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本編
第87話
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脱兎のごとく事務所を飛び出したタビトは、夜の街に白い息をなびかせながら一心不乱に歩を進める。
澄んだ濃紺の空に浮いた月が、ビル群の上の方で見え隠れしている。タクシーを拾おうかと一瞬考えたが結局2駅分歩き、いつもコーヒーを買っているカフェの前まで来た。
このまま帰る気にもなれず、彼はポケットからマスクを取り出し耳にかけると、ドアを引き開ける。
「いらっしゃいませ」
朝に寄るといつもいる大学生ではなく、ベテランらしい貫禄の男がレジに立っていた。
「ドリップコーヒーをショートサイズで……お願いします」
冬場でもアイスコーヒーにこだわるタビトだが、めずらしくホットを頼む。体の芯から冷え切っていた。
注文したものが出てくるのを待っているあいだ、店内を見るともなしに眺めた。22時を回った店内は客足もまばらで、ゆったりとした時間が流れている。
コーヒーを受け取って、窓に沿って並んでいるソファ席の一番隅に座った。離れたところに、ひとりで小説を読んでいる若い男と、サンドイッチを頬張っているサラリーマン。その彼の斜め後ろのカウンター席に男女が隣同士で座り、鼻先が触れそうなくらい顔を近づけて話し込んでいる。
タビトはテーブルで湯気を立てているコーヒーを、しばらくのあいだぼんやりと眺めていた。ポケットに入れたスマホがさっきから断続的に振動しているが、画面を見る気になれない。電話をかけてきているのが誰なのかはわかっている。
彼はマスクを顎の下におろして、ようやくカップに口を付けた。熱さに思わず顔をしかめながら、チカルと一緒に飲んだ紅茶を思い出す。表情には出さなかったが、あのときも舌先をやけどした。幸福に満たされたわずかな時を、遠い昔のことのように思う。
眼鏡を指に引っ掛け、紅茶の香りと味を楽しむ無防備な横顔。彼女の低くやわらかな声が耳に甦る。
――会いたい。いますぐに。
「あの……すみません。ウル・ラドのタビトくんですよね?」
突如として降ってきた声に思考が断ち切られ、反射的に彼はその方を見上げた。すると、ふたりの若い女が頬を上気させてこちらを見つめている。
「あっ!やっぱり!」
マスクを外した顔を見て確信したらしく、ショートヘアの女が上擦った声を出す。
「さっきレジで後ろに並んでたんです。横顔を見たときにもしかしたらって思って」一息にそこまで言ってから、タビトをまじまじと見つめた。「本物だあ……ああ……どうしよう手汗すっごいんだけど」
飲み物の乗ったトレイを手にした女の方は、夢を見ているかのような表情で立ち竦んでいる。ショートヘアの女がそんな彼女の袖を引っ張って、ふたりで顔を見合わせた。頬を更に紅潮させ、心底嬉しそうな笑みを交わしてから再びタビトに向き直る。
「私たち、ウル・ラドがプレデビューしたときからずーっとファンです!」
「わあ……そんなに前から?ありがとう」
「私はタビトくん、この子はアキラくん推しで……」
トレイを持つ手に汗を滲ませつつ言うと、タビトは細かい光を湛えた瞳をそっとほそめる。
「――ああ、雰囲気違うからわかんなかった。このあいだのお渡し会のとき俺の列に並んでくれてたね。あのときは確か……淡いピンクのショルダーバッグ肩に下げて、黒のピーコート着てた。違う?」
「記憶力すごっ!てか認知されてるじゃん!」
言われた本人よりも早く、ショートヘアの女が興奮気味に反応し彼女の背中をばしばしと叩く。
「1年くらい前の握手会のときも来てくれたよね。いつも応援ありがとう」
「こちらこそ、覚えていてくれて嬉しいです。ありがとうございます」
連れの女に比べてずいぶん落ち着いた様子だが、よく見ると耳が真っ赤だ。トレイを持つ手も小刻みに震えている。
「あの……よかったらサインもらえませんか?」
「もちろん」
タビトは微笑を絶やさないまま頷いて、
「なにか書くものある?持ってなくて……」
「は、はい。えっと……」
トレイを横のテーブルに置いて、鞄からペンケースとメモ帳を取り出す。仕事で使用しているのだろうか、表紙がぼろぼろだ。彼女は初めて恥ずかしそうな顔をして、白紙のページまでめくったメモ帳とボールペンを差し出す。
彼は慣れた様子で、そこにさらさらとサインを書いた。
