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本編
第174話
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チカルは胸の奥が熱くなるのを感じながらタビトの姿をいつまでも見つめていたが、やがてひとつ大きく息を吐くとページを繰る。
歌詞は今回もすべて英語で書かれている。古いノートパソコンのスピーカーから流れてくる心地よいサウンドを聴きながら、連なる英文を目でなぞった。
手をつないで 踊ろうよ
ふたりきりで いつまでも
ピンクの炎に つつまれた からだから
甘いにおいの 煙が うねりながら のぼってく
わたしの 夢を 狙ってる
腹を減らした モンスター
手も 足も 耳も あげる
目も 鼻も 唇も あげるから
夢だけは 食べないで
まだ 目覚めたくない
ずっと 夢を 見ていたい
目覚めたく ないよ
チカルはかつて勤めていた映画配給会社で、洋画の版権の買い付け担当として活躍していた。海外の関係者とやりとりすることも多く、もともと洋画の翻訳家を目指していたこともあり、英語が堪能だ。それでもウル・ラドの楽曲を訳すのは難しく感じる。抽象的であるし、正解がわからない。つかみどころのない歌詞である。
彼女は再び曲名を見た。「DYING TO KNOW」。知りたくてたまらない、という意味だ。
曲が一周し、また始まる。耳を傾けつつ、ミニライブ抽選券のシリアルナンバーを専用サイトに入力する。タビトのパートのところで何度も指をとめて聴き入りながら、入力事項を埋めて応募ボタンをクリックした。
ウル・ラドの人気がどれほどのものなのかいまいちわからないが、きっと多くのファンが応募することだろう。チカルは天井を振り仰ぎ、祈るように目を閉じる。
それからテーブルに視線を戻すと、特典のステッカーを手にした。カラフルなグラフィティフォントの上に、ねじれた角を頭に生やした雄牛が力強い筆跡で大きく描かれている。雑な落書きのように見えるが、下の字体と妙にマッチしている。彼女は渋谷で見かけたストリートアートをふいに思い出した。
渋谷には長らく行っていない。最後にスクランブル交差点を渡ったのはもう5年以上前になるだろうか。晩秋の夜、仕事終わりのシュンヤに突然呼び出され、終電まで飲み歩いた。泥酔した彼が電柱に小便をかけようとしているのを必死になって止め、もたれかかってくる大きな体をタクシーに押し込んでようやく帰宅したあとは、トイレで吐きまくる彼の介抱に追われた。あれは本当に大変な夜だった。
渋谷にいい思い出はほとんどない。上京してすぐシュンヤに連れられて訪れたときには、あまりの人の多さに具合を悪くした。休憩した道玄坂のラブホテルは、恐ろしく古びていて壁も薄く、あちこちから嬌声が響いてきて休んだ気がしなかった。室内があまりに暗くじめじめしているので、すこし外の光を入れようとウッドシャッターを開いてみたがそこに窓はなく、コンクリートの壁になっていたことを今も覚えている。
くだらないことや些細なことほど鮮明に記憶しているものだ……あの日渋谷に行った理由は交際5周年を祝ってのことだったが、ホテルを出てからシュンヤとどこに行ったかだとか何を食べたかだとかの記憶はほとんど残っていない。15年ほども前とはいえ特別な一日だったはずなのに、彼と過ごした大切な思い出を忘れかけている自分がとても薄情な人間に思える。
彼女は意地になって、当時の記憶を辿った。そうして、ペアリングを探して渋谷を歩き回ったことをようやく思い出す。指輪は気に入るものが見つからなかった。ではその代わりになにを贈り合ったのだったか――
チカルはあきらめたように溜息をついた。まるで覚えていない。過去は深い霧に覆われ、そのなかに置き去りにしてきてしまった思い出はいつのまにか輪郭を失っている。
