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本編
第144話
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欝々とした気持ちを抱えたまま夕刻を迎え、チカルは重い足取りでかんなぎ道場へ向かった。
事務所に入ったとたんマミヤにつかまり、同棲中の彼女に対する愚痴を聞かされた。ケンカしたのだという。自分も同じく同棲相手と諍いがあったのだと話せれば少しは気持ちが楽になったかもしれないが、できなかった。
「ケンカするほど仲がいいって言うけどね」
パソコンから目だけをあげて、溜息まじりに言ったコハラが笑う。
昔はシュンヤとケンカをするたびに、仲が深まったと感じたものだが――今は違うように思う。ケンカになるたび、互いのあいだの亀裂が深まっていくようだ。
冴えない表情で紅茶を飲んでいる彼女の横で、マミヤもまた不満そうである。座っている回転椅子の背もたれをギコギコ鳴らしながら唇を曲げた。
「さいきん言い争ってばっかだけど……仲がいいとは思えねえなあ。ほんとに相性が良かったらケンカなんかしなくね?」
「何度ぶつかっても関係が修復されるなら波長は合ってるのよ」コハラはキーボードで文字を打ち込みながら続ける。「ケンカって相手への強い関心のあらわれでもあるからね。なんでも言い合える仲の方が長続きするし、今のうちに気持ちをさらけ出してお互いのことを理解しておいた方がいいんじゃない?彼女、結婚したいと思ってるんでしょ?」
「結婚かあ」間延びした声で独り言ちて、「俺はするつもりないんすよねー……メリットなくないすか?」
「メリットなんて考えたこともなかったわ。好きな人と同じ苗字になれるのが嬉しいって気持ちしかなかったから」
「子どももつくる気ねえし、カネもねえし……同棲の方が気楽でいいんだよな。結婚って、紙っぺら一枚で世間にヘンな責任押し付けられるだけっつうイメージがあってさ」
その言葉に対し、なんと返すべきか迷っているのか――腕組みをしたコハラが唸っていると、
「お疲れー」
くたびれた顔で、ナルカミが事務所に入ってくる。使い古したバックパックをデスクに下ろすと、寝ぐせだらけの髪を撫でつけて溜息をついた。
「元気ないじゃない。どうしたの」
コハラが尋ねる。
「また変な連中に絡まれてさ……」
ジャケットを脱ぐと――胸倉を掴まれでもしたのか、シャツの襟がよれている。
「ナルカミせんせーってそういうオーラ出してるもんね」
「マミヤ……」
じとりと睨んだが、マミヤはそっぽを向いて椅子を揺らしながら続ける。
「どーせボッコボコに返り討ちにして警察につきだしてきたんでしょ?」
「ボコボコじゃないぞ。ぽこぽこくらいだ」
「へー。ほんとに正当防衛なのか、警察に疑われませんでした?」
「も……もちろん。疑われるはずないだろ」
「奥歯が折れるほど人を殴ったら過剰防衛でタイホされるかもしんねーから気を付けた方がいっすよ」
爪の周りのささくれをいじりつつ言う。ナルカミはそんな彼を横目で見て深い溜息をついた。
「どうしておまえはそう可愛げがないんだ……」
「かわいいと思われて俺が喜ぶと思います?」
喉の奥で笑ってナルカミを見上げる。挑戦的なまなざしを受けた彼は黙っていたが、やがて口角をあげた。
「前言撤回。やっぱりかわいいよおまえは」
虚を衝かれたような顔をしたマミヤの頭を搔き抱いて、髪をぐしゃぐしゃと混ぜる。
「かわいいかわいい……」
「おい!やめっ……やめろ!」
腕に爪を立ててもがくが、がっちり頭をホールドされて動けない。
彼らのやりとりを眺めていた女ふたりは、顔を見合わせてあきれたように眉を上げる。
「先輩、これ」チカルはマミヤに助け船を出すつもりでナルカミに近づくと、「シュンヤのご両親が、お心遣いをいただいたお礼にと」
そう言って紙袋を差し出した。彼はようやくマミヤを腕の中から解放し、
「ありがとう」すこし驚いたような顔のまま、それを受け取る。「チカルさんは帰郷したんだな」
「知らせを受けてからすぐに向かって、昨日戻りました」
「ヤスケ先生のご様子は?」
「体はまだ痛むとおっしゃっていましたが……お話はふつうにされていましたし、お元気そうでした」
ヤスケの最後の言葉がまだ心にひっかかっていた。元気だったと、そう思い込みたい気持ちがあることに、彼女は気付いている。
