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本編
第133話
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面会者専用の出入口から病院の外に出たチカルは、吹きすさぶ風のなか呆然としたまま立ち竦んだ。首筋に滲んだ冷たい汗に白いハンカチを当てると、扉の横に設置されている休憩用の椅子にふらふらと近づき、座り込む。
ヤスケの言葉が頭のなかでこだましている。
再会の約束など、今まで一度も交わしたことはない。彼らしからぬ発言だった。煙のごとく音もなしに湧き上がってきた不吉なものが、彼女の顔に陰を落とす。
あんなことを言い出すなんて、きっと気持ちが弱っているのだ。いっそのこと笑い飛ばしてしまえばよかったのに、言葉が喉の奥に引っ掛かって、どうしても出てこなかったのだった。
等間隔に並んだ椅子には入院中と思しきパジャマ姿の人々が点々と座り、広大な庭を眺めながら面会者と談笑している。ひとりでいるのは自分だけだ。芝と芝のあいだに伸びた道の向こうから、杖をついている老人と若い女性が歩いてくる。それを遠く見つめて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
重い足を引きずるようにして駐車場方面に歩き出す。無性に心細く、かなしくてたまらない気持ちだった。
病院の正面玄関の前はロータリーになっており、バスやタクシーを待つ人のためのちいさな待合室がある。道路を挟んだ向こう側の第二駐車場では、古いセダンがうら寂しい景色のなかでじっとチカルを待っていた。
暗い思いを抱いたまま道を渡ろうとしたとき、待合室のベンチに人影を見る。ふと視線を向ければ、見慣れた男が座っていた。――シュンヤだ。
「母ちゃんに買い物頼まれてさ」
ベンチに歩み寄ったチカルに気付いた彼は立ち上がるなり、言い訳がましく口にする。
「ついでに面会していこうと思ったら、もう午前中は終了だとさ」
「私を待っていたの?」
「おんぼろセダンがまだあったから」視線で駐車場の方を示し、「行き帰りバスってのもダルいからよ」
「そう」
チカルは短く答えて、細く切れ上がった瞳でシュンヤを見上げる。シャワーを浴びてきたのか、髪は整えられ無精髭もきれいに剃られている。二日酔いが残っていると見え、顔色はすぐれないが、朝よりは表情が明るい。
「買い物は……まだしていないのね」
なにも持っていない彼の両手を見て、チカルはそっと溜息をつく。
ふたりは連れ立って待合室を離れ、車に乗り込んだ。根強く残る彼への嫌悪感が棘のように心を刺す。
「本調子じゃないんでしょう?車を停めて欲しければ言って」
「もう平気。でなきゃバスなんかで来ねえよ」
喉の奥で笑って、エアコンのダイヤルを回す。吹き出し口から埃っぽい臭いが出て、狭い車内をあっという間に満たした。
「それ、壊れているのよ」
「ほんとだ」
手のひらで冷えた風を受けたシュンヤが、その凛々しい眉をひそめる。
「仕方ねえ。ディーラー寄ってくか」
「いきなりじゃご迷惑よ。上着を着ていれば寒くないわ。さ、まずはどこに向かえばいいの」
彼は納得のいかない様子だったが、
「デパ地下の和菓子店。あとドラッグストアに寄ってくれ。ばあちゃんのオムツも買っていかねえと」
そう言ってシートベルトを引っ張り出すと、おとなしくシートに収まった。
駅前にある百貨店で和菓子の詰め合わせを購入しトランクと後部座席に詰めて、帰り道の途中で見つけたドラッグストアに寄る。
「見舞いに行ったとき他に誰かいた?」
棚に並ぶ洗顔フォームをあれこれ見比べながらシュンヤが尋ねる。オムツだけかと思いきや、手にした買い物カゴに歯磨き粉やハブラシ、化粧水などを次々と放り込んでいる。長い買い物になりそうだ。
「誰にも会わなかったわ」
「狭い村だから、救急車騒ぎがあったことをみんな知ってるみたいでさ。ヤスケ爺さんが入院した!って大変な騒ぎになってるらしいんだ。見舞い金もすげーたくさんもらっちゃったし。ただのぎっくり腰なのによ……」
チカルは先ほど購入した和菓子の箱の数を思い出し、シュンヤの家族の苦労を思う。あの量のお返しを村中に配るのは骨が折れるだろう。
「さっき買ったお返し、チカルんちの分も数に入ってるから……帰ったらマリさんに渡してくれ」
