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本編
第208話
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眠れずに、いつまでも天井を眺めている。
ベッドに入ってから3時間が経過しようとしていた。ダークグレーに塗られた壁をまっすぐに横切っている光の筋、それをじっと見つめたままタビトは、チカルのことを考えている。
食事シーンの撮影のあとにアキラから、35歳以上の初産はハイリスクだという話を聞いた。産婦人科医の息子である彼が妊娠中の合併症についてや、流産、難産のことを語ると説得力は桁違いだ。
できれば長時間の立ち仕事や力仕事は避けた方がいいと言っていたが、この先も家事代行の業務を続けていけるのだろうか。妊婦が掃除洗濯をしてはならないということはないがしかし、自宅に加え他家の分もやるとなればかなりの重労働になる。腹が大きくなればなおさらだ。
こちらがあれこれ思い悩まなくともチカルはすでに、からだへの負担を考慮してこの仕事を辞めようとしているかもしれない。ある日突然やってくるかもしれない別れの日を想像しただけで、彼の胸はかなしみに潰れそうになる。
彼女はいま、何を考えて過ごしているだろう?つわりで体調がすぐれなくとも胎に子がいる幸福感に包まれ、ちいさな体を胸に抱く日を夢見ているだろうか。それとも……
彼はかなしみとさみしさに顔を曇らせたまま、とめどない思考に身を任せ続ける。
そもそもチカルは、あの男との子どもを望んでいたのだろうか。肉体的精神的に傷つけられ、家に帰ることすら恐れていたというのに。
もしも同意の上でなく犯され懐胎してしまったのだとしたら?その考えが頭をよぎった瞬間、激しい怒りが込み上げてきて、タビトは思わず上体を起こす。震える手で口元を押さえ、大きく息を吐いた。
たとえ望まぬ妊娠であったとしても、チカルは命を胎で温め育むだろう。彼女の選択を否定し止める権利は誰にもない。
彼は背中を丸めてうずくまると、自分の髪に指を差し込み、荒れ狂う感情に任せてめちゃくちゃに掻き回した。痛みに目が覚めたようにぱっちりとまぶたを開き、視線の先にある壁を睨む。月明りがつくり出す光の筋は変わらずそこにある。
(しっかりしろ……)
産科への受診、そしてそのタイミングで届いた病気休暇の連絡。一週間休むとのことだったが、もしかしたら長引くかもしれないとも彼女は言っていた。この状況を見れば身籠った可能性は限りなく高いが――すべてのことはまだ、想像に過ぎない。妊娠したことを彼女の口から直接聞いたわけでもないというのに、勝手にあれこれと考え動揺しているなんてあまりに滑稽だ。
氷のように冷たい手で熱くなった顔を冷やし、再びベッドに倒れた。
部屋に差し込んでくる光の筋を目でなぞりながらタビトは、月明りに照らされ微笑むチカルの姿を思い出す。
きっとこの先もこうして、ひとりぼっちの夜に彼女と過ごした日々を追想するのだろう……胸の奥でつぶやいた彼は、このときようやく愛の本質に気づいた。
嫌いになろうと決めて嫌いになれるなら、忘れたいと願って忘れられるなら、とっくにそうしている。叶わぬ想いにどれだけ苦しめられようと、チカルと出会う前の自分には戻れないことを、彼は悟ったのだった。
好きになろうと思って好きになったわけではない。愛されたかったから愛したわけではない。チカルが結婚して他の男の妻になり、その男との子どもを出産し母になって――彼女のライフステージが自分を置き去りにし変化していったとしても、恋い慕うこの心は孤独の中をさまよいながら生き続けるのだ。
ベッドに入ってから3時間が経過しようとしていた。ダークグレーに塗られた壁をまっすぐに横切っている光の筋、それをじっと見つめたままタビトは、チカルのことを考えている。
食事シーンの撮影のあとにアキラから、35歳以上の初産はハイリスクだという話を聞いた。産婦人科医の息子である彼が妊娠中の合併症についてや、流産、難産のことを語ると説得力は桁違いだ。
できれば長時間の立ち仕事や力仕事は避けた方がいいと言っていたが、この先も家事代行の業務を続けていけるのだろうか。妊婦が掃除洗濯をしてはならないということはないがしかし、自宅に加え他家の分もやるとなればかなりの重労働になる。腹が大きくなればなおさらだ。
こちらがあれこれ思い悩まなくともチカルはすでに、からだへの負担を考慮してこの仕事を辞めようとしているかもしれない。ある日突然やってくるかもしれない別れの日を想像しただけで、彼の胸はかなしみに潰れそうになる。
彼女はいま、何を考えて過ごしているだろう?つわりで体調がすぐれなくとも胎に子がいる幸福感に包まれ、ちいさな体を胸に抱く日を夢見ているだろうか。それとも……
彼はかなしみとさみしさに顔を曇らせたまま、とめどない思考に身を任せ続ける。
そもそもチカルは、あの男との子どもを望んでいたのだろうか。肉体的精神的に傷つけられ、家に帰ることすら恐れていたというのに。
もしも同意の上でなく犯され懐胎してしまったのだとしたら?その考えが頭をよぎった瞬間、激しい怒りが込み上げてきて、タビトは思わず上体を起こす。震える手で口元を押さえ、大きく息を吐いた。
たとえ望まぬ妊娠であったとしても、チカルは命を胎で温め育むだろう。彼女の選択を否定し止める権利は誰にもない。
彼は背中を丸めてうずくまると、自分の髪に指を差し込み、荒れ狂う感情に任せてめちゃくちゃに掻き回した。痛みに目が覚めたようにぱっちりとまぶたを開き、視線の先にある壁を睨む。月明りがつくり出す光の筋は変わらずそこにある。
(しっかりしろ……)
産科への受診、そしてそのタイミングで届いた病気休暇の連絡。一週間休むとのことだったが、もしかしたら長引くかもしれないとも彼女は言っていた。この状況を見れば身籠った可能性は限りなく高いが――すべてのことはまだ、想像に過ぎない。妊娠したことを彼女の口から直接聞いたわけでもないというのに、勝手にあれこれと考え動揺しているなんてあまりに滑稽だ。
氷のように冷たい手で熱くなった顔を冷やし、再びベッドに倒れた。
部屋に差し込んでくる光の筋を目でなぞりながらタビトは、月明りに照らされ微笑むチカルの姿を思い出す。
きっとこの先もこうして、ひとりぼっちの夜に彼女と過ごした日々を追想するのだろう……胸の奥でつぶやいた彼は、このときようやく愛の本質に気づいた。
嫌いになろうと決めて嫌いになれるなら、忘れたいと願って忘れられるなら、とっくにそうしている。叶わぬ想いにどれだけ苦しめられようと、チカルと出会う前の自分には戻れないことを、彼は悟ったのだった。
好きになろうと思って好きになったわけではない。愛されたかったから愛したわけではない。チカルが結婚して他の男の妻になり、その男との子どもを出産し母になって――彼女のライフステージが自分を置き去りにし変化していったとしても、恋い慕うこの心は孤独の中をさまよいながら生き続けるのだ。
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