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本編
第198話
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「友達だろうがなんだろうが関係ない……。他の女と選んだ指輪をもらって私が喜ぶと思ったの?」
その言葉を聞いた彼の顔に怒りの表情が刻まれる。
「知らなかったら喜んだんじゃねえのか?こそこそ尾行して勝手に傷ついて、被害者ぶってんじゃねえよ」
「尾行なんかしてないわ。記念日のプレゼントを探しに銀座に行ったとき、偶然見かけたの」
「文句が言いてえならそのとき直接言えばよかっただろ。こんな陰湿なことしやがって」
「陰湿?私に隠れて浮気を繰り返すあなたに言われたくないわ」
眉根をきつく寄せたままシュンヤは天井を見上げ、苛立ちを鎮めようとするかのように深い溜息をついた。
「わかった、認める。ぜんぶ俺が悪い」乱暴な調子で叫ぶように言う。「反省してる。もう二度と嘘ついたり悲しませたりしない……だからもう一度チャンスをくれ」
チカルは表情を失くしたまま彼を見つめていたが、ややあって首を左右に振る。
「同じことを繰り返すわよ。女遊びを我慢できるわけない」
「今までの人間関係をリセットするまで許さねえつもりか?だったら仕事を辞めてやるよ。生半可な気持ちで言ってるわけじゃない、本気だ。おまえの心を取り戻すためなら俺はなんだってするぞ」
唇を引き結び黙り込んだチカルを見つめた彼は、わずかに表情を和らげて言葉を続ける。
「いっそのこと誘惑の多い都会からおさらばして、今すぐ故郷に戻って暮らそうか。あの村は既婚者と年寄りばっかりだから女遊びなんかする気にもならねえしさ、おまえも安心だろ。実家を継げば財産はほとんど俺のものになるからカネに困ることもない。ふたりで余生をのんびり過ごそうぜ」
「……」
「チカル……そうしよう。な?」
「別れましょう」
冷たく放たれた短い返答を聞いたとたん、青褪めていたシュンヤの顔に激しい憤怒の色がのぼる。
「おまえのためなら地位も名誉も捨てるって言ってんのに……ここまでおまえのことを考えてんのに、俺を拒むってのか?」
シュンヤは気色ばんでリングケースと指輪をドレッサーの上に叩きつけるように置き、勢いそのままチカルに迫った。
「おまえだって若い男にうつつ抜かしてたじゃないか……そいつと寝たならお互い様だろ。ここは許し合って、また一から始めよう。俺たち、こんなとこで終わるような仲じゃねえはずだ」
「終わらせるの。もう決めたのよ」
チカルは伏せていた目を上げて、まっすぐにシュンヤを見つめる。
「ぜんぶまっさらにして、自分の人生を新しく始めたい」
「バカなことを……」
声を詰まらせたシュンヤは激しく髪を掻きむしると、怒りと絶望が入り混じった双眸を固く閉じて呻くように言う。
「なにがそんなに気に入らないんだ?浮気以外におまえを失望させたことがあったかよ?」
「さんざん物扱いしてきたじゃないの。私のことを対等に見てくれたことは一度だってなかった……あなたは好きな時にセックスできる都合のいい人形がほしかっただけよ」
「だからそんなつもりなかったんだって――クソッ……」
舌打ちして顔を背けると、彼は腰に手を当てて大きく息を吐く。片手で顔を乱暴に拭い、荒々しい口調で続けた。
「おまえ……さっき、まっさらにするって言ったな。俺もその覚悟で故郷で暮らそうと言ったんだ。おまえのためなら仕事を辞めるつもりでいること、これは嘘じゃない。積み上げてきたキャリアも定年後の計画も……ぜんぶ台無しにしてまでおまえに尽くそうとする俺の気持ちを、無下にしないでほしい」
「――計画……?」
「できれば定年後に田舎暮らしをスタートさせたかった。でも、おまえの信頼を取り戻せるならその計画を前倒しするよ。いま持ってるものを惜しまず捨てて、これからはおまえだけのために生きるから……頼む、別れるなんて言わないでくれ」
「それって……」彼女は胸に迫る絶望感に目を見開く。「将来的に、私を連れて村に戻るつもりだったってこと?」
「ああ、そうだ。ついこのあいだ、定年退職したら家を継ぐって両親とじいちゃんに話をしておいた。親父、すげえ喜んでたよ。あんなこと言ってたけど、俺に家を継いでもらいたかったんだろうな」