「名前を聞いてもいい?」
「ハルカです」
「ハルカさん……」つぶやきながら名前を書き入れる。「ハルカさんのお友達は……俺のサイン、いらないかな?アキラ推しなんだよね?」
ふふといたずらっぽく笑って小首を傾げる。彼女はぶんぶん音がしそうなほど頭を左右に振って、
「いりますいります!くださいサイン!」
すでに手の中に用意していたサインペンと――ビニールポーチをタビトに渡す。
「あ、これ……去年のツアーグッズだ」
「メイク道具入れて毎日使ってます!」
「嬉しいな……ありがとう」
酷評され売れ行きが悪かったものでも、こうして愛用してくれている人がいるのだ。それを目の当たりにし、喜びと共に複雑な気持ちになる。ペラペラのビニールポーチはすっかりくたびれて、ファスナーの塗装も剥げている。もしウル・ラドのグッズとしてではなく売り出されたとして、彼女がこのクオリティのものを2500円も出して買っただろうか。そう考えると胸が苦しくなる。
「ナツミちゃんへ、でお願いしまーす!できればハートも」
「もー、ナツミったら……」
「ハルカも書いてもらえばよかったのに」
彼はイラストが消えかかっている部分にサインし、言われた通り名前を書いて小さなハートを添える。
「ありがとうございます!ずっと推しはアキラくんだったけど、今日からタビトくん推しになります!」
「アキラに知られたら嫉妬されちゃうな」
タビトは苦笑しながら彼女にサインペンとポーチを返す。そしてハルカの方へ顔を向けると、手を差し出した。
「さっきのメモ帳とボールペン、もう一回貸してくれる?」
意図が分からず困惑しつつも、彼女は言われた通り手渡す。彼はさきほどサインしたページを開き、名前の横にハートマークを付け足す。
それを見たハルカは感極まったような顔のままメモ帳とペンを受け取った。そんな彼女に微笑むと、タビトはふたりに顔を近づけるよう手で促す。
「今日のことは誰にも言わないで。もちろんSNSに投稿するのもダメだよ。俺たちだけの秘密。――いい?」
ひそめた甘い声で言い聞かせると、ふたりは化粧越しでもわかるほど顔を真っ赤に染めたまま何度も頷く。
「ハルカさんとナツミさん。またどこかで会えたらいいね」
彼はほとんど口を付けていないコーヒーを手に立ち上がると、返却台に置いて店を後にした。
澄んだ濃紺の空に浮いた月が、ビル群の上の方で見え隠れしている。タクシーを拾おうかと一瞬考えたが結局2駅分歩き、いつもコーヒーを買っているカフェの前まで来た。
このまま帰る気にもなれず、彼はポケットからマスクを取り出し耳にかけると、ドアを引き開ける。
「いらっしゃいませ」
朝に寄るといつもいる大学生ではなく、ベテランらしい貫禄の男がレジに立っていた。
「ドリップコーヒーをショートサイズで……お願いします」
冬場でもアイスコーヒーにこだわるタビトだが、めずらしくホットを頼む。体の芯から冷え切っていた。
注文したものが出てくるのを待っているあいだ、店内を見るともなしに眺めた。22時を回った店内は客足もまばらで、ゆったりとした時間が流れている。
コーヒーを受け取って、窓に沿って並んでいるソファ席の一番隅に座った。離れたところに、ひとりで小説を読んでいる若い男と、サンドイッチを頬張っているサラリーマン。その彼の斜め後ろのカウンター席に男女が隣同士で座り、鼻先が触れそうなくらい顔を近づけて話し込んでいる。
タビトはテーブルで湯気を立てているコーヒーを、しばらくのあいだぼんやりと眺めていた。ポケットに入れたスマホがさっきから断続的に振動しているが、画面を見る気になれない。電話をかけてきているのが誰なのかはわかっている。
彼はマスクを顎の下におろして、ようやくカップに口を付けた。熱さに思わず顔をしかめながら、チカルと一緒に飲んだ紅茶を思い出す。表情には出さなかったが、あのときも舌先をやけどした。幸福に満たされたわずかな時を、遠い昔のことのように思う。
眼鏡を指に引っ掛け、紅茶の香りと味を楽しむ無防備な横顔。彼女の低くやわらかな声が耳に甦る。
――会いたい。いますぐに。
「あの……すみません。ウル・ラドのタビトくんですよね?」
突如として降ってきた声に思考が断ち切られ、反射的に彼はその方を見上げた。すると、ふたりの若い女が頬を上気させてこちらを見つめている。
「あっ!やっぱり!」
マスクを外した顔を見て確信したらしく、ショートヘアの女が上擦った声を出す。
