よあけ

紙仲てとら

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本編

第182話

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 忍ばせた足音がベッドに近づいてくる。彼がなにをしに来たのかはわかっている。不快な汗が背中に滲んだ。掛け布団が静かにめくられる。彼女は寝たふりをし、微動だにしない。
「チカル」
 ベッドがぎしりと鳴り、彼の重みを受けたマットレスが沈み込む。肩口に触れてくる手は水でわずかに湿っている。彼の尖った鼻先が髪に触れ、濡れた舌が耳の穴にぬるりと侵入してきた。その感触にぞっとして思わず目を開き身をよじる。
「やっぱ起きてた」
 彼は喉の奥で笑う。廊下の光を背中から受けて、その顔は真っ黒だ。歯だけが白く浮かんで見える。
「寝たふりなんかしちゃってさ……」
 彼はチカルの小さな頤を指先で撫でながら言う。息が酒臭い。
「出て行って」
 チカルは布団を胸に抱き寄せ、壁に背中をつける。睨んでくるまなざしを受けても、彼はまだへらへらと笑っている。そうして無言で彼女から布団を奪うと、肩口を掴んで強引に壁から引きはがし押し倒した。片手で軽々とチカルの抵抗を押さえたまま腰を跨ぐと、ネクタイを取り去り床に放る。
「聞こえなかったの?出て行ってって、言っているのよ」
「冷たいこと言うなって……このあいだは楽しんでたじゃん」
「楽しんでなんか――」
 否定する唇をキスで塞ぎ、シュンヤは枕に広がる彼女の髪をいささか乱暴に掴んだ。
 酒の味がする舌が淫靡な水音を立てながら口内を這う。強烈な不快感が背筋を駆け抜けていき、チカルは彼の肩を強く押しやって無理矢理に顔を引き離した。そして濡れた唇を部屋着の袖で乱暴に拭いながら叫ぶ。
「今日は、絶対に嫌っ……触らないで!」
「静かにしてろ。どうせ押し切られてヤることになるんだからさ……」
「やめて……!出て行ってよ」
 シーツに縫い付けられてもなお激しく暴れるチカルを前に、とうとうシュンヤの顔から笑みが消えた。
 急に伸びてきた大きな手に顔の下半分を鷲掴みにされたチカルは、見開いた目で彼を凝視する。
「そんなに俺に抱かれるのが嫌か?」
 低く問うてくる黒い影に、チカルは反応できずただ震えた。銀座のジュエリーショップの前でやさしく頭を撫でられていた女の姿が脳裏にちらつく。もはや恐怖ではなく――怒りのあまりに、彼女は震えていた。
 真っ赤に潤んだ瞳でシュンヤをきつく睨み上げたかと思うと、渾身の力で身をよじる。酔っていて反応が遅れたか、巨躯がわずかに傾いだ。
 その隙をチカルは見逃さなかった。振りかぶった右手がシュンヤの頬にヒットする。乾いた音が耳元で炸裂し我を取り戻したか、彼は打たれた頬を手のひらで押さえたまま、茫然とした顔でチカルを見つめた。
 彼女は体の下から這い出し、床に転がり落ちる。髪を振り乱しながら扉に駆け寄り、柔らかい灯りに満たされた廊下に出ると、暗がりに残されたシュンヤを凝視した。
「もう、やめて……」肩で息をしながら、チカルは喘ぐように言った。「私はあなたの欲求を満たすための人形じゃない」
「人形?そんな扱いした覚えねえよ」
 すっかり脱力した彼が、ぽつりとつぶやく。薄闇に沈む双眸が彼女をまっすぐ見据えた。
「ずっとそう思ってたのか?」
 チカルの表情が絶望に翳る。好き勝手にこちらの体を使っておいてこの物言いとは――しらを切っているのか、本当にそう思っているのかはわからないがどちらにしても無神経で残酷だ。
「なんでも自分の思い通りにしないと気が済まないくせに……」
 チカルは唇を震わせてつぶやく。その声はか細かったが、静かな室内にくっきりと響いた。
