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本編
第162話
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家事代行派遣とハウスキーパー斡旋を生業としている株式会社サフェードが、創立の地である埼玉から東京へと進出してから今年で20年が経過した。
創業当初は従業員が5人以下といういわゆる零細企業であったが、オフィスウイルド前社長のスミタニがここに自社タレントの家の管理を任せ、その評判を同業者に広めたことから芸能人御用達の家事代行会社として名が知れるようになり急成長。チカルがここでのアルバイトを始めた8年ほど前にはスタッフの多くが芸能人宅に派遣されており、抱える従業員数は150名ほどにまで膨れ上がっていた。
彼女が入社して数年後にホームキーパーの斡旋事業が始まり、芸能人や単身世帯だけでなく子育て世帯をターゲットにしたサービスも充実させたことでさらに多くの新規顧客を獲得。今日に至るまで業績を伸ばし続けており、現在では虎ノ門に本社を構え、麻布十番、幡ヶ谷、西池袋、阿佐ヶ谷、玉川に支社がある。
「あ~、寒い寒い!」
サフェードの社長は口の中で小さく言いながら本社のガラスドアを開けた。背は低いが、なかなかに貫禄のある体を暖房の効いた空間に滑り込ませると、ほっとしたように表情を緩める。表は相当冷えているらしく、丸い鼻の先が赤くなっている。
彼はアンブレラスタンドに濡れた傘を入れ、ダウンジャケットを脱ぎつつ溜息をついた。
「雪でも降りそうだよ」
「嫌ですねえ。3月なのに」
答えたのは受付の女だ。創業当初からいる古株のひとりである。
「那南城さんはもう来てる?」
「10分くらい前に来ましたよ。応接室で待つように伝えました」
「ああ、今日も負けちゃったかあ。早めに家を出たのに」
彼は急ぎ足で受付の奥にある事務所に入る。電話対応している事務員たちに目で挨拶して、客用の湯呑に煎茶を淹れた。それと茶菓子を盆にのせ、応接室に入る。
「こっちから呼び出しておいて、お待たせしちゃって申し訳ない!」
「とんでもないです」
チカルは立ち上がり、いつもの無表情で返すと一礼する。
「冷たい雨で寒かったでしょう。ささ、あったかいうちにお茶どうぞ」
「お気遣いありがとうございます」彼女は湯呑を包んで手を温めながら扉の方をちらと見遣り、「なんだか今日は事務所が慌ただしいですね」
「そうなんだよ。一か月無料お試しのキャンペーン中だから」
言いながら手でチカルに茶菓子を勧める。あんこがたっぷり入ったモナカだ。
「今回のキャンペーンは息子の提案でね。ご新規さんを増やすために、新興住宅地を中心にビラを配ったり追加のネット広告を打ったんだ。うまくいくといいけど」
「電話がずっと鳴りっぱなしですし……効果抜群じゃないですか」
モナカの包装を破りつつチカルがほほえむ。
「ホームページの管理とか広告のこととか、最近は息子に頼り切りでさ。ぱぱっとやっちゃうんだから驚いちゃうよ。僕はネット関係はさっぱりなもんでね」
「息子さん、お元気そうでなによりです」
「ヤヒロ君から元気もらってんだろうな。彼、話し方はすこし乱暴だけど根は真面目で良い子だからさ」
「――『ヤヒロ君』って、もしかして……」
「そう、ウル・ラドのヤヒロ君。那南城さんが担当してる埜石タビト君と同じアイドルグループの子だよ。彼の担当になってから少しずつ気力を取り戻してきたみたいなんだよね。ムナカタさんの言葉を信じてよかったよほんとに」
チカルもムナカタのことは知っている。芸能事務所オフィスウイルドの代表者で、自社所属のアーティストやモデルの家事代行業務をほとんどサフェードに依頼してくれている重要な顧客である。
彼は気さくな性格で、手土産を持ってサフェード本社にふらりと来ては事務所の事務員や従業員と賑やかに話をして満足そうに帰っていく。社長がいるときなどは何時間も滞在することもあった。どうやら旧知の仲らしい。
向こうはもう忘れてしまっただろうが――チカルには言葉を交わした覚えがある。偶然居合わせた際に事務所内がトラブルに見舞われ、大騒ぎのなか二言三言会話した。穏やかでユーモアに富み、フランクだがなぜか馴れ馴れしさは感じない。気品ある所作や佇まいのなかに、なにか荒々しいものを感じさせる不思議な男だった。
「息子ももう37だし……このままうまいことこの仕事にやりがいを見出してもらえれば、うちも安泰なんだけどねえ。どうなることやら」
