よあけ

紙仲てとら

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本編

第114話

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 重いドアを開くと強烈な寒風が頬を殴ってくる。夢から醒めたばかりのような顔をひと撫でして、白く濁る息を吐いた。いまにも雪が降り出しそうだ。狭い空を遠く見つめながら、グレンチェックのマフラーをぐるぐると巻いた。
 チカルの住まいの近くには、小さな商店街がある。魚屋や精肉店、八百屋、洋品店、駄菓子屋まで――多くの店が軒を連ね、地元の人間を相手に商売していた。彼女はこの一角にある喫茶店の常連で、週に2、3回は通っている。
 この店の数件隣に、古びたレコードショップがあるのは知っていた。
 窓はなく、かなり年季の入った店舗である。色の褪せた張り出し屋根の下の木製ドアは相変わらず固く閉ざされていたが、今日もきちんと「OPEN」の札が掛かっている。古びたレンガの壁にイベントのフライヤーやステッカーがべたべたと無秩序に貼り付けられ、ドアのガラス部分には海外のバンドのポスターが画鋲で雑にとめられていた。湿気でへろへろになっているそれにさえぎられて、店内はまったく窺えない。
 引っ越してきた当初は中古のレコードショップかなにかだろうと思っていたが、どうやらそればかりではないらしい。以前、店から出てきた若者が手に提げていた袋の中身がCDだった(この店のショッパーは透明のため丸見えなのだ)。その次に見かけた客はレコードとCDが入った袋を持って出てきた。
 売り場の規模もどれほどの品揃えなのかもわからないが、訪ねてみる価値はある……泥落としマットを踏み締めたチカルは思い切って真鍮の取っ手を掴み、引き開けた。ドア上部についているベルが軽やかに鳴る。
「こんにちは」
 店内はおろか、レジにも人がいない。不用心な店だ――彼女は恐る恐るといった様子で後ろ手にドアを閉めた。
 レコードショップ特有の、埃っぽいような、なんとも懐かしいにおいが鼻をくすぐる。入口の横には傘立てと、丸めたポスターを突っ込んだダンボールの箱が置いてある。箱には「ご自由にお取りください」と殴り書きされた紙が貼ってあった。
 店内は思いのほか広く、小奇麗だ。天井の隅にあるスピーカーから、R&Bがかすかに流れているのが聞こえる。ところどころムラのある白塗りの板壁には、額縁入りのポスターやレコードが飾られている。天井にはライト付きのシーリングファンが静かに回り、壁に沿って置かれた棚にはレコードやCDが所せましと並べられていた。店の中央にも台が並べられ、その上に置かれた木箱の中にレコードが詰まっている。
 彼女はゆっくりと首を回らせてそれらを眺めながら、CDが並んでいる棚の前に立った。
「いらっしゃいませ」
 背後から突然声がしたので驚いて振り返ると、レジの向こうにオーバーサイズのネルシャツを着た店員が立っていた。ピアスだらけの顔――目と目のあいだや頬、唇など数えきれないほどだ――と、両肩に垂らした三つ編みが印象的な男である。美しい富士額の中央から右の眉尻にかけて傷痕があり、瞳は穏やかに澄んでいる。
「なにかお探しですか?」
 訊ねられたが、チカルは曖昧な言葉を短く発し言い淀んだ。その様を見つめていた彼がレジからこちら側に回り込んでくる。
「うちのCDの棚見づらくて……」
 言いながらチカルに寄ると、
「店長が洋楽も邦楽もごちゃまぜにしちゃうんすよ。いちおうアルファベット順には、しといてあるんすけど」
 透明の仕切り版に書かれているアルファベットとCDの背表紙を見比べながら言う彼に、チカルは上擦った声で訊ねた。
「……ウル・ラドというアイドルグループのファーストアルバム、ありますか?」
