102 / 228
本編
第100話
しおりを挟む
「彼とは幼馴染です。父が死んでから――もともと悪かった母と祖母との仲がさらに悪くなって苦しんでいた私を、彼は支えてくれたの……進学のために東京に行ってしまってからも、ずっと気にしてくれて……」
チカルは言葉を切り、俯いた。
「就職が決まったら、一緒に東京で暮らそうって言ってくれたこと……嬉しかったな。ふたりなら幸せになれるって信じてたけど――幸福って簡単には手に入らないものなのね」
「チカルさんが考える幸せって……安定した職業に就いて、結婚して子どもがいて……とかそういうの?」
「そういうことは考えていなかったわ。お互いに尊敬しあって、笑顔で暮らしたかっただけ」
祈るように絡ませた指に息を吹きかけ温めながら、チカルは自嘲する。
「この先も、彼とはそういう関係になれないのかもしれない……。かなしいけれど……でも、人生なんてこんなものなのかもしれませんね。うまくいかないことだらけなのに、変に期待するからいけないのよ、きっと……」
平穏な生活に裏打ちされたかなしみをあきらめている――彼女のその横顔に視線を据えたまま、タビトは苦しそうに眉根を歪めた。
「どうして……かなしい思いをしてまで、その人と一緒にいようとするの?」
その質問には答えず、彼女はさみしく笑った。
タビトの瞳に映る、月明りの下で微笑む繊細な容貌。青白い光を浮かべた双眸は冴え冴えと輝き、白皙の頬にかかる黒髪が儚い夜風に弄られ揺れている。まるで美しい月の化身のようで、彼はそっと息を吞む。
「いい夜ですね」
きらびやかな夜景の上、ぷかりと静かに浮かんでいる月に視線を転じたチカルはしみじみとそう口にした。そんな彼女のそばに寄り添って、タビトもまた夜空を見上げた。
「――さっき……眠れない夜に月を見てたって話したでしょ?」
真摯な眼差しを向けてきたチカルと見つめ合い、タビトは静かに言葉を継ぐ。
「まだ5歳か6歳くらいのときかな……眠れない夜はカーテンを開いて、月のかたちを観察したり、人の家の窓明かりを数えたり、星座さがしたりしながら眠くなるのを待ってた」
タビトの声が、言葉が――チカルの鼓動と共鳴する。
彼女は、誰にも知られず家を抜け出し、満月の光を浴びながら歩いた畦道の感触を足裏に思い出した。ひとりであてどなく歩くより、家にいた方が孤独だった。月はいつまでもついてきて、タールのような闇夜を照らし夜通しそばにいてくれた。あの日、死んだ父を思い泣きながら見上げた月を、幼いタビトも見ていたかもしれない。
「夜が更けるにつれて家の明かりは消えていくけど……でも月は夜が終わるまで空にいてくれるから……だから、月がよく見える夜は眠れなくても怖くなかったし、さみしくなかった。この仕事をし始めてから、それを思い出して」
言葉を切ったタビトは、一瞬きまり悪そうな顔になり、「ごめん。いきなりこんな話……」視線をさ迷わせて口籠る。
チカルは柔らかい表情のまま黙ってタビトを見つめている。彼は頬を染めたまま、ぎこちない笑みを彼女に向け、それから目の前に広がるビル群を遠く眺めた。
「大人になってから眠れない夜はどうしているの?」
薄闇に溶ける横顔に、チカルはそう問いかける。すると彼はふと笑い、再び彼女の方へ視線を向けた。
「好きな人のことを考えてる」
そう言い残し、サンダルを爪先に引っ掛けて外に出る。
「チカルさんちってどのへん?」
「あのあたりかしら」
さだかではなかったが指差すと、「意外と近いね。ここから呼んだら聞こえるかな」タビトはその方面の夜景に向かって叫ぶ真似をする。チカルはあきれながらも笑った。その瞬間、この無邪気な若者にすっかり心を許していることに気付く。
彼女はまぶしいものを見るような眼差しで彼の背中を眺めた。風に揺れる清潔な髪が、綿菓子のような甘い香りを漂わせながら淡い光の中で輝いている。