そんな話、初耳だ。
東京まで来ればもう大丈夫、ずっとここにいようと言って抱きしめてくれたあの日のことを、シュンヤは忘れてしまったのだろうか。
村での生活を捨て、並々ならぬ覚悟で上京してきた。ここに骨を埋めるつもりでいることを、彼が知らないはずはない。知っていながら、自分の家のことを優先し、戻ることを計画していたのだ。
もしタビトに会わず、己の境遇に疑問を抱くこともなく――流されるまま結婚していたら、故郷に戻る未来が待っていた……今になって彼が同じ未来を見ていなかったのだと知り、チカルはショックを隠せない。
「ふたりでずっと、ここで暮らそうって言ってくれたじゃないの……」
彼女は震えながら手のひらで口元を押さえた。深い傷口に指を突っ込まれたように感じ、そのまぼろしの痛みに悲鳴をあげそうになる。
「あのときは若かったんだ……歳を取れば考えは変わる。なによりあの家の跡継ぎは俺しかいないし、仕方ねえだろ」
「――酷いわ……。私がどんな気持ちで東京へ逃げてきたかわかっていながら、戻ることを画策していただなんて」
「チカル……。怯えるのはもうよせ。おまえのばあちゃんも母親も、いつかは死ぬ」
シュンヤは彼女の肩に手を置き、なだめるようにさすりながら言葉を継ぐ。
「故郷で暮らす決断はおまえのためを思ってのことだよ」
その言葉を拒否するように激しくかぶりを振ったチカルは、彼の手を振り払い後ずさった。
怒りともかなしみともつかない奇妙な感覚が込み上げてくる。彼女は俯き、長い前髪で陰る目に涙を薄く溜めたまま言う。
「私のためだって言うけれど、それは違う……シュンヤはいつだって自分のことしか考えていない。あなたもけっきょく私と同じで、家に縛られ続けているのだわ。お父様を失望させることが怖いのよ」
声が空気に溶け、辺りが静まり返る。チカルは伏せていた目を上げ、静寂の中でシュンヤを見つめた。
すべての表情がつるりと落ちた、蝋のように白い顔が彼女に向けられている。
「黙れ」
彼の唇から言葉が放たれた瞬間、目の中で閃光が弾けた。
体に響く衝撃と共に床に倒れたチカルは、痛みを受けた左頬に指先を当てる。硬い手のひらの感触が、はっきりと残っている。
熱を帯びているその部分を手で包み込み、ぼんやりとした目つきのままシュンヤを見上げた。
その言葉を聞いた彼の顔に怒りの表情が刻まれる。
「知らなかったら喜んだんじゃねえのか?こそこそ尾行して勝手に傷ついて、被害者ぶってんじゃねえよ」
「尾行なんかしてないわ。記念日のプレゼントを探しに銀座に行ったとき、偶然見かけたの」
「文句が言いてえならそのとき直接言えばよかっただろ。こんな陰湿なことしやがって」
「陰湿?私に隠れて浮気を繰り返すあなたに言われたくないわ」
眉根をきつく寄せたままシュンヤは天井を見上げ、苛立ちを鎮めようとするかのように深い溜息をついた。
「わかった、認める。ぜんぶ俺が悪い」乱暴な調子で叫ぶように言う。「反省してる。もう二度と嘘ついたり悲しませたりしない……だからもう一度チャンスをくれ」
チカルは表情を失くしたまま彼を見つめていたが、ややあって首を左右に振る。
「同じことを繰り返すわよ。女遊びを我慢できるわけない」
「今までの人間関係をリセットするまで許さねえつもりか?だったら仕事を辞めてやるよ。生半可な気持ちで言ってるわけじゃない、本気だ。おまえの心を取り戻すためなら俺はなんだってするぞ」
唇を引き結び黙り込んだチカルを見つめた彼は、わずかに表情を和らげて言葉を続ける。
「いっそのこと誘惑の多い都会からおさらばして、今すぐ故郷に戻って暮らそうか。あの村は既婚者と年寄りばっかりだから女遊びなんかする気にもならねえしさ、おまえも安心だろ。実家を継げば財産はほとんど俺のものになるからカネに困ることもない。ふたりで余生をのんびり過ごそうぜ」
「……」
「チカル……そうしよう。な?」
「別れましょう」
冷たく放たれた短い返答を聞いたとたん、青褪めていたシュンヤの顔に激しい憤怒の色がのぼる。
「おまえのためなら地位も名誉も捨てるって言ってんのに……ここまでおまえのことを考えてんのに、俺を拒むってのか?」
シュンヤは気色ばんでリングケースと指輪をドレッサーの上に叩きつけるように置き、勢いそのままチカルに迫った。