社長は茶を啜って喉を潤すと、言葉を続けた。
「――さてと、僕の話はここまでにして面談を始めようか。どうだね最近は。ご利用者様とはうまくやれているかな?」
サフェードでは、定期契約者を担当している社員やアイルバイトを対象に、年に数回の個人面談を実施している。これまで、チカルはこの面談に参加したことはほとんどなかった。給与や契約内容に関することに不満がある場合、直談判できる絶好のチャンスであったが、顧客とのコミュニケーションがうまくいかずに定期契約の機会を逃すことも多い状態で、社長に物申せるはずがない。
よって今回の面談も見送るつもりだった。だが社長の方から話がしたいと言われ、何事かとやって来たのである。
「若い男の子の担当は初めてだし、そのうえ有名人だしさ……大変なこともあるでしょう。なにか困ったことがあれば遠慮なく言ってちょうだいよ」
「埜石様にはとてもよくしていただいています」
チカルは短く答えるにとどめた。まさか利用者とあんなやりとりをしたなんて、言えたものではない。
「ならよかった。作業に関するトラブルとか、僕への待遇改善要請がなければ、本題に入らせてもらうけどいいかな」
頷くチカルに温厚な笑みを返し、彼は膝のあいだで指を組む。
「実は、役員会議で正社員登用の話が出てね。アルバイトの中から数人選出しようということになったんだ。あなたにはだいぶ長く勤めてもらって実績も申し分ないし、僕は今すぐにでも正社員として迎えたいと考えているんだが、どうだい?基本給だから収入も安定するし、年2回の賞与もある。紹介できる案件も増えるよ」
「正社員、ですか……」
彼女はゆるくかぶりを振って顔を俯かせた。
「ただ、正社員になったら合気道のアルバイトは辞めてもらわないとならない。正社員の副業は就業規則で禁止としているし、それに代行の仕事の空き時間に事務作業をやってもらうことになるから、今よりもすこし忙しくなると思うんだ」
「お話はありがたいのですが、……私としては、これ以上ないほどの待遇で雇っていただいていると思っていますし……」
か細い声でとぎれとぎれに言うと、唇をきつくつぐむ。沈黙するチカルを穏やかな顔で見つめ、彼はのんびりと続けた。
「なんだか今日の那南城さんは歯切れが悪いね。もしかして言いづらい悩みでも抱えているのかい?それとも、合気道のアルバイトを辞められない事情があるのかな?」
創業当初は従業員が5人以下といういわゆる零細企業であったが、オフィスウイルド前社長のスミタニがここに自社タレントの家の管理を任せ、その評判を同業者に広めたことから芸能人御用達の家事代行会社として名が知れるようになり急成長。チカルがここでのアルバイトを始めた8年ほど前にはスタッフの多くが芸能人宅に派遣されており、抱える従業員数は150名ほどにまで膨れ上がっていた。
彼女が入社して数年後にホームキーパーの斡旋事業が始まり、芸能人や単身世帯だけでなく子育て世帯をターゲットにしたサービスも充実させたことでさらに多くの新規顧客を獲得。今日に至るまで業績を伸ばし続けており、現在では虎ノ門に本社を構え、麻布十番、幡ヶ谷、西池袋、阿佐ヶ谷、玉川に支社がある。
「あ~、寒い寒い!」
サフェードの社長は口の中で小さく言いながら本社のガラスドアを開けた。背は低いが、なかなかに貫禄のある体を暖房の効いた空間に滑り込ませると、ほっとしたように表情を緩める。表は相当冷えているらしく、丸い鼻の先が赤くなっている。
彼はアンブレラスタンドに濡れた傘を入れ、ダウンジャケットを脱ぎつつ溜息をついた。
「雪でも降りそうだよ」
「嫌ですねえ。3月なのに」
答えたのは受付の女だ。創業当初からいる古株のひとりである。
「那南城さんはもう来てる?」
「10分くらい前に来ましたよ。応接室で待つように伝えました」
「ああ、今日も負けちゃったかあ。早めに家を出たのに」
彼は急ぎ足で受付の奥にある事務所に入る。電話対応している事務員たちに目で挨拶して、客用の湯呑に煎茶を淹れた。それと茶菓子を盆にのせ、応接室に入る。
「こっちから呼び出しておいて、お待たせしちゃって申し訳ない!」
「とんでもないです」
チカルは立ち上がり、いつもの無表情で返すと一礼する。
「冷たい雨で寒かったでしょう。ささ、あったかいうちにお茶どうぞ」
「お気遣いありがとうございます」彼女は湯呑を包んで手を温めながら扉の方をちらと見遣り、「なんだか今日は事務所が慌ただしいですね」
「そうなんだよ。一か月無料お試しのキャンペーン中だから」
