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本編
第200話
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自宅マンション前でタクシーを降りると、時刻は午後10時を回ろうとしていた。
ひとりエントランスを抜けエレベーターに乗り込んだチカルは、乾いた血がこびりついた指を見つめる。
シュンヤから殴る蹴るの暴行を受けてもまったく恐怖を感じていないことに気付いた瞬間、彼への愛を今度こそ完全に失ってしまったと知った。
今生の別れと思うも、なんの感情も湧いてこない。未練もなく、憎しみや哀しみすらもない。首輪が外れ、自由になったような気分だ。
誰もいない暗い室内に入り、洗面脱衣室の灯りをつけた。ホテルの部屋を出てからずっと俯かせていた顔を上げ、鏡の中の自分と目を合わせる。
想像していたよりもだいぶ酷い。平手打ちされた左頬は無様に腫れあがり、鼻の下や唇が赤黒く染まっている。特に拳で激しく殴打された部分――腕や額、側頭部には痣やコブができていた。
彼女はゆっくりと舌を口内に滑らせ、歯が欠けたりぐらついていないかを慎重に確認する。歯は無事だったが、頬の内側が深く切れているようで、鋭い痛みと共に鉄の味がした。血を洗い流してよく見てみれば唇にも傷がある。左耳の激痛もまだ残っており、聞こえが悪い。
まさかここまでとは――まるで鈍器かなにかでの制裁を受けたかのような負傷具合に、彼の馬鹿力を改めて思い知る。脳震盪を起こさなかったのが不思議なくらいだ。帰宅途中にスマホで調べたところ、妊娠初期に腹に強い衝撃が加わっても流産に繋がることはほぼないとあったが、シュンヤに本気で蹴られたり殴られたりしたらわからない。他の内臓ごと子宮自体が潰されてしまうのではないだろうかと思い、ぞっとした。
彼女は眼鏡に付着していた血や指紋を水で洗い、きれいな視界を取り戻してからダイニングへ向かう。煌々と輝くペンダントライトの元に立った彼女は、再び流れ出てきた鼻血をティッシュで拭いつつコートのポケットからスマホを取り出した。そして、体調不良のため来週いっぱい休ませて欲しいというメッセージをタビトに送った。
ビニール袋に氷を入れタオルで包んだものを腫れた頬に当てながら自室に入り、肌に馴染むスウェットシャツとジーンズに着替える。続けてクローゼットから古びた焦げ茶のボストンバッグを引っ張り出すと、数枚の衣類と私物を詰め込み始めた。
私物と言ってもわずかだ。実家から持ってきた数枚の写真、英文法書と辞典、洋書数冊。ノートパソコンは置いていくことにして――スキンケア用品、ウル・ラドのCD、タビトからもらったハンドクリームといった細々したものをおさめていく。
通帳と印鑑を探してチェストの中身をさぐっていると、奥から名刺サイズのカードが出てきた。
以前シュンヤと行った、中華料理店のショップカードだ。雰囲気も味も気に入ったのでまた来店したいと思い、レジ横に置いてあったものを一枚もらってきたのである。
捨てようとして、彼女はその手をとめる。天井にいくつもぶら下がっていたランプシェードの美しい刺繍を思い出しながら店舗の所在地と電話番号を目でなぞり、ゴミ箱ではなく財布に入れた。
最後に彼女は、ジュエリーボックスにしまっていたピアスを手にした。
タビトがくれたその銀色の輝きを光にかざす。大事にしている白いレースのハンカチに丁寧に包むと、鞄の内ポケットにおさめた。
それほど大きくもないボストンバッグだが、エプロンなどが入った仕事用のトートバッグを詰め込んでもまだすこし余裕がある。それを片手にぶら下げてドアを開けた彼女は、廊下に出たところで振り返った。
見慣れた室内にじっくりと視線を行き渡らせる。
美しく整えられたベッド。磨かれた鏡が輝いているドレッサー。小さなローテーブルとクッション、傷ひとつついていないチェスト。そして空っぽの本棚。ここに初めて来たときと同じ風景を眺めて、ほのかに笑う。
キーケースから外したこの家の鍵と車の鍵を揃えてシューズボックスの上に置くと、彼女はボストンバッグのみを手に玄関を出た。
扉が背後で閉まる。自動で施錠される音を背中で確認し、彼女は耳にイヤホンを嵌めてミュージックアプリをタップした。タビトの声が、よく聞こえない左耳に優しく染み入る。殴られた衝撃で鼓膜に傷がついているかもしれないなか、よくないことだとわかっていたが……今は、彼の声で両耳を塞いでいたかった。
