よあけ

紙仲てとら

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本編

第116話

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「おまえ、若い男の担当になってからなんか変だよな」
 シュンヤは耳に当てられている手を力任せに剥がすと、耳朶を貫くピアスを舐めるように見つめた。
「俺が買ってやった服を着るようになったのも、メイクするようになったのも――もしかしてそいつの影響?いままで俺がどんなに言っても聞く耳を持たなかったのに、そいつのためにさっき言ってた“努力”を始めたってのか?」
 青褪めたチカルは何度も首を横に振る。
「男物のパーカー着て帰ってきたときくらいから、なんか様子がおかしいとは思ってた。……気のせいじゃなかったみたいだな。どうせこのピアスも、その男の好みなんだろ?」
 おもむろにピアスを指先でつまむと、耳ごとむしり取ろうとするかのような強い力で引っ張る。
「っ、……」
「――俺、痛みに耐えてるおまえの顔が好きでさ……」
 目を細めた彼は指にますます力を入れる。
「昔、ナルカミ先輩に腕ひしぎとかキツい技かけられてるおまえを見てたときも今みたいに妙な気持ちになったよ……」
 真横に引っ張られ、みぢみぢと無惨にも裂け始めたピアスホールから鮮やかな血が滲み出る。それは瞬く間に溢れて耳朶を濡らした。
 チカルは半狂乱になって彼の胸元を拳で叩く。その手首を片手で掴んで座面に縫いつけるように押さえ込むと、彼はやけに穏やかな声で言った。
「なんだ……痛いのは嫌いか?だったら抵抗すんな……いつもみたいに大人しくしてろ」
「いやよ……、もういや、放して、お願い」
 懇願しながら身を捩ると、シュンヤは美しく並んだ白い歯をのぞかせて笑う。
「抵抗すんなって言ってんじゃん……」
 容赦ない力が皮膚と肉を更に引き裂き、チカルの体が痛みに跳ねる。抗う気力が一気に殺がれ、絶望の冷たい吐息が唇からこぼれた。
「や、やめて……」
 震えながら呻くと、彼は薄ら笑いを絶やさないまま耳元でささやく。
「もっと痛めつけないと俺の言うことが聞けねえの?」
「……やめ、っ……」
「ほら、千切れるぞ」
 恐怖にわななく唇を噛んで、チカルはかすかに首を横に振る。
「聞く、……おとなしくする、から」
 すると彼はようやく力を緩め、痛みから耳を解放する。彼女は食いしばった歯の隙間からそろそろと息を吐き、眉間の力を抜いた。
 肌を這うぬるい手が不愉快でたまらない――こんなことを思ったのは初めてだ。
 今日の彼はいつにも増して荒っぽく、性急だった。中心部分を残酷に貫かれ、串刺しにされたまま揺れていると吐き気が込み上げてくる。ぐっと息を吞んで堪えようとしたが我慢できず、舌の付け根に勢いよくせりあがってきた苦味を吐き出した。
 喉が焼けるように痛い。チカルは体を波打たせ、何度もえずいた。背中から覆いかぶさっていたシュンヤは、苦しそうに咳き込んでいる姿を見つめながら薄っすらと笑みを浮かべ、より激しくせめ立てる。
 四つん這いの状態で苦痛に呻きながら――左耳の傷から流れた血が頬を這って鼻先から落ちるのを見つめていたが、ついに彼女はソファの座面に頭を落とし、ぶちまけられた嘔吐物のなかに髪を浸した。眼鏡がずれたせいで目に映るものすべてが滲み、薄くやわらかい靄のなかに浸かっている気分になって、彼女はわずかに口角を上げる。
 水彩画のようなやさしい色合いの空間。こんなに美しい光景が現実なはずがない。きっと夢なのだ。
 ああ、よかった。
 安堵と共にすべての感覚が曖昧になり時間の概念が溶けてなくなる。うつ伏せにされたかと思えば仰向けにされ、忙しなくぐるぐると回る視界。彼のワイシャツから立ちのぼる煙草のかおり。呼吸に合わせて明滅を繰り返す円形のシーリングライト。引き裂かれるような痛みと、肌を伝い落ちていく生温い鮮血。獣の雄叫びをあげながら体のうえを這いまわる、影、影、影。
「うるさいな……」
 自分の声と気付いて、びくりと震えた。
 静かだ。
 異臭のなかで重いまぶたを上げると、リビングは真っ暗で、体はまだソファの上にあった。コートもセーターも着たままで、下半身だけなにも履いていない。おぼつかない指で太腿を触ると氷のように冷たくなっていた。
 眼鏡も外れてしまっている。すこし頭をもたげると、テンプル部分が乱れた髪に絡んでいるのがわかった。手探りで掴んで髪から引き抜き耳にかけると、ゆっくり首を回らせる。シュンヤの姿はどこにもない。
 乾いた嘔吐物でごわごわになった髪をかきあげて、上体を起こしぼんやりと夕闇の空を見つめた。
 どこへ行ったんだろう?私をおいて?
 まるで親を探す子どものような気持ちで――ソファから白い足を下ろしふらふらと立ち上がった。そのとたん、股のあいだを水がツッと伝う感触があり、視線を落としてみれば、派手に出血している。そういえば一昨日あたりから月のものが来そうな兆候があった。彼女は床に落ちている下着を掴み、重い体を引きずってトイレに向かう。
 用を足し、股に生理用ナプキンを当てリビングに戻ると、重曹水やタオルなどの掃除用具を出してきてソファの汚物を処理した。昼食を摂らずにいたため内容物はほとんどなかったが、染みは取れない。経血などなおのことだ。
 灯りの消えた部屋に自分自身の黒い影だけが動いている。暗澹たる静寂のなか、なんとも惨めな気分だったが涙も出なかった。
 アイボリーのファブリックソファに広がる赤黒い血液、饐えた臭いを放つ嘔吐物。いちど染みついたものはなかなか落ちない。これだけ汚れてしまってはもうだめなのかもしれない。長く付き合ってきたこれともいよいよお別れ――手放すと言えばシュンヤは諸手を挙げて喜ぶだろう。愛着を持っていたのは自分だけで、彼はなににおいても新品を好むのだから。
 生気をなくした横顔は、ルーフバルコニーからの薄明りに照らされている。彼女は一心不乱に汚れを落としながら、頭のなかで何度もウル・ラドの曲のフレーズをなぞっていた。

 この うとましく 退屈な夜に
 月が昇る 月が昇る……

 やがて手を止めたチカルは、暗がりの中で汚れの跡を見つめた。もう二度と以前の美しさを取り戻すことはないと悟って、用意したビニール袋にゴム手袋を投げ捨てる。
 冷たい床に座り、ソファの側面に背中を預けた。脱ぐタイミングを失ったコートのポケットを探り、入れたままだったモニピポのカプセルを掴む。
 半分に割り開けて、小さなフィギュアキーホルダーを袋ごとつまみ出した。薄明りにかざしてみると、いつも被っている小さな帽子を指先に引っ掛けてポーズを取っているモニピポが、おなじみのちょっと間抜けな表情でこちらを見ている。
 このキャラクターは滅多に帽子を取らない。めずらしいポーズにまさかと思い、一緒に入っていた商品紹介のミニブックを開いた。ラインナップを確認してみれば、シークレットのシルエットはまさしくこのポーズだ。
 チカルは思わず口元を押さえた。手のしたで笑みがこぼれそうになり、唇を噛む。キーホルダーをきつく握りしめたまま膝を抱えると、背中を丸めうずくまった。
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