114 / 268
本編
第112話
しおりを挟む
ウル・ラドのCDをテーブルに並べたチカルは、円形クッションに腰を下ろした。
今日は日曜だが、シュンヤは仕事で留守だ。休日出勤を嫌がるそぶりはなかったものの、ここ最近は取引先や同期との食事会と称した飲み会で平日も忙しくしており、さすがに疲れたような顔で出掛けて行った。早めに帰るとは言っていたが、あまり期待していない。なんだかんだで今日も遅くなるのだろう。
彼女の目の前にあるのは、ブックレット付のシングルCD。タビトからもらったものだ。初回限定DVD特典付きというゴールドのシールが貼られている。未開封のそれを手に取り裏面までじっくり見る。
彼女の青春時代、シングルといえば8センチCDだった。音楽に興味を持ち始めた中学生のころ、電車で1時間以上離れた場所にある繁華街のCDショップまでシュンヤとリイコと出掛けたことを懐かしく思い出す。買ってきたCDを貸し借りし合ってカセットテープに録音し、オリジナルのセットリストを作った。同じ曲を繰り返し擦り切れるほど聞いたあの日々は、確かに青春と呼べるものだった。
ミニコンポは何年も前に処分してしまったため、しばらく使っていなかったノートパソコンのスイッチを入れる。これは映画配給会社に勤めていた頃のものだ。型は古いが、まだ動く。
ウル・ラドの1stシングルのタイトルは「Catch Prey」。外付けドライブにCDを入れ、再生ボタンをクリックする。
本体の小さなスピーカーから溢れ出る音の奔流。地を這うような重低音とソリッドでダンサブルなエレクトロサウンドが絡み合うEDMだ。彼女は心躍るメロディに身を任せながら、ブックレットを開いた。そのときちょうど歌唱パートが始まる。
それを耳にするなり、チカルは伏せていたまぶたを上げた。流暢な英語で歌いあげていたからだ。訝し気な顔で、彼女はブックレットをめくる。歌詞が印字されたページを開き確認したが、最初から最後まで確かに英語である。違う海外アーティストのCDが入っているのかと思ったのだが、ウル・ラドで間違いないらしい。
残りの2枚のCDも開封してみたが、やはりすべて英語だ。アイドルはすこし気恥ずかしくなるような歌詞――愛してるだとか好きだとか――を笑顔で歌うという勝手な印象があったが、彼らはどうやら既存のアイドルとは違うようだ。英語特有の音声リズムとスタイリッシュなサウンド、このふたつの相性がいいためか、見事に曲全体の調和が取れている。
彼女はブックレットをめくる手をとめて曲に聴き入った。全員すばらしい歌唱力だが、サビの部分を歌っているメンバーの歌声が特に耳に心地よい。甘めの高音は優しくも力強く、伸ばした声の余韻に色気が滲み出ている。
この声の主はタビトかもしれないとぼんやり思った。彼の普段の話し声は穏やかでとても落ち着く。先ほどからやけに心を惹かれる歌声も、それと同じような感覚があった。いつまでも聴いていたいような気持ちで、チカルは目を閉じる。
音楽がこんなにも胸を揺さぶるものだったことを、ずいぶん長いあいだ忘れていた。
中学高校、そして映画の仕事に携わっていたころは洋楽邦楽問わず音楽にどっぷり浸かっていたというのに、職場でのトラブルで退職してからというものまったく興味を失った――いや、楽しむ心の余裕がなくなっていたといった方が正しい。身も心も消耗する日々から抜け出したあとも長く虚脱感に悩まされ、周りの声や騒音に耳が疲れて、いつのまにか無音の空間を好むようになっていた。
疲れ切った心が回復しても音楽から離れたままだったが――タビトに出会い、音に彩られたカラフルな世界を取り戻すきっかけをもらった気がする。彼という人間を知りたいと思わなければウル・ラドの曲に出会うことはなかったかもしれないと思うと、巡り合わせの奇跡に心から感謝した。
4分弱のリード曲が終わり、続けてカップリング曲が流れる。チカルはようやく目を開けて、ブックレットを再び指でめくった。
青い光をバックに浮かび上がるメンバー5人のシルエット。その上に印字された歌詞を視線でなぞる。
わかるか? 聞こえるか?