「おまえだって若い男にうつつ抜かしてたじゃないか……そいつと寝たならお互い様だろ。ここは許し合って、また一から始めよう。俺たち、こんなとこで終わるような仲じゃねえはずだ」
「終わらせるの。もう決めたのよ」
チカルは伏せていた目を上げて、まっすぐにシュンヤを見つめる。
「ぜんぶまっさらにして、自分の人生を新しく始めたい」
「バカなことを……」
声を詰まらせたシュンヤは激しく髪を掻きむしると、怒りと絶望が入り混じった双眸を固く閉じて呻くように言う。
「なにがそんなに気に入らないんだ?浮気以外におまえを失望させたことがあったかよ?」
「さんざん物扱いしてきたじゃないの。私のことを対等に見てくれたことは一度だってなかった……あなたは好きな時にセックスできる都合のいい人形がほしかっただけよ」
「だからそんなつもりなかったんだって――クソッ……」
舌打ちして顔を背けると、彼は腰に手を当てて大きく息を吐く。片手で顔を乱暴に拭い、荒々しい口調で続けた。
「おまえ……さっき、まっさらにするって言ったな。俺もその覚悟で故郷で暮らそうと言ったんだ。おまえのためなら仕事を辞めるつもりでいること、これは嘘じゃない。積み上げてきたキャリアも定年後の計画も……ぜんぶ台無しにしてまでおまえに尽くそうとする俺の気持ちを、無下にしないでほしい」
「――計画……?」
「できれば定年後に田舎暮らしをスタートさせたかった。でも、おまえの信頼を取り戻せるならその計画を前倒しするよ。いま持ってるものを惜しまず捨てて、これからはおまえだけのために生きるから……頼む、別れるなんて言わないでくれ」
「それって……」彼女は胸に迫る絶望感に目を見開く。「将来的に、私を連れて村に戻るつもりだったってこと?」
「ああ、そうだ。ついこのあいだ、定年退職したら家を継ぐって両親とじいちゃんに話をしておいた。親父、すげえ喜んでたよ。あんなこと言ってたけど、俺に家を継いでもらいたかったんだろうな」
そんな話、初耳だ。
東京まで来ればもう大丈夫、ずっとここにいようと言って抱きしめてくれたあの日のことを、シュンヤは忘れてしまったのだろうか。
村での生活を捨て、並々ならぬ覚悟で上京してきた。ここに骨を埋めるつもりでいることを、彼が知らないはずはない。知っていながら、自分の家のことを優先し、戻ることを計画していたのだ。
もしタビトに会わず、己の境遇に疑問を抱くこともなく――流されるまま結婚していたら、故郷に戻る未来が待っていた……今になって彼が同じ未来を見ていなかったのだと知り、チカルはショックを隠せない。
「ふたりでずっと、ここで暮らそうって言ってくれたじゃないの……」
彼女は震えながら手のひらで口元を押さえた。深い傷口に指を突っ込まれたように感じ、そのまぼろしの痛みに悲鳴をあげそうになる。
「あのときは若かったんだ……歳を取れば考えは変わる。なによりあの家の跡継ぎは俺しかいないし、仕方ねえだろ」
「――酷いわ……。私がどんな気持ちで東京へ逃げてきたかわかっていながら、戻ることを画策していただなんて」
「チカル……。怯えるのはもうよせ。おまえのばあちゃんも母親も、いつかは死ぬ」
シュンヤは彼女の肩に手を置き、なだめるようにさすりながら言葉を継ぐ。
「故郷で暮らす決断はおまえのためを思ってのことだよ」
その言葉を拒否するように激しくかぶりを振ったチカルは、彼の手を振り払い後ずさった。
怒りともかなしみともつかない奇妙な感覚が込み上げてくる。彼女は俯き、長い前髪で陰る目に涙を薄く溜めたまま言う。
「私のためだって言うけれど、それは違う……シュンヤはいつだって自分のことしか考えていない。あなたもけっきょく私と同じで、家に縛られ続けているのだわ。お父様を失望させることが怖いのよ」
声が空気に溶け、辺りが静まり返る。チカルは伏せていた目を上げ、静寂の中でシュンヤを見つめた。
すべての表情がつるりと落ちた、蝋のように白い顔が彼女に向けられている。
「黙れ」
彼の唇から言葉が放たれた瞬間、目の中で閃光が弾けた。
体に響く衝撃と共に床に倒れたチカルは、痛みを受けた左頬に指先を当てる。硬い手のひらの感触が、はっきりと残っている。
熱を帯びているその部分を手で包み込み、ぼんやりとした目つきのままシュンヤを見上げた。
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