交際記念日だから特別なものを贈り合いたいというシュンヤの言葉が、ぼんやりと耳によみがえったそのときだった。とつぜん目を見開いたチカルは、あっと小さく声をあげた。すっかり失念していたが、もうすぐ21回目の記念日がやってくるではないか。
慌てた様子でチェストのうえにある卓上カレンダーを手に取り、当日までの日付を指先で数えた。来週に迫っているのにまだプレゼントを用意していない。
現実に引き戻された彼女の顔が曇る。
クリスマス、誕生日、バレンタイン、そして交際記念日と、毎年なにかしら贈り合ってきた。プレゼントを準備するのは決して嫌いではないが、年々選択肢が減っていき、そのうえなにを贈っても喜ばれないため頭を悩ませる時間が増えてきている。
彼女はふむと唇を曲げ、カレンダーを見つめたまま考え込む。去年は確かネクタイピン。いや、それは一昨年だ。キーケース……も違う。あれはもっと前。
「手袋……」
小さくつぶやいて、伏せていた目をあげる。
昨年、悩んだ末に贈ったのが革の手袋であった。これから暖かくなるっていうのに手袋なんて、とシュンヤに鼻で笑われた。こういった反応をされるのはわかっていたし、嫌な気持ちにはなりたくなかったが、もうこれくらいしかプレゼントするものが思い浮かばなかったのだ。昔のように一緒に買いに行ったり、欲しいものを言ってくれた方が楽なのだが、本人がそうしたがらないのだから仕方がない。
今年こそ本当に困った……チカルは曲をとめてパソコンの電源を落とす。
簡単に昼食を済ませると、カーディガンの袖に腕を通して表に出た。エレベーターのなかで耳にイヤホンを押し込み、ウル・ラドの曲をかける。
4月近くにもなると、風はすっかりやわらかい。日差しの中をすこし歩いただけで、上着を羽織ってきたことを後悔した。CDを買いに行った午前中はこの格好でちょうどよかったのに――いよいよ春本番といった雰囲気を感じて、がっかりしてしまう。
春は嫌いだ。生温い風が思い出したくない記憶を運んできて、いつもこの時期になると憂鬱になる。
歌詞は今回もすべて英語で書かれている。古いノートパソコンのスピーカーから流れてくる心地よいサウンドを聴きながら、連なる英文を目でなぞった。
手をつないで 踊ろうよ
ふたりきりで いつまでも
ピンクの炎に つつまれた からだから
甘いにおいの 煙が うねりながら のぼってく
わたしの 夢を 狙ってる
腹を減らした モンスター
手も 足も 耳も あげる
目も 鼻も 唇も あげるから
夢だけは 食べないで
まだ 目覚めたくない
ずっと 夢を 見ていたい
目覚めたく ないよ
チカルはかつて勤めていた映画配給会社で、洋画の版権の買い付け担当として活躍していた。海外の関係者とやりとりすることも多く、もともと洋画の翻訳家を目指していたこともあり、英語が堪能だ。それでもウル・ラドの楽曲を訳すのは難しく感じる。抽象的であるし、正解がわからない。つかみどころのない歌詞である。
彼女は再び曲名を見た。「DYING TO KNOW」。知りたくてたまらない、という意味だ。
曲が一周し、また始まる。耳を傾けつつ、ミニライブ抽選券のシリアルナンバーを専用サイトに入力する。タビトのパートのところで何度も指をとめて聴き入りながら、入力事項を埋めて応募ボタンをクリックした。
ウル・ラドの人気がどれほどのものなのかいまいちわからないが、きっと多くのファンが応募することだろう。チカルは天井を振り仰ぎ、祈るように目を閉じる。
それからテーブルに視線を戻すと、特典のステッカーを手にした。カラフルなグラフィティフォントの上に、ねじれた角を頭に生やした雄牛が力強い筆跡で大きく描かれている。雑な落書きのように見えるが、下の字体と妙にマッチしている。彼女は渋谷で見かけたストリートアートをふいに思い出した。
