よあけ

紙仲てとら

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本編

第101話

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 バルコニーから室内に入ると、すでにチカルはリビングから消えていた。キッチンを通り過ぎ、廊下に続くドアを開けて耳を澄ませば、洗面脱衣室の方からかすかに湯を流す音がする。バスルームを洗ってくれているのだ。彼女の厚意に素直に甘えようという気持ちと、ここまでさせて申し訳ないという気持ちがせめぎ合う。
 やがてリビングに戻ってきたチカルは、その足でキッチンに入ると漂白剤につけていたマグカップを洗い、きれいに拭いて棚にしまう。タビトからの感謝の言葉を浴びながらエプロンを外し、帰り支度を始めた。
 チカルの背中を眺めていた彼は、すこしさみしそうな顔で言う。
「ここまでしてもらっちゃって……なんかお礼したいな。もちろん時間外の分の手当は払うけど、それとは別に」
 彼女はエプロンをトートバッグにしまいながら、
「先日いろいろとご馳走してくださったじゃありませんか。お気持ちだけありがたくいただきます」
 いつものように静かにそう言う。
「俺がお茶淹れただけでも律儀にお返しくれるじゃん……フリーズドライのスープセットとかこんにゃくゼリーの詰め合わせとか……その前にもドリップパックのギフトもらっちゃったし。このままじゃ気持ちがおさまらないよ」
 彼は一度言い出したら聞かない、それが最近わかってきた。頑固なところがあって困る――人のことは言えないが。
「なにかしてあげられることないかな……」
 悩むタビトの方に振り向いたチカルは、ほとんど無意識に彼の薄い耳朶に目を遣った。シュンヤに取り上げられたものとそっくりな、シルバーのフープピアス……当時の彼とのやりとりを思い出し、胸が悪くなる。
「……では、……」
 負の感情に搔き乱され眉間の皺を深く刻んだ彼女は、一拍置いたのちに言った。
「ひとつ、お願いを聞いてもらえませんか」
「もちろんいいよ」
 タビトがあまりに真剣な様子で返してきたので、チカルは急に緊張した面持ちになる。怖気づいたように声を呑んだまま彼を見つめていたが、ついに無言の圧に負けて唇を開いた。
「――ピアスをまたつけてみようかと、思っていて」
 塞がりかけているピアスホールに触れながら途切れ途切れに言うと、口を結んで再び黙り込んでしまう。一瞬の沈黙のあと、彼女は苦しい思いを隠して、いつもよりも明るく言った。
「ごめんなさい。やっぱり、なんでもありません」
「やだ。言って」
 駄々をこねる子どものように、彼は眉根を寄せて唇を尖らせる。
「でも私……」
「言ってくれなきゃやだ」
 彼は断固とした口調で言う。軽いめまいを覚えた彼女は指先でこめかみを押さえ、あきらめたように苦い笑みを刻んだ。
「ピアスを、――」
 目を閉じ、緊張に引きつる喉で懸命に言葉を続ける。
「ピアスをつけてきたら、……似合う、と、言っていただけませんか」
 すべて口にしてから、やはり後悔した。
 馬鹿なことを言ったと思い、彼女は恥じるあまりに深く俯いた。それと同時に、たとえ感情が伴わなくとも誰かにそう言われたいと思うほど、自尊心が傷つけられてきたのだと実感する。その瞬間、否定され奪われてばかりの人生が急にくっきりとそのかたちを現し、これまでの恨みつらみが絶望と共に色濃く迫り来て、彼女の心は壊れそうになった。
 愛した男から否定されることが、つらくてつらくて、仕方なかったのだ。しかし――どんなにもっともらしい理由があったとしても、シュンヤに言われたくてたまらない言葉を、この優しい男に言わせようとするだなんて。代わりに言ってもらったところで、彼はシュンヤではない。惨めになるだけだ、わかっている。
「ごめんなさい。忘れてください」
 冷たくなった胸の奥で自分を罵り、表情を苦く歪める。今すぐに逃げ出したいほど恥ずかしく、情けない気持ちで、彼女は床をひたすらに睨んだ。
 タビトはなにも言わず、目の前で頭を垂れている女をただ見つめた。そんな彼の表情を確認する勇気は、彼女にない。
「ごめんなさい……」
 沈黙に耐えきれず、か細い声で言う。
 すると、黙っていたタビトがチカルに一歩近づいた。びくりと身をこわばらせた彼女の手を掴み、そっと自分の方に引く。温かく、大きな手のひらの感触が腕を伝って心臓へと届き、鼓動が早まるのが感じられた。
 彼女は思わずタビトの顔を振り仰ぐ。視線が重なると、彼は微笑んだ。
「こっちに来て」
 優しい力に導かれて、チカルは一歩を踏み出す。あまりに突然の出来事に抵抗するのも忘れ、彼のすべらかで美しい手の甲にちいさな擦り傷があるのを、夢のなかにいるような気持ちで見つめた。
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