「私が選ぶものは全否定して自分の好みを押し付けて……そのうえあんなに乱暴に抱いておいて、人形扱いしているつもりないですって?」
「――乱暴にしたことは謝る。ごめんな」
 その言葉を聞いたチカルは耳を疑った。
 あのシュンヤが謝ってくるとは夢にも思っていなかった。
「なんか最近様子が変だったし……絶対に利用者の男となにかあったんだと思って、怒りが抑えきれなかった。おまえに男の影を見たのは初めてだったから不安だったんだ。俺、おまえのことを繋ぎとめたくて必死で……」
 彼女は壁に背中をつけ、ずるずると床にへたり込む。
「体を繋げば心も繋いでいられると思わないで」
 疲れ果てた白い顔がシュンヤを静かに見つめた。
「どうしてあのとき、私を信じてくれなかったの?」
 言葉にすると、たまらなく悲しくなった。震える息を吐いて、涙に光る瞳にシュンヤを映す。
「もう戻れない……――幸せだった頃には二度と……」
 込み上げてくる感情に喉が締まって言葉が続けられず、チカルは俯いた。
 唇をきつく結んで座り込んでいたシュンヤだったが、やがてゆっくりとベッドから降り、尻をついたまま動けずにいる彼女の前に跪く。
「チカル」
 呼びかけに反応せず俯いたままでいるのをまっすぐに見つめて、シュンヤは続けた。
「疑ったこと……許してくれ。もう二度と乱暴にしたりしないから。約束する」
 声を詰まらせて俯くと、冷たくなったチカルの手を両手で握り込む。振り解こうとする彼女の体を掻き抱いて、耳元で囁いた。
「つまんない嫉妬してごめん。チカル……本当にごめん」
 予想外の展開に唖然とし、チカルはされるがままだ。
 彼は謝罪の言葉をうわごとのように繰り返した。その弱々しい声を聞いて、チカルの脳裏にかつての彼の面影がよぎる。
 中学生の頃、シュンヤがかわいがっていた飼い犬が死んだ。あの日、みんなの前では気丈に振る舞っていた彼が、ふたりきりになったとたん泣き崩れた。「こんな姿はチカルにしか見せられない」そう話す涙に濡れた顔を、今も忘れない。周囲に決して弱みを見せず常に自信満々な男が、自分にだけ気を許してくれるということ。ふたりの特別な関係を実感するたびに、心を熱く震わせたものだ。
 しかしどうして、特別な関係を結んでいるのは自分だけだと思い込んでしまったのだろう。 
 彼の“特別”は女の数だけあるのかもしれないとチカルは思った。ジュエリーショップの前で偶然見かけたあの女は“自分に釣り合う美しい女”として特別扱いされているのだろう。確かに彼女は周囲を惹きつける美貌を持っていた。華奢で容姿端麗、かわいらしいワンピースを身にまとい、たおやかな髪を風に揺らす可憐な姿……あれはまさしく、シュンヤが理想とする女だ。
 多くの女の中から選べる状況にありながら、それでもシュンヤはチカルを手放そうとはしない。それがなぜなのか、チカル自身いまだに理解できなかった。好みじゃない女を自分好みに仕立て上げようと躍起になり、相手が譲歩してくることに期待し、望む通りにならなければ憤慨する。さぞ気分が悪いに違いないのに別れを選ぼうとせず固執するとは、いったいどういうことなのだろうと。
 そこまで考えて思わず嘆息を漏らした。自分とてシュンヤに対し、いつかは女遊びをやめてくれるのではないかと期待し、いつまでも見放せないことに気付いたのだった。
 一方的に期待し、裏切られたと言って失望する。互いに身勝手な想いを持ち寄って、愛と呼んでいただけなのかもしれない。
 チカルは彼の腕のなかで愁眉を開く。冷たく静まり返る胸の奥、見つめる先にはタビトの姿がある……
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