「そろそろこちらへ。湯冷めしますよ」
呼びかけに振り返ったタビトはひどく美しい。めまいを覚えるほどに。
チカルの視線を受けながら彼は手すりに寄りかかって、ぽつりと言った。
「チカルさんとこうやって話をしてるときがいちばん楽しい」
言われた彼女は細い目を丸くしたまま、何も言えずにタビトを凝視する。
「仕事が終わるのが遅くなって会えない日も、作業報告書のメッセージを読むのが楽しみで毎回わくわくしながら帰ってきてるんだ」
「ユーモアのかけらもないメッセージばかりで、申し訳ありません……」
タビトは恐縮するチカルに歩み寄った。俯いている顔を覗き込み、小さな光をいっぱいに散らした瞳を細める。
「チカルさんの書く文字、かわいいから……読むだけで笑顔になっちゃう。いつも癒されてるよ。ありがとう」
彼の甘い声がチカルの耳をやさしくくすぐる。
顔にあたる風の冷たさが増したのがわかり、彼女は先ほどよりも深く俯いて下唇を噛んだ。火照った頬に手の甲を当てる。
「……――もしかして照れてる?」
息だけでやわらかく笑う気配がする。
チカルは湯気が出そうなほど顔を赤くしたまま、「先に戻ります」そう告げて、タビトに背を向けた。
チカルは言葉を切り、俯いた。
「就職が決まったら、一緒に東京で暮らそうって言ってくれたこと……嬉しかったな。ふたりなら幸せになれるって信じてたけど――幸福って簡単には手に入らないものなのね」
「チカルさんが考える幸せって……安定した職業に就いて、結婚して子どもがいて……とかそういうの?」
「そういうことは考えていなかったわ。お互いに尊敬しあって、笑顔で暮らしたかっただけ」
祈るように絡ませた指に息を吹きかけ温めながら、チカルは自嘲する。
「この先も、彼とはそういう関係になれないのかもしれない……。かなしいけれど……でも、人生なんてこんなものなのかもしれませんね。うまくいかないことだらけなのに、変に期待するからいけないのよ、きっと……」
平穏な生活に裏打ちされたかなしみをあきらめている――彼女のその横顔に視線を据えたまま、タビトは苦しそうに眉根を歪めた。
「どうして……かなしい思いをしてまで、その人と一緒にいようとするの?」
その質問には答えず、彼女はさみしく笑った。
タビトの瞳に映る、月明りの下で微笑む繊細な容貌。青白い光を浮かべた双眸は冴え冴えと輝き、白皙の頬にかかる黒髪が儚い夜風に弄られ揺れている。まるで美しい月の化身のようで、彼はそっと息を吞む。
「いい夜ですね」
きらびやかな夜景の上、ぷかりと静かに浮かんでいる月に視線を転じたチカルはしみじみとそう口にした。そんな彼女のそばに寄り添って、タビトもまた夜空を見上げた。
「――さっき……眠れない夜に月を見てたって話したでしょ?」
真摯な眼差しを向けてきたチカルと見つめ合い、タビトは静かに言葉を継ぐ。
「まだ5歳か6歳くらいのときかな……眠れない夜はカーテンを開いて、月のかたちを観察したり、人の家の窓明かりを数えたり、星座さがしたりしながら眠くなるのを待ってた」
タビトの声が、言葉が――チカルの鼓動と共鳴する。
彼女は、誰にも知られず家を抜け出し、満月の光を浴びながら歩いた畦道の感触を足裏に思い出した。ひとりであてどなく歩くより、家にいた方が孤独だった。月はいつまでもついてきて、タールのような闇夜を照らし夜通しそばにいてくれた。あの日、死んだ父を思い泣きながら見上げた月を、幼いタビトも見ていたかもしれない。
「夜が更けるにつれて家の明かりは消えていくけど……でも月は夜が終わるまで空にいてくれるから……だから、月がよく見える夜は眠れなくても怖くなかったし、さみしくなかった。この仕事をし始めてから、それを思い出して」
言葉を切ったタビトは、一瞬きまり悪そうな顔になり、「ごめん。いきなりこんな話……」視線をさ迷わせて口籠る。
