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本編
第213話
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月曜日の池袋駅は行き交う通勤客であふれている。
人混みと蒸し暑さに耐えきれず、チカルは逃げるようにファストフード店に入った。こうして各所を転々としていると、この世のどこにも居場所がないように思われて、気持ちが沈む。
今日はタビトのところに行く前に、不動産会社のスタッフと共にアパートを内見する予定になっている。これまでも数件見て回ったが、事前に受けた物件の説明と実際の部屋の様子があまりにもかけ離れていたため契約に至らなかった。
いつまでも根無し草の生活を続けるわけにはいかない。今日こそ決められるといいがどうなるか……チカルは込み上げる不安を飲み込んで、スマホを取り出し時刻を確認した。まだ8時半だ。来店予約時間までまだ1時間ほどある。
ロック画面には、新着メールの通知が表示されていた。メールボックスを開いてみれば、数通のダイレクトメールのあいだにウル・ラドの新曲発売記念ミニライブの抽選結果が届いている。
“厳正なる抽選の結果、残念ながらチケットをご用意することができませんでした”という定型文を目でなぞりながら、妙に納得してしまった。なにしろシングルランキング2位だ、応募総数は相当のものであっただろう。
快適な店内で熱いコーヒーを飲み英気を養ったチカルは、約束の時間ぴったりに不動産会社を訪れた。
今回物件を案内してくれるのは、フレッシュな笑顔が好印象の20代と思しき女性である。話を聞けばまだ入社1年目らしい。笑顔のなかに緊張感がちらつく瞬間があるのも納得だ。
物件は池袋駅から20分ほど車を走らせた新宿区上落合にあった。築年数2年、南向きで日当たり良好、最寄り駅である下落合駅まで徒歩10分。都心へのアクセスも悪くないこのワンルームが、管理費込みで6万円だという。周辺の家賃相場は6万円から7万円ほどのため妥当な金額だが、立地も治安も問題ないうえに敷金礼金なし、賃貸債務保証会社への加入も強制ではなく、連帯保証人も不要となるとどうしても一抹の不安がよぎる。
「駅前はちょっと寂しいですけど、夜遅くまで営業してるスーパーもあってコンビニも点在してますから日常生活には困らないと思います。治安も悪くありませんし、女性のひとり暮らしにおすすめの物件ですよ」
車を降りたチカルは、担当者の営業トークを聞きながら曇天をバックに立つ小さなアパートを見上げる。築2年、白い外壁はまだ美しさを失っていない。
ここならばタビトの住まいの最寄り駅である五反田駅まで30分ほどだ。虎ノ門にあるサフェード本社、祐天寺にあるかんなぎ道場にも一時間以内で行ける。こんなに条件の合った住まいはもう見つからないかもしれない……逸る気持ちが込み上げてくるのを堪えて、チカルはアパートのエントランスに進む。
室内は事前に見せてもらった写真の通り、手垢を感じさせない築浅特有の清潔感があった。南向きの大窓から差し込む淡い光が床にやわらかく広がっている。
「自炊はされますか?」
背後から問われ振り向くと、担当者は壁付きキッチンを手で指し示しながらにこやかに続ける。
「こちら最新型のビルトインガスコンロとなっております。両面焼きの無水タイプなのでお手入れも楽ですし、オーブン感覚で手軽にグリル料理が楽しめます。もちろんアシスト機能もついておりまして……」
キッチンの説明が延々と続く。料理が苦手なチカルはどういう反応をしたらよいかわからず愛想笑いを浮かべて相槌を打った。調理面で便利な機能があっても契約の決め手にはならないが、モニターつきインターホンやエアコン、照明が備え付けという点はポイントが高い。しかし――こんなに好条件の部屋がなぜ残っているのだろうかと、ますます謎だ。