音楽に背を押されたかのように、チカルは大きく一歩を踏み出す。そこから駅までの道中、彼女は一度も後ろを振り返ることはなかった。
ひとりエントランスを抜けエレベーターに乗り込んだチカルは、乾いた血がこびりついた指を見つめる。
シュンヤから殴る蹴るの暴行を受けてもまったく恐怖を感じていないことに気付いた瞬間、彼への愛を今度こそ完全に失ってしまったと知った。
今生の別れと思うも、なんの感情も湧いてこない。未練もなく、憎しみや哀しみすらもない。首輪が外れ、自由になったような気分だ。
誰もいない暗い室内に入り、洗面脱衣室の灯りをつけた。ホテルの部屋を出てからずっと俯かせていた顔を上げ、鏡の中の自分と目を合わせる。
想像していたよりもだいぶ酷い。平手打ちされた左頬は無様に腫れあがり、鼻の下や唇が赤黒く染まっている。特に拳で激しく殴打された部分――腕や額、側頭部には痣やコブができていた。
彼女はゆっくりと舌を口内に滑らせ、歯が欠けたりぐらついていないかを慎重に確認する。歯は無事だったが、頬の内側が深く切れているようで、鋭い痛みと共に鉄の味がした。血を洗い流してよく見てみれば唇にも傷がある。左耳の激痛もまだ残っており、聞こえが悪い。
まさかここまでとは――まるで鈍器かなにかでの制裁を受けたかのような負傷具合に、彼の馬鹿力を改めて思い知る。脳震盪を起こさなかったのが不思議なくらいだ。帰宅途中にスマホで調べたところ、妊娠初期に腹に強い衝撃が加わっても流産に繋がることはほぼないとあったが、シュンヤに本気で蹴られたり殴られたりしたらわからない。他の内臓ごと子宮自体が潰されてしまうのではないだろうかと思い、ぞっとした。
彼女は眼鏡に付着していた血や指紋を水で洗い、きれいな視界を取り戻してからダイニングへ向かう。煌々と輝くペンダントライトの元に立った彼女は、再び流れ出てきた鼻血をティッシュで拭いつつコートのポケットからスマホを取り出した。そして、体調不良のため来週いっぱい休ませて欲しいというメッセージをタビトに送った。
ビニール袋に氷を入れタオルで包んだものを腫れた頬に当てながら自室に入り、肌に馴染むスウェットシャツとジーンズに着替える。続けてクローゼットから古びた焦げ茶のボストンバッグを引っ張り出すと、数枚の衣類と私物を詰め込み始めた。
私物と言ってもわずかだ。実家から持ってきた数枚の写真、英文法書と辞典、洋書数冊。ノートパソコンは置いていくことにして――スキンケア用品、ウル・ラドのCD、タビトからもらったハンドクリームといった細々したものをおさめていく。
通帳と印鑑を探してチェストの中身をさぐっていると、奥から名刺サイズのカードが出てきた。
以前シュンヤと行った、中華料理店のショップカードだ。雰囲気も味も気に入ったのでまた来店したいと思い、レジ横に置いてあったものを一枚もらってきたのである。
捨てようとして、彼女はその手をとめる。天井にいくつもぶら下がっていたランプシェードの美しい刺繍を思い出しながら店舗の所在地と電話番号を目でなぞり、ゴミ箱ではなく財布に入れた。
最後に彼女は、ジュエリーボックスにしまっていたピアスを手にした。
タビトがくれたその銀色の輝きを光にかざす。大事にしている白いレースのハンカチに丁寧に包むと、鞄の内ポケットにおさめた。
それほど大きくもないボストンバッグだが、エプロンなどが入った仕事用のトートバッグを詰め込んでもまだすこし余裕がある。それを片手にぶら下げてドアを開けた彼女は、廊下に出たところで振り返った。
見慣れた室内にじっくりと視線を行き渡らせる。
美しく整えられたベッド。磨かれた鏡が輝いているドレッサー。小さなローテーブルとクッション、傷ひとつついていないチェスト。そして空っぽの本棚。ここに初めて来たときと同じ風景を眺めて、ほのかに笑う。
キーケースから外したこの家の鍵と車の鍵を揃えてシューズボックスの上に置くと、彼女はボストンバッグのみを手に玄関を出た。
扉が背後で閉まる。自動で施錠される音を背中で確認し、彼女は耳にイヤホンを嵌めてミュージックアプリをタップした。タビトの声が、よく聞こえない左耳に優しく染み入る。殴られた衝撃で鼓膜に傷がついているかもしれないなか、よくないことだとわかっていたが……今は、彼の声で両耳を塞いでいたかった。
音楽に背を押されたかのように、チカルは大きく一歩を踏み出す。そこから駅までの道中、彼女は一度も後ろを振り返ることはなかった。
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