チカルは柔らかい表情のまま黙ってタビトを見つめている。彼は頬を染めたまま、ぎこちない笑みを彼女に向け、それから目の前に広がるビル群を遠く眺めた。
「大人になってから眠れない夜はどうしているの?」
薄闇に溶ける横顔に、チカルはそう問いかける。すると彼はふと笑い、再び彼女の方へ視線を向けた。
「好きな人のことを考えてる」
そう言い残し、サンダルを爪先に引っ掛けて外に出る。
「チカルさんちってどのへん?」
「あのあたりかしら」
さだかではなかったが指差すと、「意外と近いね。ここから呼んだら聞こえるかな」タビトはその方面の夜景に向かって叫ぶ真似をする。チカルはあきれながらも笑った。その瞬間、この無邪気な若者にすっかり心を許していることに気付く。
彼女はまぶしいものを見るような眼差しで彼の背中を眺めた。風に揺れる清潔な髪が、綿菓子のような甘い香りを漂わせながら淡い光の中で輝いている。
「そろそろこちらへ。湯冷めしますよ」
呼びかけに振り返ったタビトはひどく美しい。めまいを覚えるほどに。
チカルの視線を受けながら彼は手すりに寄りかかって、ぽつりと言った。
「チカルさんとこうやって話をしてるときがいちばん楽しい」
言われた彼女は細い目を丸くしたまま、何も言えずにタビトを凝視する。
「仕事が終わるのが遅くなって会えない日も、作業報告書のメッセージを読むのが楽しみで毎回わくわくしながら帰ってきてるんだ」
「ユーモアのかけらもないメッセージばかりで、申し訳ありません……」
タビトは恐縮するチカルに歩み寄った。俯いている顔を覗き込み、小さな光をいっぱいに散らした瞳を細める。
「チカルさんの書く文字、かわいいから……読むだけで笑顔になっちゃう。いつも癒されてるよ。ありがとう」
彼の甘い声がチカルの耳をやさしくくすぐる。
顔にあたる風の冷たさが増したのがわかり、彼女は先ほどよりも深く俯いて下唇を噛んだ。火照った頬に手の甲を当てる。
「……――もしかして照れてる?」
息だけでやわらかく笑う気配がする。
チカルは湯気が出そうなほど顔を赤くしたまま、「先に戻ります」そう告げて、タビトに背を向けた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ブラック企業を退職したら、極上マッサージに蕩ける日々が待ってました。
イセヤ レキ
恋愛
ブラック企業に勤める赤羽(あかばね)陽葵(ひまり)は、ある夜、退職を決意する。
きっかけは、雑居ビルのとあるマッサージ店。
そのマッサージ店の恰幅が良く朗らかな女性オーナーに新たな職場を紹介されるが、そこには無口で無表情な男の店長がいて……?
※ストーリー構成上、導入部だけシリアスです。
※他サイトにも掲載しています。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ナイトプールで熱い夜
狭山雪菜
恋愛
萌香は、27歳のバリバリのキャリアウーマン。大学からの親友美波に誘われて、未成年者不可のナイトプールへと行くと、親友がナンパされていた。ナンパ男と居たもう1人の無口な男は、何故か私の側から離れなくて…?
この作品は、「小説家になろう」にも掲載しております。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
先生と生徒のいかがわしいシリーズ
夏緒
恋愛
①先生とイケナイ授業、する?
保健室の先生と男子生徒です。
②生徒会長さまの思惑
生徒会長と新任女性教師です。
③悪い先生だな、あんた
体育教師と男子生徒です。これはBLです。
どんな理由があろうが学校でいかがわしいことをしてはいけませんよ〜!
これ全部、やったらダメですからねっ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる