よあけ

紙仲てとら

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本編

第136話

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 片付けを済ませると、チカルはシュンヤの部屋へ行きドアをノックした。しかし返事はない。
 廊下の先にある客間を通って縁側に出る。障子を閉め、彼女は古い柱に凭れかかった。柱にはいくつもの細かい傷がついていたが、なかでも特に深い傷に目を留め指でなぞる。これは昔、シュンヤが父親の部屋からこっそり持ち出したハンティングナイフでつけたものだ。切れ味を疑うチカルの前で、シュンヤは刃をすべらせた。そのとき彼は13歳、悪いことがしたい年頃だった。
 ゆっくりと視線を庭に流す。低木は冷たい綿帽子をかぶり、その横で堂々とそびえる松の木は茫洋とした闇の中に溶け込んでいる。昔から変わらない、馴染みのある風景を眺める彼女の心には、幼少期の感傷がよみがえっていた。
 沓脱石のうえのサンダルを借りて地面に降りると、チカルは庭の奥に歩いていった。突き当りの塀には小さな木戸があり、そこをくぐり抜けると見事な竹林が広がっている。
 白い砂利が引かれた道を行くと鯉の棲む池が現れ、その向かいには豊かな緑に囲まれた茶室がある。それを横目に見ながら更に進んだ先、竹林に埋もれるようにして茅葺屋根の離れ家が建っていた。姑と犬猿の仲だったミチのためにヤスケが造らせたもので、ここで新婚生活を始め、シュンヤの父であるタケルと、そのあと続けて生まれた次男三男を育てたという。両親が逝去しヤスケが当主になったことを機に母屋に移ってからは、親戚が大勢集まるときや、村の宴会などに使用されるだけで普段は誰も住んでいない。
「やっぱりここにいた」
 格子戸のついた門をくぐって縁側にまわったチカルはつぶやいた。濡れ縁に座ったシュンヤは彼女が来たことに気付いていたが、仏頂面で膝に頬杖をついたまま、まっすぐ前を見据えている。
 チカルは玉砂利の敷かれた庭に入り、彼の隣に座って視線の先を追った。誰も生活していないとは思えないほど美しく手入れされた庭園には、雪見灯篭や小さな橋のかかった池があり、苔生した大小の鳥海石に覆いかぶさるようにイロハモミジが悠々と枝を伸ばしている。
 シュンヤは昔から、親とトラブルを起こしがちだった。母屋に姿が見えないといつもここに探しに来たものだ。決まって彼は今のように濡れ縁に腰掛けていた。
 黙ったまま耳を澄ますと、水琴窟の懐かしい音がする。このやさしい音色は、ふたりだけが知る古い記憶を呼び起こす。細い足を抱え背中を丸めて泣いている彼に寄り添った日々はすでに遠い過去だと知りながらも――40手前になった男の高慢な横顔にそっと視線をやった彼女は、繊細な少年の面影を探そうとした。
 あの頃のシュンヤの悲壮感。当時の彼女の目に映っていた彼は、欲しいものはすべて与えられ、なに不自由ない生活を送っているように見えた。しかしこうして大人になり思い起こせば、真新しいきれいな服を着て、最新のゲーム機も流行りの玩具もいち早く手に入れていたのに、まったく幸せそうではなかった。
「そんな格好で寒くねえの?」
 シュンヤがようやくチカルに顔を向け、洟をすすりながら問う。彼女は素直に答えた。
「寒いわ」
「ったく……」
 彼は上着を脱ぐと、肩にかけてやる。
「ありがとう」
「確か前にもこんなことあったな」
 二の腕をさすりながら、彼は白い溜息のなかで言う。
「17のとき」答えたチカルは、ジャケットの前を掻き合わせながら続ける。「あの日も、お父さんとケンカしてここで拗ねていたのよ」
「拗ねてなんかなかったよ」
 再び膝の上に頬杖をつき、庭園を睨む。
「――親父は?」
「ついさっき寝室に入られたわ」
「母ちゃんも?」
「お風呂。そろそろあがる頃だと思うけれど」
 どうしても顔を合わせたくないのだろう。チカルは眉を下げて、
「ふたりが眠るまでここにいるつもり?」
「おまえは先に戻れよ。風呂入って寝な」
「まだ眠くないもの」
「俺とここにいるつもりなら、なんでそんな薄着で来るんだよ」
「わからない?」
 ふふと笑って言うと、シュンヤは苦い顔になる。
「俺はもう17のガキじゃない。寒さに負けて戻るわけねえだろ」
「震えているじゃないの」
「うるせえ」
 歯を食いしばって毒づく。
 口が悪くて、優しい、私の憧れ。初恋のひと。ここでこうしていると、自分の知っている“シュンヤ”が戻ってきたような気がする。
 だが、もはやそこに喜びの感情はない。チカルは表情をなくしたまま、シュンヤとの過去が次々と脳裏をかすめては煙のように消えていくのを見ていた。
 これまでのことはすべて、自分が考えた都合のいいまぼろしだったのかもしれないと、彼女は思う。
 酷い仕打ちを受けて生まれた負の感情は、甘い思い出で相殺してきた。味のしなくなったガムをいつまでも噛み続けるようなものだと知りながら、彼と過ごした幸せな記憶にすがった。青い春に抱いたせつない恋心や初めてのデートで感じたときめき、田舎から連れ出してくれたときの彼の頼もしい背中が忘れられなくて、忘れたくなくて――
