よあけ

紙仲てとら

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本編

第119話

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「一緒に行かなくて本当に平気?」
 タビトは暗く沈んだまなざしを向けて問う。
 彼はチカルをひとりで病院に送り出すことを心配しているのではもちろんない。いつもと違ってどこか不安定な状態のチカルが気がかりだった。なにか薄暗いものを抱えているような気がしてならない。
 そんなタビトの心中を悟ったか、彼女は安心させようとするかのような優しいほほえみを浮かべた。その笑みと共に、やわらかく落ち着いた声で言う。
「大丈夫よ。もう子どもじゃないもの」
「大人でも不安なときあるでしょ?」
 そう細い声で言う彼の、硝子玉のようにきらめく瞳。チカルはしまい忘れた微笑を口角に留めたまま、タビトを見つめた。
「不安でも黙ってそれに耐えるのが大人よ」
 そう言って絡んだままだった小指をほどく。しかしすぐにタビトの手が追いかけてきて彼女の指先を取った。
「ひとりで抱え込まないで誰かに頼ることができる人が、ほんとの意味でのおとなじゃないの?」
 めまいを起こしそうなほどの激しい感情が胸に押し寄せ、チカルの目の前に細かい星が散る。
「チカルさん」タビトは掴んだ手に力を込め、「いつでも話を聞くから」
 それからすぐ、タビトはこっそりとタクシーを呼んだらしかった。
 ぼんやりした顔で洗濯機に洗濯物を入れていたところ、慌ただしいスリッパの音がしたので首を回らすと、洗面脱衣室の入口にタビトが駆けてきた。タクシーが車寄せで待っているという知らせを受けたチカルは面くらったが、待たせているとあればあれこれと言えず、身に着けたばかりのエプロンを解き慌てて部屋を出る。
「行先は指定してあるからね。俺の名前で手配したからそこだけ気を付けて」
 ドアが閉まる間際、彼はそう言った。
 エントランスを出ると、黒塗りのタクシーが一台停まっているのが見えた。運転手は人のよさそうな白髪の男性で、チカルの姿に気付くとすぐにドアを開ける。
「お名前をお願いします」
「あ……、――埜石です」
 どこか頼りない声で告げ、乗車する。
「行先はカルフ形成外科クリニックですね。駅前の分院じゃなくて本院の方の」
 確認を取った運転手はアクセルを踏んだ。チカルはシートに背中を預け、滑るように走り出したタクシーの窓から表を見遣る。鎮痛剤の効果が切れたらしく、腹も耳も酷く痛む。
 20分ほどでビルの立ち並ぶ大通りに面したクリニックに到着し、料金を支払おうとすると、アプリの確定運賃で事前支払いされているので必要ないという。普段ほとんどタクシーを使わないチカルにはうまく状況が把握できなかったが、礼を言って車を降りた。知らないことばかりだ。タビトの方が自分よりよほど大人に見える。
「これは痛かったでしょう……」
 傷を確認しながら、医師が静かな声で言う。
「かなり深いですね。自分で引っ掛けちゃったんですか?それともケンカかなにかで?」
 チカルはどきりとしたが、
「自分で引っ掛けました。タオルで髪を拭いているときに……」
 口早に答え、まぶたを伏せる。
「そうですか」血の付いたニトリル手袋を外し、「ケンカ相手にピアスを引っ張られて耳たぶが裂けたって駆け込んでくる方が、たまにいましてね」
 穏やかな目をした若い医師はほとんど独り言のように言いながらパソコンに向き直り、キーボードを打つ。
「襲ってきた相手を傷害罪で訴えるつもりでいる方には診断書を取得することをおすすめしているんです。それなりに費用はかかりますけど、重要な証拠として役に立ちますから」
 医師はチカルの反応を窺っているようだった。青褪めた顔で黙って聞いている彼女の方に体ごと向いて、柔和に微笑む。
「では、看護師から説明がありますので中待合室でおまちください」
 見透かされているのだろうか……さりげないアドバイスに、チカルはありがたくも気まずい気持ちになる。同時に、シュンヤのしたことはれっきとした犯罪行為であるのだという認識が色濃くなった。
 彼へのこれまでの信頼や想いが打ち砕かれ、粉々になるのを感じる。ずっと愛してきたのは野蛮な獣だったのだと、蛇の舌のように割れた耳朶がささやいている。
 看護師から丁寧な説明を受け、その後すぐに行われた縫合手術は30分もかからず終わった。
「これできれいに治りますよ」
 医師が、いたわり励ますように優しく声をかける。
「ありがとうございます」
「抜糸は一週間後になりますので、またお越しくださいね。お大事になさってください」
 待合室で会計を待っているあいだ、医師の言葉を思い出す。完全に裂けてしまった耳朶は自然に元通りにはならないこと。傷口から細菌感染を起こす場合もあること――タビトがそこまで知っていたかはわからないが、病院に行くことを根気強く勧めてくれたことをありがたく思った。
 会計を済ませ、隣接している薬局で痛み止めを受け取る。財布と領収書をトートバッグに押し込みながら階段を降り、からりと澄んだ夕暮れの下に出た。ゆっくりと駅に向かって歩き出したが立ち止まり、道の脇に避けてスマホを取り出す。
 タビトの電話番号を検索し、傷がない側の耳に当てる。数度のコールのあと、心地よい声が耳に流れ込んできた。
「チカルさん!もう終わったの?大丈夫?」
 彼の声に、不思議な安心感を覚えている自分がいる。チカルは凪いだ湖を眺めているような、穏やかな気持ちで答えた。
「おかげさまで無事に終わりました」
「縫ったんでしょ?痛みはない?」
 彼はひどく心配した様子であれこれ聞いてきたが、短く言葉を返す。
「仕事の途中ですので今から戻ります。詳しい話はそのときに」
 その言葉に電話の向こうのタビトは驚いたように声をあげ、それから、ふふと笑う。
「もう……すぐそうやって無理するんだから。仕事はいいよ、今日は帰ってゆっくり休んでください」
 沈黙がふたりのあいだに流れた。
 ここに来るまではタビトの方が冷静さを欠いていると思っていたが、いちばん冷静じゃないのは自分だ。その事実に、チカルはようやく気付いた。
 無惨に割れた皮膚と肉を縫いつけられるまえ、蛇の舌が耳元でささやくのを聞いた。愛した男は野蛮な獣であると。このまま獣の棲む家に帰らなければならないと考えただけで冷たい汗が全身に滲み、震えが止まらなくなる。ひび割れた心は今にも壊れそうだ。
 助けて。
 なぜこんなことになった?なぜ?わからない。
「もしもし……チカルさん?」
「――どうしても行ってはいけませんか?」
 ようやく聴き取れるくらいの、か細い声だった。
 尋常でないチカルの様子を感じ取ったタビトは、急に胸に流れ込んできた不穏な空気に笑みを消され、真面目な顔つきになる。
「待ってるよ」
 短くもしっかりとした声で答えた。
 通話を切ったあとも、いつもの彼女らしからぬ弱々しい声がいつまでも耳底に響き、タビトの双眸は冷たい哀しみに覆われる。
 チカルは、なにかを隠している。彼はそう確信していた。
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