いつものリードディフューザーが置いていない。少し前に見たときは、まだ半分以上残っていたはずだ。
「シャワー浴びておいでよ。タオルとか準備しとくから」
チカルのスリッパを並べながら、彼は沈黙を恐れるかのように続けて言う。
「部屋着は俺のでいい?」
「タビト君」
消えそうな声で呼ばれ顔を上げると、視線がぶつかる。
チカルは薄く唇を開いた。だが、喉に綿でも詰まっているかのように苦しく、なかなか言葉が出てこない。一言も発することができぬまま、陰る顔を床に落とした。その様子を黙って見つめていたタビトは、落ち着いた声音で問う。
「あのふたりに見られたこと気にしてる?」
きつく眉根を寄せ、チカルは頷く。
「大丈夫。仲良い友達だから心配しないで」
いつかの“ジーマに気をつけろ”というアキラの言葉が耳によみがえるもそれを振り払い、彼は明るく笑ってみせた。その笑顔は完璧にいつもの彼だったが、チカルの胸にかかった靄は晴れない。
外でふたりきりで会わないでくれとホズミに言われていたというのに、取り交わしを反故にしてしまった……それは契約書に記されていたわけでもなく、単なる口約束にすぎなかったが、生真面目なチカルはひどく責任を感じてしまっている。
タビトの友人らと別れたあと、すぐに人けのない路地に入って身を隠した。複雑に入り組んだ細い道を抜けると、商社が立ち並ぶ大通りに出たので、そこでタクシーを呼んだ。深夜1時過ぎということに加え、飲み屋もないためか人通りは皆無であったが、誰かに見られているのではないかと気が気ではなかった。こうして部屋に入ってもなお、チカルはそのときの緊張を引きずっている。
なかなか靴を脱ごうとしない彼女の心中を思い、タビトは床に片膝をつくと、昏く陰るその顔を見つめ上げた。
「考えなしに押しかけてごめん」
チカルは黙って、首を左右に振った。頬に触れる手をマスク越しに感じた瞬間、目の奥が燃えるように熱くなる。
親指の腹が、隠された痣の上を優しくなぞった。彼の手はそのままゆっくりと頬を辿って耳の裏に辿り着く。ゴム紐が外されマスクが取り去られてしまうと、チカルは苦しげに目を逸らし、わずかに顔を背けた。
「チカルさん」
両の手のひらで頬をやわらかく包み込み促すと、彼女は小さく震えながら、再びタビトを見た。
傷痕の残る小さな薄紅の唇。すこしこけた頬と、白い肌に透けて見える痣。それを視線で辿ったタビトは――静謐な輝きを帯びたチカルの双眸を、熱のこもったまなざしで見つめ返す。
そうして彼はチカルの顔に刻まれた生々しい傷と正面から向き合った。彼女も、もう目を逸らすことはなかった。
「あいつが?」
短い問いかけに答えようと唇を開いたが、チカルはけっきょく押し黙ってしまう。
その後、彼女は熱いシャワーを浴びながら、なぜはっきり「恋人にやられた」と言えなかったのかを考えた。そして、シュンヤを許すと決め、警察に駆け込まなかったあの日の自分のことを思った。
シャワーの栓を締め、静寂の中でじっと床を見据え考え込んでいたが、答えを出すのをあきらめて顔を上げる。濡れた鏡に映る女は自分とは思えないほどやつれている。
バスルームから出ると、タオルバスケットの横にボストンバッグが置いてあった。中から下着を取り出して身につけ、タビトが用意してくれた部屋着を手に取る。彼が着れば普通の半袖Tシャツだが、自分が着るとほとんど五分袖だ。穿いたズボンの裾を何度もまくりながら、彼との体格の差を実感する。
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