よあけ

紙仲てとら

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本編

第100話

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「彼とは幼馴染です。父が死んでから――もともと悪かった母と祖母との仲がさらに悪くなって苦しんでいた私を、彼は支えてくれたの……進学のために東京に行ってしまってからも、ずっと気にしてくれて……」
 チカルは言葉を切り、俯いた。
「就職が決まったら、一緒に東京で暮らそうって言ってくれたこと……嬉しかったな。ふたりなら幸せになれるって信じてたけど――幸福って簡単には手に入らないものなのね」
「チカルさんが考える幸せって……安定した職業に就いて、結婚して子どもがいて……とかそういうの?」
「そういうことは考えていなかったわ。お互いに尊敬しあって、笑顔で暮らしたかっただけ」
 祈るように絡ませた指に息を吹きかけ温めながら、チカルは自嘲する。
「この先も、彼とはそういう関係になれないのかもしれない……。かなしいけれど……でも、人生なんてこんなものなのかもしれませんね。うまくいかないことだらけなのに、変に期待するからいけないのよ、きっと……」
 平穏な生活に裏打ちされたかなしみをあきらめている――彼女のその横顔に視線を据えたまま、タビトは苦しそうに眉根を歪めた。
「どうして……かなしい思いをしてまで、その人と一緒にいようとするの?」
 その質問には答えず、彼女はさみしく笑った。
 タビトの瞳に映る、月明りの下で微笑む繊細な容貌。青白い光を浮かべた双眸は冴え冴えと輝き、白皙の頬にかかる黒髪が儚い夜風に弄られ揺れている。まるで美しい月の化身のようで、彼はそっと息を吞む。
「いい夜ですね」
 きらびやかな夜景の上、ぷかりと静かに浮かんでいる月に視線を転じたチカルはしみじみとそう口にした。そんな彼女のそばに寄り添って、タビトもまた夜空を見上げた。
「――さっき……眠れない夜に月を見てたって話したでしょ?」
 真摯な眼差しを向けてきたチカルと見つめ合い、タビトは静かに言葉を継ぐ。
「まだ5歳か6歳くらいのときかな……眠れない夜はカーテンを開いて、月のかたちを観察したり、人の家の窓明かりを数えたり、星座さがしたりしながら眠くなるのを待ってた」
 タビトの声が、言葉が――チカルの鼓動と共鳴する。
 彼女は、誰にも知られず家を抜け出し、満月の光を浴びながら歩いた畦道の感触を足裏に思い出した。ひとりであてどなく歩くより、家にいた方が孤独だった。月はいつまでもついてきて、タールのような闇夜を照らし夜通しそばにいてくれた。あの日、死んだ父を思い泣きながら見上げた月を、幼いタビトも見ていたかもしれない。
「夜が更けるにつれて家の明かりは消えていくけど……でも月は夜が終わるまで空にいてくれるから……だから、月がよく見える夜は眠れなくても怖くなかったし、さみしくなかった。この仕事をし始めてから、それを思い出して」
 言葉を切ったタビトは、一瞬きまり悪そうな顔になり、「ごめん。いきなりこんな話……」視線をさ迷わせて口籠る。
 チカルは柔らかい表情のまま黙ってタビトを見つめている。彼は頬を染めたまま、ぎこちない笑みを彼女に向け、それから目の前に広がるビル群を遠く眺めた。
「大人になってから眠れない夜はどうしているの?」
 薄闇に溶ける横顔に、チカルはそう問いかける。すると彼はふと笑い、再び彼女の方へ視線を向けた。
「好きな人のことを考えてる」
 そう言い残し、サンダルを爪先に引っ掛けて外に出る。
「チカルさんちってどのへん?」
「あのあたりかしら」
 さだかではなかったが指差すと、「意外と近いね。ここから呼んだら聞こえるかな」タビトはその方面の夜景に向かって叫ぶ真似をする。チカルはあきれながらも笑った。その瞬間、この無邪気な若者にすっかり心を許していることに気付く。
 彼女はまぶしいものを見るような眼差しで彼の背中を眺めた。風に揺れる清潔な髪が、綿菓子のような甘い香りを漂わせながら淡い光の中で輝いている。
「そろそろこちらへ。湯冷めしますよ」
 呼びかけに振り返ったタビトはひどく美しい。めまいを覚えるほどに。
 チカルの視線を受けながら彼は手すりに寄りかかって、ぽつりと言った。
「チカルさんとこうやって話をしてるときがいちばん楽しい」
 言われた彼女は細い目を丸くしたまま、何も言えずにタビトを凝視する。
「仕事が終わるのが遅くなって会えない日も、作業報告書のメッセージを読むのが楽しみで毎回わくわくしながら帰ってきてるんだ」
「ユーモアのかけらもないメッセージばかりで、申し訳ありません……」
 タビトは恐縮するチカルに歩み寄った。俯いている顔を覗き込み、小さな光をいっぱいに散らした瞳を細める。
「チカルさんの書く文字、かわいいから……読むだけで笑顔になっちゃう。いつも癒されてるよ。ありがとう」
 彼の甘い声がチカルの耳をやさしくくすぐる。
 顔にあたる風の冷たさが増したのがわかり、彼女は先ほどよりも深く俯いて下唇を噛んだ。火照った頬に手の甲を当てる。
「……――もしかして照れてる?」
 息だけでやわらかく笑う気配がする。
 チカルは湯気が出そうなほど顔を赤くしたまま、「先に戻ります」そう告げて、タビトに背を向けた。
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