「わかった」
「ったく……じいちゃんのせいでめんどくせえことになっちまった……」
溜息まじりに言ったシュンヤは洗顔フォームをカゴに入れ、彼女の方に首を回らせた。
「ところで、晩飯ってどうするか決めてんの」
「決めていないけれど……」
「なら、うちで一緒に食おうぜ。親父も母ちゃんもチカルを連れて来いってうるせえんだ」
彼は一方的にそう言うと、店内奥へと大股で歩いて行ってしまう。チカルの返事を聞く気はないようだった――いや、断ることを許さないといった態度である。
どうせ、車と着物を母に返さなければならない。仕事道具の入ったトートバッグも、着てきた服も、実家に置きっぱなしだ。タビトには今日中に東京に帰るつもりでいるという話をしていたが、無理かもしれない。そう考えたとき、自分でも驚くほど気持ちが落ち込んでしまった。
「今日は泊まってくだろ」
後を追ってきたチカルに振り向いて言う。
「お夕飯をごちそうになったら、失礼させていただくわ」
「泊まってけ」
「だって隣よ?お世話になる必要ないじゃない」
「いいから。うちの親もおまえといろいろ話したいみてえだし。な?」
彼の両親のことを嫌っているわけではない。むしろ肉親よりも親しみやすく、話していて楽しい人たちだ。
「――あなたのご両親がそう言ってくださっているなら……」
「俺よりもおまえのことを熱烈歓迎してるよ。泊まるのに必要なもの買ってこいって言われてんだ。ほら、カゴの中身確認しろ」
よく見れば、歯磨き粉も歯ブラシもいつもチカルが使っているものだ。化粧水と乳液も現在使用しているものが入っている。つい最近変えたことを知っているらしい。こちらのことになど興味がないような顔をして、よく見てくれている。これは昔から変わらない。髪を数センチ切っただけのときも、爪に薄い色のネイルを塗ったときも、彼は必ず気付いてくれた。
女性のどんな些細な変化も見逃さない――これだからシュンヤはモテるのだ。自分も例外ではなく、胸の奥を甘く疼かせてしまう。よみがえるときめきと、拭いきれない失望感とが混ざった複雑な思いを抱きながら、チカルは頷いた。
「これで大丈夫。他に買うものは?」
「ないけど」
短く答えたシュンヤの手からカゴを奪って会計に向かった。大人用のオムツを両手に下げた彼は本日何度目かの溜息をつき、チカルの後に続く。
ヤスケの言葉が頭のなかでこだましている。
再会の約束など、今まで一度も交わしたことはない。彼らしからぬ発言だった。煙のごとく音もなしに湧き上がってきた不吉なものが、彼女の顔に陰を落とす。
あんなことを言い出すなんて、きっと気持ちが弱っているのだ。いっそのこと笑い飛ばしてしまえばよかったのに、言葉が喉の奥に引っ掛かって、どうしても出てこなかったのだった。
等間隔に並んだ椅子には入院中と思しきパジャマ姿の人々が点々と座り、広大な庭を眺めながら面会者と談笑している。ひとりでいるのは自分だけだ。芝と芝のあいだに伸びた道の向こうから、杖をついている老人と若い女性が歩いてくる。それを遠く見つめて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
重い足を引きずるようにして駐車場方面に歩き出す。無性に心細く、かなしくてたまらない気持ちだった。
病院の正面玄関の前はロータリーになっており、バスやタクシーを待つ人のためのちいさな待合室がある。道路を挟んだ向こう側の第二駐車場では、古いセダンがうら寂しい景色のなかでじっとチカルを待っていた。
暗い思いを抱いたまま道を渡ろうとしたとき、待合室のベンチに人影を見る。ふと視線を向ければ、見慣れた男が座っていた。――シュンヤだ。
「母ちゃんに買い物頼まれてさ」
ベンチに歩み寄ったチカルに気付いた彼は立ち上がるなり、言い訳がましく口にする。
「ついでに面会していこうと思ったら、もう午前中は終了だとさ」
「私を待っていたの?」
「おんぼろセダンがまだあったから」視線で駐車場の方を示し、「行き帰りバスってのもダルいからよ」
「そう」
チカルは短く答えて、細く切れ上がった瞳でシュンヤを見上げる。シャワーを浴びてきたのか、髪は整えられ無精髭もきれいに剃られている。二日酔いが残っていると見え、顔色はすぐれないが、朝よりは表情が明るい。
「買い物は……まだしていないのね」
なにも持っていない彼の両手を見て、チカルはそっと溜息をつく。
ふたりは連れ立って待合室を離れ、車に乗り込んだ。根強く残る彼への嫌悪感が棘のように心を刺す。
「本調子じゃないんでしょう?車を停めて欲しければ言って」
「もう平気。でなきゃバスなんかで来ねえよ」
喉の奥で笑って、エアコンのダイヤルを回す。吹き出し口から埃っぽい臭いが出て、狭い車内をあっという間に満たした。
「それ、壊れているのよ」
「ほんとだ」
手のひらで冷えた風を受けたシュンヤが、その凛々しい眉をひそめる。
「仕方ねえ。ディーラー寄ってくか」
「いきなりじゃご迷惑よ。上着を着ていれば寒くないわ。さ、まずはどこに向かえばいいの」
彼は納得のいかない様子だったが、
「デパ地下の和菓子店。あとドラッグストアに寄ってくれ。ばあちゃんのオムツも買っていかねえと」
そう言ってシートベルトを引っ張り出すと、おとなしくシートに収まった。
駅前にある百貨店で和菓子の詰め合わせを購入しトランクと後部座席に詰めて、帰り道の途中で見つけたドラッグストアに寄る。
「見舞いに行ったとき他に誰かいた?」
棚に並ぶ洗顔フォームをあれこれ見比べながらシュンヤが尋ねる。オムツだけかと思いきや、手にした買い物カゴに歯磨き粉やハブラシ、化粧水などを次々と放り込んでいる。長い買い物になりそうだ。
「誰にも会わなかったわ」
「狭い村だから、救急車騒ぎがあったことをみんな知ってるみたいでさ。ヤスケ爺さんが入院した!って大変な騒ぎになってるらしいんだ。見舞い金もすげーたくさんもらっちゃったし。ただのぎっくり腰なのによ……」
チカルは先ほど購入した和菓子の箱の数を思い出し、シュンヤの家族の苦労を思う。あの量のお返しを村中に配るのは骨が折れるだろう。
「さっき買ったお返し、チカルんちの分も数に入ってるから……帰ったらマリさんに渡してくれ」
「わかった」
「ったく……じいちゃんのせいでめんどくせえことになっちまった……」
溜息まじりに言ったシュンヤは洗顔フォームをカゴに入れ、彼女の方に首を回らせた。
「ところで、晩飯ってどうするか決めてんの」
「決めていないけれど……」
「なら、うちで一緒に食おうぜ。親父も母ちゃんもチカルを連れて来いってうるせえんだ」
彼は一方的にそう言うと、店内奥へと大股で歩いて行ってしまう。チカルの返事を聞く気はないようだった――いや、断ることを許さないといった態度である。
どうせ、車と着物を母に返さなければならない。仕事道具の入ったトートバッグも、着てきた服も、実家に置きっぱなしだ。タビトには今日中に東京に帰るつもりでいるという話をしていたが、無理かもしれない。そう考えたとき、自分でも驚くほど気持ちが落ち込んでしまった。
「今日は泊まってくだろ」
後を追ってきたチカルに振り向いて言う。
「お夕飯をごちそうになったら、失礼させていただくわ」
「泊まってけ」
「だって隣よ?お世話になる必要ないじゃない」
「いいから。うちの親もおまえといろいろ話したいみてえだし。な?」
彼の両親のことを嫌っているわけではない。むしろ肉親よりも親しみやすく、話していて楽しい人たちだ。
「――あなたのご両親がそう言ってくださっているなら……」
「俺よりもおまえのことを熱烈歓迎してるよ。泊まるのに必要なもの買ってこいって言われてんだ。ほら、カゴの中身確認しろ」
よく見れば、歯磨き粉も歯ブラシもいつもチカルが使っているものだ。化粧水と乳液も現在使用しているものが入っている。つい最近変えたことを知っているらしい。こちらのことになど興味がないような顔をして、よく見てくれている。これは昔から変わらない。髪を数センチ切っただけのときも、爪に薄い色のネイルを塗ったときも、彼は必ず気付いてくれた。
女性のどんな些細な変化も見逃さない――これだからシュンヤはモテるのだ。自分も例外ではなく、胸の奥を甘く疼かせてしまう。よみがえるときめきと、拭いきれない失望感とが混ざった複雑な思いを抱きながら、チカルは頷いた。
「これで大丈夫。他に買うものは?」
「ないけど」
短く答えたシュンヤの手からカゴを奪って会計に向かった。大人用のオムツを両手に下げた彼は本日何度目かの溜息をつき、チカルの後に続く。
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