渋谷には長らく行っていない。最後にスクランブル交差点を渡ったのはもう5年以上前になるだろうか。晩秋の夜、仕事終わりのシュンヤに突然呼び出され、終電まで飲み歩いた。泥酔した彼が電柱に小便をかけようとしているのを必死になって止め、もたれかかってくる大きな体をタクシーに押し込んでようやく帰宅したあとは、トイレで吐きまくる彼の介抱に追われた。あれは本当に大変な夜だった。
渋谷にいい思い出はほとんどない。上京してすぐシュンヤに連れられて訪れたときには、あまりの人の多さに具合を悪くした。休憩した道玄坂のラブホテルは、恐ろしく古びていて壁も薄く、あちこちから嬌声が響いてきて休んだ気がしなかった。室内があまりに暗くじめじめしているので、すこし外の光を入れようとウッドシャッターを開いてみたがそこに窓はなく、コンクリートの壁になっていたことを今も覚えている。
くだらないことや些細なことほど鮮明に記憶しているものだ……あの日渋谷に行った理由は交際5周年を祝ってのことだったが、ホテルを出てからシュンヤとどこに行ったかだとか何を食べたかだとかの記憶はほとんど残っていない。15年ほども前とはいえ特別な一日だったはずなのに、彼と過ごした大切な思い出を忘れかけている自分がとても薄情な人間に思える。
彼女は意地になって、当時の記憶を辿った。そうして、ペアリングを探して渋谷を歩き回ったことをようやく思い出す。指輪は気に入るものが見つからなかった。ではその代わりになにを贈り合ったのだったか――
チカルはあきらめたように溜息をついた。まるで覚えていない。過去は深い霧に覆われ、そのなかに置き去りにしてきてしまった思い出はいつのまにか輪郭を失っている。
交際記念日だから特別なものを贈り合いたいというシュンヤの言葉が、ぼんやりと耳によみがえったそのときだった。とつぜん目を見開いたチカルは、あっと小さく声をあげた。すっかり失念していたが、もうすぐ21回目の記念日がやってくるではないか。
慌てた様子でチェストのうえにある卓上カレンダーを手に取り、当日までの日付を指先で数えた。来週に迫っているのにまだプレゼントを用意していない。
現実に引き戻された彼女の顔が曇る。
クリスマス、誕生日、バレンタイン、そして交際記念日と、毎年なにかしら贈り合ってきた。プレゼントを準備するのは決して嫌いではないが、年々選択肢が減っていき、そのうえなにを贈っても喜ばれないため頭を悩ませる時間が増えてきている。
彼女はふむと唇を曲げ、カレンダーを見つめたまま考え込む。去年は確かネクタイピン。いや、それは一昨年だ。キーケース……も違う。あれはもっと前。
「手袋……」
小さくつぶやいて、伏せていた目をあげる。
昨年、悩んだ末に贈ったのが革の手袋であった。これから暖かくなるっていうのに手袋なんて、とシュンヤに鼻で笑われた。こういった反応をされるのはわかっていたし、嫌な気持ちにはなりたくなかったが、もうこれくらいしかプレゼントするものが思い浮かばなかったのだ。昔のように一緒に買いに行ったり、欲しいものを言ってくれた方が楽なのだが、本人がそうしたがらないのだから仕方がない。
今年こそ本当に困った……チカルは曲をとめてパソコンの電源を落とす。
簡単に昼食を済ませると、カーディガンの袖に腕を通して表に出た。エレベーターのなかで耳にイヤホンを押し込み、ウル・ラドの曲をかける。
4月近くにもなると、風はすっかりやわらかい。日差しの中をすこし歩いただけで、上着を羽織ってきたことを後悔した。CDを買いに行った午前中はこの格好でちょうどよかったのに――いよいよ春本番といった雰囲気を感じて、がっかりしてしまう。
春は嫌いだ。生温い風が思い出したくない記憶を運んできて、いつもこの時期になると憂鬱になる。
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