言いながら手でチカルに茶菓子を勧める。あんこがたっぷり入ったモナカだ。
「今回のキャンペーンは息子の提案でね。ご新規さんを増やすために、新興住宅地を中心にビラを配ったり追加のネット広告を打ったんだ。うまくいくといいけど」
「電話がずっと鳴りっぱなしですし……効果抜群じゃないですか」
モナカの包装を破りつつチカルがほほえむ。
「ホームページの管理とか広告のこととか、最近は息子に頼り切りでさ。ぱぱっとやっちゃうんだから驚いちゃうよ。僕はネット関係はさっぱりなもんでね」
「息子さん、お元気そうでなによりです」
「ヤヒロ君から元気もらってんだろうな。彼、話し方はすこし乱暴だけど根は真面目で良い子だからさ」
「――『ヤヒロ君』って、もしかして……」
「そう、ウル・ラドのヤヒロ君。那南城さんが担当してる埜石タビト君と同じアイドルグループの子だよ。彼の担当になってから少しずつ気力を取り戻してきたみたいなんだよね。ムナカタさんの言葉を信じてよかったよほんとに」
チカルもムナカタのことは知っている。芸能事務所オフィスウイルドの代表者で、自社所属のアーティストやモデルの家事代行業務をほとんどサフェードに依頼してくれている重要な顧客である。
彼は気さくな性格で、手土産を持ってサフェード本社にふらりと来ては事務所の事務員や従業員と賑やかに話をして満足そうに帰っていく。社長がいるときなどは何時間も滞在することもあった。どうやら旧知の仲らしい。
向こうはもう忘れてしまっただろうが――チカルには言葉を交わした覚えがある。偶然居合わせた際に事務所内がトラブルに見舞われ、大騒ぎのなか二言三言会話した。穏やかでユーモアに富み、フランクだがなぜか馴れ馴れしさは感じない。気品ある所作や佇まいのなかに、なにか荒々しいものを感じさせる不思議な男だった。
「息子ももう37だし……このままうまいことこの仕事にやりがいを見出してもらえれば、うちも安泰なんだけどねえ。どうなることやら」
社長は茶を啜って喉を潤すと、言葉を続けた。
「――さてと、僕の話はここまでにして面談を始めようか。どうだね最近は。ご利用者様とはうまくやれているかな?」
サフェードでは、定期契約者を担当している社員やアイルバイトを対象に、年に数回の個人面談を実施している。これまで、チカルはこの面談に参加したことはほとんどなかった。給与や契約内容に関することに不満がある場合、直談判できる絶好のチャンスであったが、顧客とのコミュニケーションがうまくいかずに定期契約の機会を逃すことも多い状態で、社長に物申せるはずがない。
よって今回の面談も見送るつもりだった。だが社長の方から話がしたいと言われ、何事かとやって来たのである。
「若い男の子の担当は初めてだし、そのうえ有名人だしさ……大変なこともあるでしょう。なにか困ったことがあれば遠慮なく言ってちょうだいよ」
「埜石様にはとてもよくしていただいています」
チカルは短く答えるにとどめた。まさか利用者とあんなやりとりをしたなんて、言えたものではない。
「ならよかった。作業に関するトラブルとか、僕への待遇改善要請がなければ、本題に入らせてもらうけどいいかな」
頷くチカルに温厚な笑みを返し、彼は膝のあいだで指を組む。
「実は、役員会議で正社員登用の話が出てね。アルバイトの中から数人選出しようということになったんだ。あなたにはだいぶ長く勤めてもらって実績も申し分ないし、僕は今すぐにでも正社員として迎えたいと考えているんだが、どうだい?基本給だから収入も安定するし、年2回の賞与もある。紹介できる案件も増えるよ」
「正社員、ですか……」
彼女はゆるくかぶりを振って顔を俯かせた。
「ただ、正社員になったら合気道のアルバイトは辞めてもらわないとならない。正社員の副業は就業規則で禁止としているし、それに代行の仕事の空き時間に事務作業をやってもらうことになるから、今よりもすこし忙しくなると思うんだ」
「お話はありがたいのですが、……私としては、これ以上ないほどの待遇で雇っていただいていると思っていますし……」
か細い声でとぎれとぎれに言うと、唇をきつくつぐむ。沈黙するチカルを穏やかな顔で見つめ、彼はのんびりと続けた。
「なんだか今日の那南城さんは歯切れが悪いね。もしかして言いづらい悩みでも抱えているのかい?それとも、合気道のアルバイトを辞められない事情があるのかな?」
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