 ぱっと見ただけで洋楽の方が多いということはわかっていたが――駄目元だ。
「アイドル?」
 訝し気な顔をした彼と目が合う。なんとも言えない顔で宙を睨むように見つめていたが、おもむろに踵を返してレジの横のタブレット端末を取る。
「ウル・ラドって、5人組グループの?」
 チカルが頷くのを見て、何を思ったか彼は破顔した。そうして肩を揺らして笑いながらタブレット端末を元の場所に戻し、
「ああ……すみません。自分、ずっと勘違いしてて」
 言いながらレジに入ると、山積みになっているダンボールを漁りながら話を続けた。
「アイドルだったんすね。てっきりエレクトロロックバンドだとばかり思ってました」
 自分の勘違いがよほどおかしかったのか、声に笑みが滲んでいる。
「初回限定盤は売り切れてて通常版しかないんすけど、これでいいすか?」
 箱から取り出したそれをチカルに向かって翳す。彼女は近づいてウル・ラドの名を確認すると頷いた。
「そちら、いただきます。おいくらですか」
 購入には微塵の迷いもなかった。提示された金額を支払って店を出ると、やけに清々しい気持ちで帰路につく。
 学生時代、CDを買った帰り道はいつもこんな気持ちだった。開封したいのを我慢して電車に揺られ、自宅玄関をくぐるなり自室に飛び込んだ。歌詞カードの独特なにおいを嗅いで、印字された文字を隅々で読み込み、音の波を全身で味わう。当時のチカルにとって音楽はただの娯楽ではなく、人生を組み立て支えるための大事な柱の一本だった。うれしいときもかなしいときも、怒りに震えるときでさえも――傍にはいつも音楽があった。
 滲み出そうになる笑みを我慢し、密かに心を弾ませながら歩いていると、駄菓子屋の前に並んでいるカプセルトイマシンが横目に入った。引力に逆らえず近づくと、6台ほどあるそれをひとつずつ端から見ていく。
 雨風にさらされてプラスチック部分が濁ったマシンはいかにも古いが、中身は最新らしい。チカルは財布から小銭を出し、ユニークなポーズをとっている蛙の絵が描かれたポーチのカプセルトイを一回まわした。ころんと出てきたカプセルの中身を透かし見ながら隣のマシンに目をやると、馴染みのある犬と目が合った。MoniPipoのフィギュアキーホルダーだ。タビトが「シークレットがなかなか出ない」と嘆いていたことをふいに思い出す。
 彼の姿を脳裏に描きつつ吸い寄せられるように近づいたとき、中学生くらいの少女が彼女よりも先にマシンの前に立った。とっさに爪先に力を入れて踏みとどまり、先ほどのカプセルの中身を取り出したり他のマシンを見るふりで待つ。
 少女は硬貨を数枚入れて、慣れた手つきでハンドルを回す。音からして、個数は少ない――チカルは内心冷や冷やしながら少女の次の行動を待った。出たものが気に入らなかったのか、少女はその場から動かない。どうやら財布の中身を探っている。
 耳をそばだてているチカルの横で硬貨が再び投入され、無常にもハンドルが回された。チカルは喉の奥で嘆きの声をあげる。カプセルを開けて中身を取り出した少女は、右から左からマシンの中を覗き込んでいたがやがて踵を返し去っていった。
 少女の態度を見る限り、望み無しと思いつつもマシンの中を覗き込む。売り切れの表示が自動表示されない古いタイプのマシンに加え、表面が濁っているため中がよく見えない。彼女は一縷の望みをかけ、用意しておいた小銭を祈るような気持ちで投入した。
 ハンドルに確かな手応えがあり、乳白色の小さなカプセルが転がり出てくる。うれしさにほころぶ顔で取り出したそのときだ。
「チカル」
 声の方を振り仰ぐとそこには、先日買った通勤用鞄と惣菜の入った袋をそれぞれの手に下げたシュンヤが立っていた。
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