「ねー、みんなが言うヤスケせんせーって何者なんすか?」
さんざん乱された赤い髪を手櫛で梳かしながらマミヤが怪訝な顔をする。
「やぁねえ、銀湾会の創始者よ。つまりいちばん偉い人。知らないで働いてたの?」
コハラが壁に掛かっている額縁を指差す。
「その写真の中央にいる方がそうよ」
回転椅子に座ったまま壁まで移動するマミヤにチカルが視線を流す。
写真には絝を穿いた20人ほどの男女が映っていた。門下生が後ろの列、師範代が前の列といった並びできれいに収まっている。
「このおじいちゃん?」
マミヤの指の先にいるヤスケは、厳めしい顔つきでこちらを見つめていた。後ろに撫でつけた髪は、今ではすっかり真っ白だが、このときはまだ黒い部分が多い。
彼の問いにチカルは頷いて、
「その右側がナルカミ先輩。左側が仙寿道場のトキワさん……このふたりが先生の一番弟子。ずっと傍で支えてきたの」
「へー……」
彼はめずらしく真剣な面持ちでひとりひとりの顔を視線でなぞっている。それを横目に見ているチカルはどこか落ち着かない様子だ。
「あ!チカルちゃんがいる!」
「見つかったか……」
きまりが悪そうな顔でつぶやいた。これが撮影されたのは、もう20年近く前だ。彼女はまだ大学生だった。
「ぜんぜん変わんなくない?」
写真と実物を見比べて無邪気に言う。チカルは首を横に振って苦く笑った。
「こうやってみんなで並んでるの見るとチカルちゃんの貫禄すげー。隣の男より小さいのに」
「なんてったってチカルさんは銀湾会屈指のエースだからな。格が違うよ」
遠くからナルカミの声が飛んでくる。それに反応して視線を向けると、ナルカミは上半身裸になってバックパックから道衣を引っ張り出している。マミヤは汚いものでも目にしたかのような顔になりながら言った。
「着替えるなら更衣室行けっつってんのに……男のハダカなんて見たくねえんすけどー!」
「使いたくても使えないんだよ。誰かさんのせいでな!」
「荷物なら片付けましたけどー?!」
「あれでやったつもりなら片付けの意味を勉強して出直してこい」
「うるせージジイ!」
「ジ……、――おまえ!言い返せなくなるとすぐジジイ呼ばわりするのやめろよな!」
「はいはい終わり終わり!生徒さんが来ましたよ!」
コハラが手を叩き場を収める。このいつもの光景にチカルはすこし元気を取り戻し、口元にかすかな笑みを浮かべた。
事務所に入ったとたんマミヤにつかまり、同棲中の彼女に対する愚痴を聞かされた。ケンカしたのだという。自分も同じく同棲相手と諍いがあったのだと話せれば少しは気持ちが楽になったかもしれないが、できなかった。
「ケンカするほど仲がいいって言うけどね」
パソコンから目だけをあげて、溜息まじりに言ったコハラが笑う。
昔はシュンヤとケンカをするたびに、仲が深まったと感じたものだが――今は違うように思う。ケンカになるたび、互いのあいだの亀裂が深まっていくようだ。
冴えない表情で紅茶を飲んでいる彼女の横で、マミヤもまた不満そうである。座っている回転椅子の背もたれをギコギコ鳴らしながら唇を曲げた。
「さいきん言い争ってばっかだけど……仲がいいとは思えねえなあ。ほんとに相性が良かったらケンカなんかしなくね?」
「何度ぶつかっても関係が修復されるなら波長は合ってるのよ」コハラはキーボードで文字を打ち込みながら続ける。「ケンカって相手への強い関心のあらわれでもあるからね。なんでも言い合える仲の方が長続きするし、今のうちに気持ちをさらけ出してお互いのことを理解しておいた方がいいんじゃない?彼女、結婚したいと思ってるんでしょ?」
「結婚かあ」間延びした声で独り言ちて、「俺はするつもりないんすよねー……メリットなくないすか?」
「メリットなんて考えたこともなかったわ。好きな人と同じ苗字になれるのが嬉しいって気持ちしかなかったから」
「子どももつくる気ねえし、カネもねえし……同棲の方が気楽でいいんだよな。結婚って、紙っぺら一枚で世間にヘンな責任押し付けられるだけっつうイメージがあってさ」
その言葉に対し、なんと返すべきか迷っているのか――腕組みをしたコハラが唸っていると、
「お疲れー」
くたびれた顔で、ナルカミが事務所に入ってくる。使い古したバックパックをデスクに下ろすと、寝ぐせだらけの髪を撫でつけて溜息をついた。
「元気ないじゃない。どうしたの」
コハラが尋ねる。
「また変な連中に絡まれてさ……」
ジャケットを脱ぐと――胸倉を掴まれでもしたのか、シャツの襟がよれている。
「ナルカミせんせーってそういうオーラ出してるもんね」
「マミヤ……」
じとりと睨んだが、マミヤはそっぽを向いて椅子を揺らしながら続ける。
「どーせボッコボコに返り討ちにして警察につきだしてきたんでしょ?」
「ボコボコじゃないぞ。ぽこぽこくらいだ」
「へー。ほんとに正当防衛なのか、警察に疑われませんでした?」
「も……もちろん。疑われるはずないだろ」
「奥歯が折れるほど人を殴ったら過剰防衛でタイホされるかもしんねーから気を付けた方がいっすよ」
爪の周りのささくれをいじりつつ言う。ナルカミはそんな彼を横目で見て深い溜息をついた。
「どうしておまえはそう可愛げがないんだ……」
「かわいいと思われて俺が喜ぶと思います?」
喉の奥で笑ってナルカミを見上げる。挑戦的なまなざしを受けた彼は黙っていたが、やがて口角をあげた。
「前言撤回。やっぱりかわいいよおまえは」
虚を衝かれたような顔をしたマミヤの頭を搔き抱いて、髪をぐしゃぐしゃと混ぜる。
「かわいいかわいい……」
「おい!やめっ……やめろ!」
腕に爪を立ててもがくが、がっちり頭をホールドされて動けない。
彼らのやりとりを眺めていた女ふたりは、顔を見合わせてあきれたように眉を上げる。
「先輩、これ」チカルはマミヤに助け船を出すつもりでナルカミに近づくと、「シュンヤのご両親が、お心遣いをいただいたお礼にと」
そう言って紙袋を差し出した。彼はようやくマミヤを腕の中から解放し、
「ありがとう」すこし驚いたような顔のまま、それを受け取る。「チカルさんは帰郷したんだな」
「知らせを受けてからすぐに向かって、昨日戻りました」
「ヤスケ先生のご様子は?」
「体はまだ痛むとおっしゃっていましたが……お話はふつうにされていましたし、お元気そうでした」
ヤスケの最後の言葉がまだ心にひっかかっていた。元気だったと、そう思い込みたい気持ちがあることに、彼女は気付いている。
「ねー、みんなが言うヤスケせんせーって何者なんすか?」
さんざん乱された赤い髪を手櫛で梳かしながらマミヤが怪訝な顔をする。
「やぁねえ、銀湾会の創始者よ。つまりいちばん偉い人。知らないで働いてたの?」
コハラが壁に掛かっている額縁を指差す。
「その写真の中央にいる方がそうよ」
回転椅子に座ったまま壁まで移動するマミヤにチカルが視線を流す。
写真には絝を穿いた20人ほどの男女が映っていた。門下生が後ろの列、師範代が前の列といった並びできれいに収まっている。
「このおじいちゃん?」
マミヤの指の先にいるヤスケは、厳めしい顔つきでこちらを見つめていた。後ろに撫でつけた髪は、今ではすっかり真っ白だが、このときはまだ黒い部分が多い。
彼の問いにチカルは頷いて、
「その右側がナルカミ先輩。左側が仙寿道場のトキワさん……このふたりが先生の一番弟子。ずっと傍で支えてきたの」
「へー……」
彼はめずらしく真剣な面持ちでひとりひとりの顔を視線でなぞっている。それを横目に見ているチカルはどこか落ち着かない様子だ。
「あ!チカルちゃんがいる!」
「見つかったか……」
きまりが悪そうな顔でつぶやいた。これが撮影されたのは、もう20年近く前だ。彼女はまだ大学生だった。
「ぜんぜん変わんなくない?」
写真と実物を見比べて無邪気に言う。チカルは首を横に振って苦く笑った。
「こうやってみんなで並んでるの見るとチカルちゃんの貫禄すげー。隣の男より小さいのに」
「なんてったってチカルさんは銀湾会屈指のエースだからな。格が違うよ」
遠くからナルカミの声が飛んでくる。それに反応して視線を向けると、ナルカミは上半身裸になってバックパックから道衣を引っ張り出している。マミヤは汚いものでも目にしたかのような顔になりながら言った。
「着替えるなら更衣室行けっつってんのに……男のハダカなんて見たくねえんすけどー!」
「使いたくても使えないんだよ。誰かさんのせいでな!」
「荷物なら片付けましたけどー?!」
「あれでやったつもりなら片付けの意味を勉強して出直してこい」
「うるせージジイ!」
「ジ……、――おまえ!言い返せなくなるとすぐジジイ呼ばわりするのやめろよな!」
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