「さっきレジで後ろに並んでたんです。横顔を見たときにもしかしたらって思って」一息にそこまで言ってから、タビトをまじまじと見つめた。「本物だあ……ああ……どうしよう手汗すっごいんだけど」
飲み物の乗ったトレイを手にした女の方は、夢を見ているかのような表情で立ち竦んでいる。ショートヘアの女がそんな彼女の袖を引っ張って、ふたりで顔を見合わせた。頬を更に紅潮させ、心底嬉しそうな笑みを交わしてから再びタビトに向き直る。
「私たち、ウル・ラドがプレデビューしたときからずーっとファンです!」
「わあ……そんなに前から?ありがとう」
「私はタビトくん、この子はアキラくん推しで……」
トレイを持つ手に汗を滲ませつつ言うと、タビトは細かい光を湛えた瞳をそっとほそめる。
「――ああ、雰囲気違うからわかんなかった。このあいだのお渡し会のとき俺の列に並んでくれてたね。あのときは確か……淡いピンクのショルダーバッグ肩に下げて、黒のピーコート着てた。違う?」
「記憶力すごっ!てか認知されてるじゃん!」
言われた本人よりも早く、ショートヘアの女が興奮気味に反応し彼女の背中をばしばしと叩く。
「1年くらい前の握手会のときも来てくれたよね。いつも応援ありがとう」
「こちらこそ、覚えていてくれて嬉しいです。ありがとうございます」
連れの女に比べてずいぶん落ち着いた様子だが、よく見ると耳が真っ赤だ。トレイを持つ手も小刻みに震えている。
「あの……よかったらサインもらえませんか?」
「もちろん」
タビトは微笑を絶やさないまま頷いて、
「なにか書くものある?持ってなくて……」
「は、はい。えっと……」
トレイを横のテーブルに置いて、鞄からペンケースとメモ帳を取り出す。仕事で使用しているのだろうか、表紙がぼろぼろだ。彼女は初めて恥ずかしそうな顔をして、白紙のページまでめくったメモ帳とボールペンを差し出す。
彼は慣れた様子で、そこにさらさらとサインを書いた。
「名前を聞いてもいい?」
「ハルカです」
「ハルカさん……」つぶやきながら名前を書き入れる。「ハルカさんのお友達は……俺のサイン、いらないかな?アキラ推しなんだよね?」
ふふといたずらっぽく笑って小首を傾げる。彼女はぶんぶん音がしそうなほど頭を左右に振って、
「いりますいります!くださいサイン!」
すでに手の中に用意していたサインペンと――ビニールポーチをタビトに渡す。
「あ、これ……去年のツアーグッズだ」
「メイク道具入れて毎日使ってます!」
「嬉しいな……ありがとう」
酷評され売れ行きが悪かったものでも、こうして愛用してくれている人がいるのだ。それを目の当たりにし、喜びと共に複雑な気持ちになる。ペラペラのビニールポーチはすっかりくたびれて、ファスナーの塗装も剥げている。もしウル・ラドのグッズとしてではなく売り出されたとして、彼女がこのクオリティのものを2500円も出して買っただろうか。そう考えると胸が苦しくなる。
「ナツミちゃんへ、でお願いしまーす!できればハートも」
「もー、ナツミったら……」
「ハルカも書いてもらえばよかったのに」
彼はイラストが消えかかっている部分にサインし、言われた通り名前を書いて小さなハートを添える。
「ありがとうございます!ずっと推しはアキラくんだったけど、今日からタビトくん推しになります!」
「アキラに知られたら嫉妬されちゃうな」
タビトは苦笑しながら彼女にサインペンとポーチを返す。そしてハルカの方へ顔を向けると、手を差し出した。
「さっきのメモ帳とボールペン、もう一回貸してくれる?」
意図が分からず困惑しつつも、彼女は言われた通り手渡す。彼はさきほどサインしたページを開き、名前の横にハートマークを付け足す。
それを見たハルカは感極まったような顔のままメモ帳とペンを受け取った。そんな彼女に微笑むと、タビトはふたりに顔を近づけるよう手で促す。
「今日のことは誰にも言わないで。もちろんSNSに投稿するのもダメだよ。俺たちだけの秘密。――いい?」
ひそめた甘い声で言い聞かせると、ふたりは化粧越しでもわかるほど顔を真っ赤に染めたまま何度も頷く。
「ハルカさんとナツミさん。またどこかで会えたらいいね」
彼はほとんど口を付けていないコーヒーを手に立ち上がると、返却台に置いて店を後にした。
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