原野を跳ね戯れる わたしたちの息遣いが
まどろむ櫟の丘を越え 汚泥を踏みしだく 足音が
黒い皿に 頭を垂れ なまぐさい息を吐き
微笑にくずれた唇で 歌ってくれ
この うとましく 退屈な夜に
月が昇る 月が昇る
リード曲のサビ部分を頭のなかで翻訳しながら、ずいぶん難解な歌詞だと彼女は思った。誰が作詞を担当したのかと思いクレジットを確認すると、アキラとヤヒロという名前が目に入る。メンバーだろうか。
すかさず彼女はノートパソコンでウル・ラドを検索する。メンバーはリーダーのアキラを筆頭に、ヤヒロ、タビト、セナ、ユウの5人。アキラとヤヒロの2人がリリースするすべての楽曲の作詞作曲を手掛けているらしい。
詳しく紹介している記事をクリックすると、ウル・ラドというグループ名の由来の考察が書かれており、興味深く読んだ。
ウル・ラドはカタカナ表記ではなく正式には「UR・RAD」と書くことは知っていたが、ルーン文字が関係しているとは思わなかった。URとは野生の牛オーロックスを意味し、RADは道や車輪、旅などを意味するという。公式で発表されたわけではないが、これがファンのあいだでの共通認識だと書いてある。
そのページには他にもメンバーに関する記事があり、リーダーのアキラが牛のキャラクターを自作した理由は事務所との確執が原因であるとの推察や、ヤヒロとユウは元ティーンモデルで昔は仲が悪かったという噂、セナが姉と共に国民的アイドルの追っかけをしていた話などが、嘘か真かわからないが――やけに詳しく書き連ねられている。
タビトに関してもたくさんの記事があるが、彼女の有無やこれまでに付き合っていた人数など女絡みの記事が多い。内容はすべて憶測で、さんざん引っ張っておきながら結局のところわからないらしく――彼女はいない“らしい”というような書き方で、真実は曖昧なまま締めくくられている。
それでも記事になっているのはそれだけ彼の女性関係を気にするファンが多いということだろう。実際彼はグループで一番人気があり、SNSなどを使用したファンとの交流を積極的にしているためか、ファンとの距離が近いと書いてある。キツネに似ているというのも、ファンが言い出したことから定着したようだ。
今日は日曜だが、シュンヤは仕事で留守だ。休日出勤を嫌がるそぶりはなかったものの、ここ最近は取引先や同期との食事会と称した飲み会で平日も忙しくしており、さすがに疲れたような顔で出掛けて行った。早めに帰るとは言っていたが、あまり期待していない。なんだかんだで今日も遅くなるのだろう。
彼女の目の前にあるのは、ブックレット付のシングルCD。タビトからもらったものだ。初回限定DVD特典付きというゴールドのシールが貼られている。未開封のそれを手に取り裏面までじっくり見る。
彼女の青春時代、シングルといえば8センチCDだった。音楽に興味を持ち始めた中学生のころ、電車で1時間以上離れた場所にある繁華街のCDショップまでシュンヤとリイコと出掛けたことを懐かしく思い出す。買ってきたCDを貸し借りし合ってカセットテープに録音し、オリジナルのセットリストを作った。同じ曲を繰り返し擦り切れるほど聞いたあの日々は、確かに青春と呼べるものだった。
ミニコンポは何年も前に処分してしまったため、しばらく使っていなかったノートパソコンのスイッチを入れる。これは映画配給会社に勤めていた頃のものだ。型は古いが、まだ動く。
ウル・ラドの1stシングルのタイトルは「Catch Prey」。外付けドライブにCDを入れ、再生ボタンをクリックする。
本体の小さなスピーカーから溢れ出る音の奔流。地を這うような重低音とソリッドでダンサブルなエレクトロサウンドが絡み合うEDMだ。彼女は心躍るメロディに身を任せながら、ブックレットを開いた。そのときちょうど歌唱パートが始まる。
それを耳にするなり、チカルは伏せていたまぶたを上げた。流暢な英語で歌いあげていたからだ。訝し気な顔で、彼女はブックレットをめくる。歌詞が印字されたページを開き確認したが、最初から最後まで確かに英語である。違う海外アーティストのCDが入っているのかと思ったのだが、ウル・ラドで間違いないらしい。
残りの2枚のCDも開封してみたが、やはりすべて英語だ。アイドルはすこし気恥ずかしくなるような歌詞――愛してるだとか好きだとか――を笑顔で歌うという勝手な印象があったが、彼らはどうやら既存のアイドルとは違うようだ。英語特有の音声リズムとスタイリッシュなサウンド、このふたつの相性がいいためか、見事に曲全体の調和が取れている。
彼女はブックレットをめくる手をとめて曲に聴き入った。全員すばらしい歌唱力だが、サビの部分を歌っているメンバーの歌声が特に耳に心地よい。甘めの高音は優しくも力強く、伸ばした声の余韻に色気が滲み出ている。
この声の主はタビトかもしれないとぼんやり思った。彼の普段の話し声は穏やかでとても落ち着く。先ほどからやけに心を惹かれる歌声も、それと同じような感覚があった。いつまでも聴いていたいような気持ちで、チカルは目を閉じる。
音楽がこんなにも胸を揺さぶるものだったことを、ずいぶん長いあいだ忘れていた。
中学高校、そして映画の仕事に携わっていたころは洋楽邦楽問わず音楽にどっぷり浸かっていたというのに、職場でのトラブルで退職してからというものまったく興味を失った――いや、楽しむ心の余裕がなくなっていたといった方が正しい。身も心も消耗する日々から抜け出したあとも長く虚脱感に悩まされ、周りの声や騒音に耳が疲れて、いつのまにか無音の空間を好むようになっていた。
疲れ切った心が回復しても音楽から離れたままだったが――タビトに出会い、音に彩られたカラフルな世界を取り戻すきっかけをもらった気がする。彼という人間を知りたいと思わなければウル・ラドの曲に出会うことはなかったかもしれないと思うと、巡り合わせの奇跡に心から感謝した。
4分弱のリード曲が終わり、続けてカップリング曲が流れる。チカルはようやく目を開けて、ブックレットを再び指でめくった。
青い光をバックに浮かび上がるメンバー5人のシルエット。その上に印字された歌詞を視線でなぞる。
わかるか? 聞こえるか?
原野を跳ね戯れる わたしたちの息遣いが
まどろむ櫟の丘を越え 汚泥を踏みしだく 足音が
黒い皿に 頭を垂れ なまぐさい息を吐き
微笑にくずれた唇で 歌ってくれ
この うとましく 退屈な夜に
月が昇る 月が昇る
リード曲のサビ部分を頭のなかで翻訳しながら、ずいぶん難解な歌詞だと彼女は思った。誰が作詞を担当したのかと思いクレジットを確認すると、アキラとヤヒロという名前が目に入る。メンバーだろうか。
すかさず彼女はノートパソコンでウル・ラドを検索する。メンバーはリーダーのアキラを筆頭に、ヤヒロ、タビト、セナ、ユウの5人。アキラとヤヒロの2人がリリースするすべての楽曲の作詞作曲を手掛けているらしい。
詳しく紹介している記事をクリックすると、ウル・ラドというグループ名の由来の考察が書かれており、興味深く読んだ。
ウル・ラドはカタカナ表記ではなく正式には「UR・RAD」と書くことは知っていたが、ルーン文字が関係しているとは思わなかった。URとは野生の牛オーロックスを意味し、RADは道や車輪、旅などを意味するという。公式で発表されたわけではないが、これがファンのあいだでの共通認識だと書いてある。
そのページには他にもメンバーに関する記事があり、リーダーのアキラが牛のキャラクターを自作した理由は事務所との確執が原因であるとの推察や、ヤヒロとユウは元ティーンモデルで昔は仲が悪かったという噂、セナが姉と共に国民的アイドルの追っかけをしていた話などが、嘘か真かわからないが――やけに詳しく書き連ねられている。
タビトに関してもたくさんの記事があるが、彼女の有無やこれまでに付き合っていた人数など女絡みの記事が多い。内容はすべて憶測で、さんざん引っ張っておきながら結局のところわからないらしく――彼女はいない“らしい”というような書き方で、真実は曖昧なまま締めくくられている。
それでも記事になっているのはそれだけ彼の女性関係を気にするファンが多いということだろう。実際彼はグループで一番人気があり、SNSなどを使用したファンとの交流を積極的にしているためか、ファンとの距離が近いと書いてある。キツネに似ているというのも、ファンが言い出したことから定着したようだ。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる