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本編
第103話
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ウル・ラドのマネージャー、ホズミの朝は早い。
深い闇がまだどっかりと腰を据えて空に居座っている時間に、彼は目を覚ました。早朝4時。スマホのアラームが鳴る1分前である。ようやく手に入れた休日だが、太陽が高く昇るまで惰眠をむさぼるようなことはしない主義だ。
彼はまずスマホのアラームを解除し、ベッドから数メートル離れたウォールラックや箪笥の上に置いてある3つの目覚まし時計のアラームを順々に解除していく。これらは時間差で鳴るようになっており、電子音、ベル音、そして今は亡き愛犬が他の犬を威嚇しているときの鳴き声を録音した音――と、アラーム音もそれぞれ異なる。
起床に関して、彼は自分を信用していない。今日のように目覚ましが鳴る前に起きることがほとんどだが、稀に寝坊することがあるのだ。それも、30分や1時間どころではない。ひどいときは3時間ほど寝過ごす日もある。そういうときは必ず、無意識に止めてしまっている。
離れた場所に置いていても、ひとつだけでは油断ならない。以前、アラームをオフにした時計を手に床で眠っていたことがあるし、電子音がやかましく鳴り響くなか平気で熟睡していたりもする。
音の違う3つの目覚まし時計を用意したのは、1つのアラームの音では聞き慣れてしまう恐れがあると考えたからだった。異なる音が3つも鳴れば、さすがに気づかないことはない。防音工事済みの戸建てだからこそできる荒業だ。
彼は5年前、東京都大田区にある築70年の実家を両親から譲り受けた。祖父母の時代から住んでいる5LDKの日本家屋だ。自分のものとなってすぐ、梁や柱はそのままにフルリノベーションし、たったひとりで住みはじめた。
改修の際になぜ壁を防音にしたかといえば、隣の家の爺が週に3日ほど自宅に仲間を集めカラオケ大会を開くからである。それを長年我慢してきた両親は現在日本を離れ、マレーシアでのんびりと余生を過ごしている。
すべての目覚まし時計を解除して身支度を整えると、彼はまず庭に出る。庭いじりが好きな父が丹精込めて造り上げた箱庭は、今も美しくそのかたちを保っている。彼自身も父に似て、花木を育てるのが好きだった。こまめに雑草を抜き、生育状況を確認し、時には伸びすぎた枝を剪定したりしながら、我が子同然にかわいがっている。
この日も同じように庭仕事をしたあと、軽くシャワーを浴びて朝食の席についた。泊まり客でもいない限り、メニューはいつも同じだ。ごはん一膳、自家製の梅干し、味噌汁、卵焼き。
また、彼は休日の際も勤務時と同じようにスーツを着て生活している。今日も今日とて、グレーのスラックスにワイシャツ、その上にカシミヤのセーター……という格好である。昔は思いつくまま適当に暮らしていたが、ルーティン化した方が楽だと気づいてからは判で押したような生活をするようになった。
彼が箸を手に食事を始める頃には太陽が顔を覗かせている。外から差し込む陽光のなかで朝食を摂り、それから、庭が見渡せる縁側に置いてあるお気に入りの籐椅子に座って編み物を始める。
実は彼はマネージャー以外にもうひとつの顔を持っていた。それは「ニット作家」だ。小学生の頃に趣味で始め、時間を見つけてはこつこつと作品をつくり、早30年。今では一定数の顧客もついており、ハンドメイド界隈では中堅の部類に入る。
趣味でつくったものを販売し始めたのは大学生の頃だ。休日の大半を静かに編み物をして過ごすうちに作品が溜まりに溜まってしまい、アクセサリー作家の親戚に委託してハンドメイドマーケットに出品してもらったところ、大盛況だったことがきっかけとなった。社会人になってからはオンラインショップに切り替えて販売を続け、現在彼の作品が買えるのはインターネット上のみである。
ニット作品の売上は全額、児童養護施設に寄付している。オフィスウイルドは副業禁止ではなく、ニット作家の一面を持っていることは社長やスタッフも知っているが、寄付のことは誰にも明かしていない。副業でだいぶ稼いでいると思い込んでいる者たちから作家先生とからかわれ、金持ちだの資産家だのと揶揄されることがあっても、彼はどうとも答えず静かに微笑み沈黙するばかりだ。
このような姿からクールなイメージが定着しているが、彼のつくりだすものはどれもかわいらしく、普段の冷淡な印象など微塵も感じさせない。
彼が好むのはやわらかなパステルカラーやニュアンスカラーで、作品のほとんどがこの色合いでつくられている。顧客は女性がほとんどだ。その温かく優しい作風から、女性作家だと思われることも多い。今日この家を訪ねてくる予定の若者もまた、彼を女だと勘違いしていた客のひとりである。
