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本編
第99話
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スキンケアとヘアブローを慌ただしく済ませてリビングに入ると、ゴム手袋をしたチカルがキッチンに立っていた。驚いたような顔をしたタビトがシンクを覗き込めば、愛用しているマグカップが水を張った洗い桶の中に沈んでいる。
「茶渋がついていたので……」
漂白剤のキャップを閉めながらそう伝えると、タビトは申し訳なさそうに眉を下げる。
「ありがとう」
礼を言いながら彼は、くつろいでいてくれと言っておけばよかったと悔やんでいる。時間外であろうとなんだろうと何かしら仕事を探し出す、チカルはそういう人だということをすっかり忘れていた。
タビトがあれこれと後悔しているその一方で、チカルは彼の横顔に見惚れている。
――本当に美しい男だ。なぜ洗い桶を見つめながらアンニュイな表情をしているのかはわからないが、あまりにも眉目秀麗でこの世のものとも思えない。
うっすらと上気した頬は陶器のようにつややかだ。豊かな黒髪は天井からの灯りを受けて輝き、甘い香りを放っている。その髪のすきまからのぞく薄い耳朶に、小さなシルバーのピアスがきらきらと光っているのが見える。初任給で買ったピアスに似ているとチカルは思った。相談もなくピアスホールを開けたことがよほどおもしろくなかったのか、シュンヤに「似合わない」と言われ取り上げられてしまったが――
その悲しい出来事を記憶の底に押し隠した彼女は、生真面目な声で訊ねた。
「湯加減はいかがでしたか」
我に返り、声の方に振り向いたタビトは慌てて答える。
「完璧!すっごく気持ちよかったです」
満足そうに頷いたチカルは、マスクの下の口元をほころばせた。
「よかった」言いながらゴム手袋を外して、「汗をかいたでしょうから、水分補給を……。あちらに白湯をご用意しておりますので」
白い手で示された先を見ると、ダイニングテーブルの上に大き目のマグカップが置いてある。
「さゆ?」
「水を沸騰させて、飲みやすい温度まで冷ましたものです。冷たい水よりも体に吸収されやすいそうですから……ぜひ」
至れり尽くせりとはまさにこのことだ……細やかな気配りへの感謝を伝えると同時に、タビトはなぜか一抹のさみしさを感じる。
バスタオルを首にかけたまま、カップの中身をゆっくりと飲んだ。チカルが用意してくれたと思うととてもおいしく感じる。
ふうと温かい息を吐いて、彼はぱたぱたと手で顔を扇ぐ。
「長湯しすぎちゃった。ちょっと夜風にあたってくるね」
言いながらルーフバルコニーへ続く大窓を開けると、雲ひとつない空に美しい月が浮かんでいるのが見えた。
「満月……」
思わず口にして室内に振り向く。その声に誘われ、チカルはタビトの横に立った。淡い月光のなか、彼女の口元がほころぶ。
ふたりはしばらく黙ったまま月を眺めていたが、ふいにタビトが唇を開いた。
「小さいころ、なかなか眠れない夜はよくこうやって月を見てたよ」
「私も田舎に住んでいた頃は月の光をたよりに散歩していました。満月の夜は自分の手がはっきり見えるくらい、本当に明るくて……」
「もしかしたらチカルさんと同じときに夜空を眺めてたかもね」
ふふとやわらかく笑って、チカルは頷く。
「チカルさんの故郷ってどんなところ?」
「田舎です。どこにでもあるような、小さな村。家の裏手に養豚場があってね。そこの豚の鳴き声と、隣の家の鶏の鳴き声で目が覚めるの」
めずらしく間延びした声だ。くだけた言葉と、その口調がとてもやさしい。彼は薄闇のベールに包まれたチカルの横顔に視線を吸い寄せられたまま、天鵞絨を思わせる声音に耳を傾ける。
「なにもないところだと感じていたけれど……いま思い起こすと、自分に必要なものは全部あった気がするから不思議ね」
「必要なものって?」
チカルは頭ひとつぶん背の高いタビトを振り仰ぐ。ややあって、彼女はなにも言わずに微笑んだ。かなしみのにじむ笑みだった。
「いつもないものねだりなの」
「俺も……」
同じように微笑んで、彼は夜空に向かい溜息をつく。
「求めれば求めるほど手に入らない」
「それでいのよ、きっと……。手に入れたとたんつまらなくなってしまうものだから」
反論したかったが、唇を結んだ。
地位や名誉はそうかもしれないが――たとえばチカルの愛が欲しいと願いそれを手に入れたとしても、つまらないものなどにはならないという確信がある。愛のなんたるかを語れるほど経験もないが、愛はいつのまにか見失うもので、つまらないという感情は芽生えないのではないだろうか。
それを口にする勇気はなく、タビトは黙り込んでいる。
チカルは、自分の知らない愛のかたちを多く知っているに違いなかった。愛に癒され、愛に苦しんできた人間の物憂げな眼差しに心を揺さぶられ、やるせない気持ちになったタビトは彼女から目を逸らす。
「あのさ……」
前を向いたままためらいがちに口を開く。チカルは、言い淀むタビトの横顔に視線をあてた。その眼差しに促され、彼は細い声で言葉を続けた。
「一緒に暮らしてる人とは……その……、……長い付き合いなの?」
きっと答えてはくれないだろう。そう思いながら押し黙っていると、彼女はゆっくりと語り始める。
「茶渋がついていたので……」
漂白剤のキャップを閉めながらそう伝えると、タビトは申し訳なさそうに眉を下げる。
「ありがとう」
礼を言いながら彼は、くつろいでいてくれと言っておけばよかったと悔やんでいる。時間外であろうとなんだろうと何かしら仕事を探し出す、チカルはそういう人だということをすっかり忘れていた。
タビトがあれこれと後悔しているその一方で、チカルは彼の横顔に見惚れている。
――本当に美しい男だ。なぜ洗い桶を見つめながらアンニュイな表情をしているのかはわからないが、あまりにも眉目秀麗でこの世のものとも思えない。
うっすらと上気した頬は陶器のようにつややかだ。豊かな黒髪は天井からの灯りを受けて輝き、甘い香りを放っている。その髪のすきまからのぞく薄い耳朶に、小さなシルバーのピアスがきらきらと光っているのが見える。初任給で買ったピアスに似ているとチカルは思った。相談もなくピアスホールを開けたことがよほどおもしろくなかったのか、シュンヤに「似合わない」と言われ取り上げられてしまったが――
その悲しい出来事を記憶の底に押し隠した彼女は、生真面目な声で訊ねた。
「湯加減はいかがでしたか」
我に返り、声の方に振り向いたタビトは慌てて答える。
「完璧!すっごく気持ちよかったです」
満足そうに頷いたチカルは、マスクの下の口元をほころばせた。
「よかった」言いながらゴム手袋を外して、「汗をかいたでしょうから、水分補給を……。あちらに白湯をご用意しておりますので」
白い手で示された先を見ると、ダイニングテーブルの上に大き目のマグカップが置いてある。
「さゆ?」
「水を沸騰させて、飲みやすい温度まで冷ましたものです。冷たい水よりも体に吸収されやすいそうですから……ぜひ」
至れり尽くせりとはまさにこのことだ……細やかな気配りへの感謝を伝えると同時に、タビトはなぜか一抹のさみしさを感じる。
バスタオルを首にかけたまま、カップの中身をゆっくりと飲んだ。チカルが用意してくれたと思うととてもおいしく感じる。
ふうと温かい息を吐いて、彼はぱたぱたと手で顔を扇ぐ。
「長湯しすぎちゃった。ちょっと夜風にあたってくるね」
言いながらルーフバルコニーへ続く大窓を開けると、雲ひとつない空に美しい月が浮かんでいるのが見えた。
「満月……」
思わず口にして室内に振り向く。その声に誘われ、チカルはタビトの横に立った。淡い月光のなか、彼女の口元がほころぶ。
ふたりはしばらく黙ったまま月を眺めていたが、ふいにタビトが唇を開いた。
「小さいころ、なかなか眠れない夜はよくこうやって月を見てたよ」
「私も田舎に住んでいた頃は月の光をたよりに散歩していました。満月の夜は自分の手がはっきり見えるくらい、本当に明るくて……」
「もしかしたらチカルさんと同じときに夜空を眺めてたかもね」
ふふとやわらかく笑って、チカルは頷く。
「チカルさんの故郷ってどんなところ?」
「田舎です。どこにでもあるような、小さな村。家の裏手に養豚場があってね。そこの豚の鳴き声と、隣の家の鶏の鳴き声で目が覚めるの」
めずらしく間延びした声だ。くだけた言葉と、その口調がとてもやさしい。彼は薄闇のベールに包まれたチカルの横顔に視線を吸い寄せられたまま、天鵞絨を思わせる声音に耳を傾ける。
「なにもないところだと感じていたけれど……いま思い起こすと、自分に必要なものは全部あった気がするから不思議ね」
「必要なものって?」
チカルは頭ひとつぶん背の高いタビトを振り仰ぐ。ややあって、彼女はなにも言わずに微笑んだ。かなしみのにじむ笑みだった。
「いつもないものねだりなの」
「俺も……」
同じように微笑んで、彼は夜空に向かい溜息をつく。
「求めれば求めるほど手に入らない」
「それでいのよ、きっと……。手に入れたとたんつまらなくなってしまうものだから」
反論したかったが、唇を結んだ。
地位や名誉はそうかもしれないが――たとえばチカルの愛が欲しいと願いそれを手に入れたとしても、つまらないものなどにはならないという確信がある。愛のなんたるかを語れるほど経験もないが、愛はいつのまにか見失うもので、つまらないという感情は芽生えないのではないだろうか。
それを口にする勇気はなく、タビトは黙り込んでいる。
チカルは、自分の知らない愛のかたちを多く知っているに違いなかった。愛に癒され、愛に苦しんできた人間の物憂げな眼差しに心を揺さぶられ、やるせない気持ちになったタビトは彼女から目を逸らす。
「あのさ……」
前を向いたままためらいがちに口を開く。チカルは、言い淀むタビトの横顔に視線をあてた。その眼差しに促され、彼は細い声で言葉を続けた。
「一緒に暮らしてる人とは……その……、……長い付き合いなの?」
きっと答えてはくれないだろう。そう思いながら押し黙っていると、彼女はゆっくりと語り始める。
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