(ああ……私たちは、もう……)
 チカルは胸中で嘆きの声をあげる。
 絶望感に苦しくなりながら額を空に向ければ、いまにも降ってきそうな満点の星。細かい光が散りばめられたタビトの穏やかな双眸を思い出す。彼の瞳はこの星空を嵌め込んだかのように美しい。
「ちょっと前に昇進の話が出てるって話したじゃん。4月から次長を任せてもらえるかもっていう」
 突然のシュンヤの声に我に返り、慌てて相槌を打つ。
「あれから考えてくれた?おまえの仕事のこと」 
「……辞めるつもりはないわ。このまま続けたいの」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
 憤るというよりもあきれたように、彼は言う。
「はっきり言うけど……チカルには、もう働かないでほしい。俺の稼ぎで十分暮らしていけるじゃん。子どもだっていつできてもおかしくないし、無理させたくないんだ」
「子どもは……望んでいないわ」
「やることやっといて……」
「私の意思なんておかまいなしの人に、そんな言い方されたくない」
「一方的に犯したつもりはねえけどな」彼は口角を上げ嘲笑う。「あんなに甘ったるい声で喘いどいて被害者面してんなよ。いつまでも食らいついて離さねえのはおまえの方だろ」
「やめて」
 彼女は震える声を絞り、顔を背ける。全身から血の気が引いていく。
「やっぱ変だよおまえ。いや……変っていうか、変わったな」
「変わったのはシュンヤの方じゃないの」
「そうやって変わった変わったって言うけどさ。俺は昔からこんな感じだぜ」
「昔のあなたなら、あんなに乱暴なことはしなかった……」
「おまえが抵抗するからだろうが」
 絶句するチカルに、憎悪の宿ったまなざしが注がれる。
「若い男の担当になったとたんに色気づきやがって。どうせそいつ相手に腰振ってんだろ」
「なにを言って――」
「だから俺とのセックスを拒否するようになったんじゃねえのか?あ?ガキを誘惑すんのは楽しいかよ、チカル……」
「ふざけないで。あの子をそんな目で見るわけないじゃない」
 鋭い声で答えたチカルの真剣な目がみるみるうちに赤く滲む。それを目の当たりにしたシュンヤは庭に視線を移し、薄闇を睨むように見つめながら言った。
「――悪い。言い過ぎた」
 チカルは白い息と共に顔を仰向かせ、苦悶の表情のまま静かにまぶたを閉じる。それからしばらくのあいだ、ふたりは冷たい庭のなかで黙り込んでいた。
「あのパーカーのことがずっと引っ掛かってんだよ」
 シュンヤはぼそりと言って、チカルの太腿に頭を乗せて寝転がる。彼女は特に拒むこともなく、なおも固く唇を結んだままシュンヤを見下ろした。
「俺は、嘘は嫌いだ」
「だから……あれは雨で服が濡れたから借りただけだって言っているじゃないの。嘘じゃないわ」
「騙されるかよ。ずっと傍でおまえを見てきたんだぜ」
 注がれるまなざしを受けながら甘えるようにつぶやいて、下唇を噛んだまま答えないチカルに更に言う。
「おまえは俺だけのもんだろ?」
 嫌悪感が背筋を這っていくのが感じられた。ここで拒絶したら、誰の所有物かをわからせるために、この寒空の下で組み敷くつもりだろうか。
 ――そうしたいなら好きにするがいい。そのときは……
 チカルは氷のような目つきのまま胸の奥でつぶやき、舌先で歯列をなぞる。そしてゆっくりと唇をほどいた。
「私はモノじゃない。今までも、これから先も、誰のものにもならないわ」
 チカルの言葉に、シュンヤは息だけで短く笑った。
「おまえはそういう女だよな……」
 それだけ言うと、黙り込む。彼の頭の重みを太腿に感じながら、チカルは震える息をそろそろと吐いた。
 そんな彼女を薄く開いた目で見つめていた彼は、おもむろに手を伸ばす。無骨な指が冷えた耳殻に触れ、傷を覆っているテープの上をゆっくりとなぞった。
「痛む?」
「……平気」
 答えたチカルの腰に腕をまわし、腹に顔を埋める。
「チカルのこと、」
 かすれた声がスウェットシャツ越しに聞こえた。
「ずっと変わらず愛してる。おまえを失いたくない」
 いまや、彼の口から出る愛という言葉は意味を伴わないものとして耳に響くだけだ。それはなんの余韻も残すことなく、胸にとどまらずに消えていく。
「シュンヤ……、私――」
 そのとき上着のポケットの中で彼のスマホが鳴動し、声を遮られたチカルは口をつぐんだ。寝ころんだまま、シュンヤはスマホを探り出し液晶画面をタップする。
「はい。……いつもお世話になっております」
 上体を起こし、軒下に足を下ろした彼はチカルの腕を引っ張って立ち上がらせた。ジェスチャーで、帰れというように門の方を指差す。それでも行こうとしないチカルの肩を掴んで方向を変えさせると、やさしい力で背中を押した。
 話は終わっていない、そう言いたかった。しかしシュンヤは背を向けてなにやらぼそぼそと会話を続けている。すこし歩いてから彼に振り返り再び視線を送ったが、やがてかなしみに染まる顔を俯かせ、その場を去った。
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