深い闇がまだどっかりと腰を据えて空に居座っている時間に、彼は目を覚ました。早朝4時。スマホのアラームが鳴る1分前である。ようやく手に入れた休日だが、太陽が高く昇るまで惰眠をむさぼるようなことはしない主義だ。
彼はまずスマホのアラームを解除し、ベッドから数メートル離れたウォールラックや箪笥の上に置いてある3つの目覚まし時計のアラームを順々に解除していく。これらは時間差で鳴るようになっており、電子音、ベル音、そして今は亡き愛犬が他の犬を威嚇しているときの鳴き声を録音した音――と、アラーム音もそれぞれ異なる。
起床に関して、彼は自分を信用していない。今日のように目覚ましが鳴る前に起きることがほとんどだが、稀に寝坊することがあるのだ。それも、30分や1時間どころではない。ひどいときは3時間ほど寝過ごす日もある。そういうときは必ず、無意識に止めてしまっている。
離れた場所に置いていても、ひとつだけでは油断ならない。以前、アラームをオフにした時計を手に床で眠っていたことがあるし、電子音がやかましく鳴り響くなか平気で熟睡していたりもする。
音の違う3つの目覚まし時計を用意したのは、1つのアラームの音では聞き慣れてしまう恐れがあると考えたからだった。異なる音が3つも鳴れば、さすがに気づかないことはない。防音工事済みの戸建てだからこそできる荒業だ。
彼は5年前、東京都大田区にある築70年の実家を両親から譲り受けた。祖父母の時代から住んでいる5LDKの日本家屋だ。自分のものとなってすぐ、梁や柱はそのままにフルリノベーションし、たったひとりで住みはじめた。
改修の際になぜ壁を防音にしたかといえば、隣の家の爺が週に3日ほど自宅に仲間を集めカラオケ大会を開くからである。それを長年我慢してきた両親は現在日本を離れ、マレーシアでのんびりと余生を過ごしている。
すべての目覚まし時計を解除して身支度を整えると、彼はまず庭に出る。庭いじりが好きな父が丹精込めて造り上げた箱庭は、今も美しくそのかたちを保っている。彼自身も父に似て、花木を育てるのが好きだった。こまめに雑草を抜き、生育状況を確認し、時には伸びすぎた枝を剪定したりしながら、我が子同然にかわいがっている。
この日も同じように庭仕事をしたあと、軽くシャワーを浴びて朝食の席についた。泊まり客でもいない限り、メニューはいつも同じだ。ごはん一膳、自家製の梅干し、味噌汁、卵焼き。
また、彼は休日の際も勤務時と同じようにスーツを着て生活している。今日も今日とて、グレーのスラックスにワイシャツ、その上にカシミヤのセーター……という格好である。昔は思いつくまま適当に暮らしていたが、ルーティン化した方が楽だと気づいてからは判で押したような生活をするようになった。
彼が箸を手に食事を始める頃には太陽が顔を覗かせている。外から差し込む陽光のなかで朝食を摂り、それから、庭が見渡せる縁側に置いてあるお気に入りの籐椅子に座って編み物を始める。
実は彼はマネージャー以外にもうひとつの顔を持っていた。それは「ニット作家」だ。小学生の頃に趣味で始め、時間を見つけてはこつこつと作品をつくり、早30年。今では一定数の顧客もついており、ハンドメイド界隈では中堅の部類に入る。
趣味でつくったものを販売し始めたのは大学生の頃だ。休日の大半を静かに編み物をして過ごすうちに作品が溜まりに溜まってしまい、アクセサリー作家の親戚に委託してハンドメイドマーケットに出品してもらったところ、大盛況だったことがきっかけとなった。社会人になってからはオンラインショップに切り替えて販売を続け、現在彼の作品が買えるのはインターネット上のみである。
ニット作品の売上は全額、児童養護施設に寄付している。オフィスウイルドは副業禁止ではなく、ニット作家の一面を持っていることは社長やスタッフも知っているが、寄付のことは誰にも明かしていない。副業でだいぶ稼いでいると思い込んでいる者たちから作家先生とからかわれ、金持ちだの資産家だのと揶揄されることがあっても、彼はどうとも答えず静かに微笑み沈黙するばかりだ。
このような姿からクールなイメージが定着しているが、彼のつくりだすものはどれもかわいらしく、普段の冷淡な印象など微塵も感じさせない。
彼が好むのはやわらかなパステルカラーやニュアンスカラーで、作品のほとんどがこの色合いでつくられている。顧客は女性がほとんどだ。その温かく優しい作風から、女性作家だと思われることも多い。今日この家を訪ねてくる予定の若者もまた、彼を女だと勘違いしていた客のひとりである。
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