「人気がありそうなお部屋ですね……」
さりげなく相手の様子を窺うと、担当者は笑顔を絶やさぬまま答える。
「引っ越しの時期ですので、内見のご予約は多く賜っております。店舗で詳細を聞いて内見せず即ご契約するお客様もいらっしゃいますし、ご入居のお申込みは早い者勝ちということをご承知おきくださいませ」
迷っている時間はないぞ、と言いたいのだろう。急かされていることは店で説明を受けているときから感じていたが、チカルは自分のペースを崩さない。ゆっくりと室内を見渡しながら窓辺に近づく。
「ベランダを見てもいいですか?」
チカルが尋ねたそのとき、隣の壁から大きな音が聞こえてきた。ふたりは思わず黙り込み、顔を見合わせたまま動きを止める。
拳かなにかで叩いているかのような音だ。それが2回、3回と続いた。一拍置いて、男の怒鳴り声と絶叫が響く。身をこわばらせ呼吸を止めて、チカルは目だけを壁の方を向ける。なんと言っているのかはわからないが、男はまだ大声で喚いている。
「では……、バスルームにご案内しますね」
奇声が響くなか、担当者がひときわ明るい声で言った。しかしその顔は引きつっている。
こんなに条件のいい物件が1月から3月の繁忙期を経て残っていることの答えを見た気がした。チカルはその場に立ち竦んでじっと耳を澄ませていたが、やがて担当者の方に向き直り頭を下げる。
「申し訳ありませんが、他の物件を探します。本日はありがとうございました」
仕事まではまだ時間があったが、新しく物件を探す元気はもう残っていなかった。
目についたネットカフェの個室で仮眠を取り、駅の近くにある立ち食い蕎麦屋で昼食を済ませる。時間が14時に迫るたびに緊張感が増していくのが感じられた。今日、タビトは休みだ。おそらく部屋にいる。
目元の痣を完璧に隠すためにメイクを直し、新しいマスクを耳に掛ける。唇の傷がきれいに治るまでは、タビトの前で絶対に素顔を見せないつもりだ。
五反田駅に着き、コインロッカーに荷物を預ける。買ってきて欲しいものはなにもないと言うので、どこにも寄らずにマンションへと向かった。
「久しぶり……」
玄関でチカルを迎えたタビトは、ほのかな笑顔を浮かべる。
「体調は平気?」
瞳を覗き込むように見つめられ反射的に顔を背けたチカルは、黙って頷く。彼女の眉間に一瞬、浅く皺が寄ったのをタビトは見逃さなかった。
「チカルさん……どうして目を逸らすの?休んでるあいだに彼氏となにかあった?」
「いいえ、大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
チカルは彼の言葉を遮るように言うと、スリッパを履き背を向ける。
以前もこれと似たような会話をした……既視感にとらわれたタビトは立ち竦む。
思い返せば、こういった状況のとき彼女が口にする「大丈夫」という言葉は言葉通りの意味を持たず、相手を安心させるためだけに発せられたものだった。大丈夫だったことなんて一度もなかったと、彼は思う。
きっと今回も、大丈夫ではない。なにかが彼女の心を悩ませている。妊娠しているにしろしていないにしろ産科にかかったのは事実で、一週間も休んだことにはなにかしらの理由があるはずなのだ。だが、チカルはこちらに打ち明けようとはせず口をつぐむことを選んだ。「大丈夫」と言って、目も合わせずに離れていった。
今日ほどチカルの存在を遠く感じたことはない。
寂寥感を覚えつつ、洗面脱衣室で手を洗っている小さな背中を見つめた。深い悲しみに胸が張り裂けそうになりながらも平静を装い、タビトは鏡の中の彼女に言う。
「あのね、チカルさん。じつは昨日お客さんが来たから自分で掃除したんだ。この一週間、忙しくてほとんどホテル暮らしだったからベッドもバスルームもきれいだし、洗濯物もないよ」
肩越しに振り向いたチカルは、目元しか見えないもののあきらかに当惑している様子だ。そんな彼女をまっすぐに見つめ、タビトは静かな声で続ける。
「だから今日は別の仕事を手伝ってもらえる?」
人混みと蒸し暑さに耐えきれず、チカルは逃げるようにファストフード店に入った。こうして各所を転々としていると、この世のどこにも居場所がないように思われて、気持ちが沈む。
今日はタビトのところに行く前に、不動産会社のスタッフと共にアパートを内見する予定になっている。これまでも数件見て回ったが、事前に受けた物件の説明と実際の部屋の様子があまりにもかけ離れていたため契約に至らなかった。
いつまでも根無し草の生活を続けるわけにはいかない。今日こそ決められるといいがどうなるか……チカルは込み上げる不安を飲み込んで、スマホを取り出し時刻を確認した。まだ8時半だ。来店予約時間までまだ1時間ほどある。
ロック画面には、新着メールの通知が表示されていた。メールボックスを開いてみれば、数通のダイレクトメールのあいだにウル・ラドの新曲発売記念ミニライブの抽選結果が届いている。
“厳正なる抽選の結果、残念ながらチケットをご用意することができませんでした”という定型文を目でなぞりながら、妙に納得してしまった。なにしろシングルランキング2位だ、応募総数は相当のものであっただろう。
快適な店内で熱いコーヒーを飲み英気を養ったチカルは、約束の時間ぴったりに不動産会社を訪れた。
今回物件を案内してくれるのは、フレッシュな笑顔が好印象の20代と思しき女性である。話を聞けばまだ入社1年目らしい。笑顔のなかに緊張感がちらつく瞬間があるのも納得だ。
物件は池袋駅から20分ほど車を走らせた新宿区上落合にあった。築年数2年、南向きで日当たり良好、最寄り駅である下落合駅まで徒歩10分。都心へのアクセスも悪くないこのワンルームが、管理費込みで6万円だという。周辺の家賃相場は6万円から7万円ほどのため妥当な金額だが、立地も治安も問題ないうえに敷金礼金なし、賃貸債務保証会社への加入も強制ではなく、連帯保証人も不要となるとどうしても一抹の不安がよぎる。
「駅前はちょっと寂しいですけど、夜遅くまで営業してるスーパーもあってコンビニも点在してますから日常生活には困らないと思います。治安も悪くありませんし、女性のひとり暮らしにおすすめの物件ですよ」
車を降りたチカルは、担当者の営業トークを聞きながら曇天をバックに立つ小さなアパートを見上げる。築2年、白い外壁はまだ美しさを失っていない。
ここならばタビトの住まいの最寄り駅である五反田駅まで30分ほどだ。虎ノ門にあるサフェード本社、祐天寺にあるかんなぎ道場にも一時間以内で行ける。こんなに条件の合った住まいはもう見つからないかもしれない……逸る気持ちが込み上げてくるのを堪えて、チカルはアパートのエントランスに進む。
室内は事前に見せてもらった写真の通り、手垢を感じさせない築浅特有の清潔感があった。南向きの大窓から差し込む淡い光が床にやわらかく広がっている。
「自炊はされますか?」
背後から問われ振り向くと、担当者は壁付きキッチンを手で指し示しながらにこやかに続ける。
「こちら最新型のビルトインガスコンロとなっております。両面焼きの無水タイプなのでお手入れも楽ですし、オーブン感覚で手軽にグリル料理が楽しめます。もちろんアシスト機能もついておりまして……」
キッチンの説明が延々と続く。料理が苦手なチカルはどういう反応をしたらよいかわからず愛想笑いを浮かべて相槌を打った。調理面で便利な機能があっても契約の決め手にはならないが、モニターつきインターホンやエアコン、照明が備え付けという点はポイントが高い。しかし――こんなに好条件の部屋がなぜ残っているのだろうかと、ますます謎だ。
「人気がありそうなお部屋ですね……」
さりげなく相手の様子を窺うと、担当者は笑顔を絶やさぬまま答える。
「引っ越しの時期ですので、内見のご予約は多く賜っております。店舗で詳細を聞いて内見せず即ご契約するお客様もいらっしゃいますし、ご入居のお申込みは早い者勝ちということをご承知おきくださいませ」
迷っている時間はないぞ、と言いたいのだろう。急かされていることは店で説明を受けているときから感じていたが、チカルは自分のペースを崩さない。ゆっくりと室内を見渡しながら窓辺に近づく。
「ベランダを見てもいいですか?」
チカルが尋ねたそのとき、隣の壁から大きな音が聞こえてきた。ふたりは思わず黙り込み、顔を見合わせたまま動きを止める。
拳かなにかで叩いているかのような音だ。それが2回、3回と続いた。一拍置いて、男の怒鳴り声と絶叫が響く。身をこわばらせ呼吸を止めて、チカルは目だけを壁の方を向ける。なんと言っているのかはわからないが、男はまだ大声で喚いている。
「では……、バスルームにご案内しますね」
奇声が響くなか、担当者がひときわ明るい声で言った。しかしその顔は引きつっている。
こんなに条件のいい物件が1月から3月の繁忙期を経て残っていることの答えを見た気がした。チカルはその場に立ち竦んでじっと耳を澄ませていたが、やがて担当者の方に向き直り頭を下げる。
「申し訳ありませんが、他の物件を探します。本日はありがとうございました」
仕事まではまだ時間があったが、新しく物件を探す元気はもう残っていなかった。
目についたネットカフェの個室で仮眠を取り、駅の近くにある立ち食い蕎麦屋で昼食を済ませる。時間が14時に迫るたびに緊張感が増していくのが感じられた。今日、タビトは休みだ。おそらく部屋にいる。
目元の痣を完璧に隠すためにメイクを直し、新しいマスクを耳に掛ける。唇の傷がきれいに治るまでは、タビトの前で絶対に素顔を見せないつもりだ。
五反田駅に着き、コインロッカーに荷物を預ける。買ってきて欲しいものはなにもないと言うので、どこにも寄らずにマンションへと向かった。
「久しぶり……」
玄関でチカルを迎えたタビトは、ほのかな笑顔を浮かべる。
「体調は平気?」
瞳を覗き込むように見つめられ反射的に顔を背けたチカルは、黙って頷く。彼女の眉間に一瞬、浅く皺が寄ったのをタビトは見逃さなかった。
「チカルさん……どうして目を逸らすの?休んでるあいだに彼氏となにかあった?」
「いいえ、大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
チカルは彼の言葉を遮るように言うと、スリッパを履き背を向ける。
以前もこれと似たような会話をした……既視感にとらわれたタビトは立ち竦む。
思い返せば、こういった状況のとき彼女が口にする「大丈夫」という言葉は言葉通りの意味を持たず、相手を安心させるためだけに発せられたものだった。大丈夫だったことなんて一度もなかったと、彼は思う。
きっと今回も、大丈夫ではない。なにかが彼女の心を悩ませている。妊娠しているにしろしていないにしろ産科にかかったのは事実で、一週間も休んだことにはなにかしらの理由があるはずなのだ。だが、チカルはこちらに打ち明けようとはせず口をつぐむことを選んだ。「大丈夫」と言って、目も合わせずに離れていった。
今日ほどチカルの存在を遠く感じたことはない。
寂寥感を覚えつつ、洗面脱衣室で手を洗っている小さな背中を見つめた。深い悲しみに胸が張り裂けそうになりながらも平静を装い、タビトは鏡の中の彼女に言う。
「あのね、チカルさん。じつは昨日お客さんが来たから自分で掃除したんだ。この一週間、忙しくてほとんどホテル暮らしだったからベッドもバスルームもきれいだし、洗濯物もないよ」
肩越しに振り向いたチカルは、目元しか見えないもののあきらかに当惑している様子だ。そんな彼女をまっすぐに見つめ、タビトは静かな声で続ける。
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