よあけ

紙仲てとら

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本編

第62話

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 施錠を解いて玄関に入ると、タビトの靴が脱ぎ捨てられていた。
 チカルはバッグから予定表を取り出しスケジュールを確認する。今日は13時からスタジオで自主練習のはずだが――
 思案顔で予定表を押し込んでスリッパに足を入れると、素早く身支度を済ませてリビングへ入った。厚いカーテンが引かれたままの薄暗い空間に光を灯して見れば、寝室の引き戸が閉まっている。どうやらまだ寝ているようだ。体調でも崩してしまったのだろうか。
 いつ薬が必要になってもいいように、チカルは救急箱の中身を改めて確認しておくことにした。湿布を買い足したときに一度開けたことがあるが、かなり雑然としていたと記憶している。
 彼女はリビングの棚から十字マークの入った木箱を取り出した。蓋を開け覗くと、古くなって変色している絆創膏がまず目に入る。半分ほど使用された風邪薬は2年前に期限切れになっており、同じく使用期限を過ぎている胃薬の箱は封を切られてもいない。
 雑に詰め込まれた包帯と傷薬、ラベルのない軟膏……消毒薬は開封済みのものと未開封のものがあり、開封済みの方はすこし蓋が開いたままになっていたせいですっかり蒸発し空っぽだ。鎮痛剤は最近買ったものとみえる。すこし前に補充しておいた湿布は何枚か使用された形跡があった。
 頭痛薬や湿布、テーピングなど使えるものは残しておき、使用期限の切れた薬は誤飲を防ぐために箱の外に出しておいた。いつのものだかわからない埃まみれの軟膏や変色した絆創膏も、もう入れておかない方がいいだろう。
 薬類も他の生活必需品と同様補充対象であるが、これらはスタッフの判断で買い揃えたり補充するのではなく家主が必要なものをその都度、口頭やメモで伝えることになっている。これは会社が定めた規則だ。数年前に薬剤に関してのトラブルがあったといい、それ以降このルールが施行されることとなった。
 鎮痛剤が常備され、湿布やテーピングが使われているのを見ると、彼の職業は怪我がつきものらしい。必要なときにきちんとセルフケアができるように、救急箱の中身もこちらが管理できたらよいのだが――もどかしく思いながらそれを元の場所に戻す。
 そのとき寝室の扉が開き、寝ぐせ頭のタビトがのそのそと出てきた。
「おはようございます」
 チカルが声を掛けると、むくんだ顔を手のひらで擦りつつタビトも挨拶を返す。
「おはようございます……」
 フードを深くかぶった彼は、ぺこりと頭を下げた。チカルは口を開きかけたが、言葉を選んでいるうちに彼はバスルームの方へ歩いて行ってしまう。
 見たところ、体調が悪いわけでも怪我をしているわけでもなさそうだが――彼女は、いつもとどこか違う彼の態度を気にしつつ寝室に入った。
 ブラインドを開いて陽を入れ、掛け布団をどかし、シーツを剥がす。彼の香りがいつもよりも濃く漂う。まだ温もりが残っているシーツと枕カバーを丸めて抱えると、足早に洗面脱衣室へ向かった。
 彼は洗面台に向かい、気だるそうな表情で歯を磨いている。鏡越しに目が合ったが、チカルはすぐに視線を逸らして、腕の中のものを洗濯機に押し込んだ。手際よく洗剤と柔軟剤を投入すると、まだタビトに見つめられていると気付いて顔を上げる。
 動きをとめ、じっと辛抱強く言葉を待っている彼女を前に、タビトは焦った。つい見つめてしまっただけで何も用事はない。
「あの……遠慮せずなんでもお申し付けください」
 その心遣いに首をぶるぶると横に振った彼は、歯磨き粉だらけの口でもごもごと弁解する。不明瞭な言葉がきちんと伝わったのか定かではないが、チカルはいつもの調子で言った。
「なにかあればいつでもお声がけくださいね」
 こくこくと頷いた彼を見つめて軽く一礼し、扉へと歩きかけてからふと立ち止まる。
「本日13時からご予定があったはずですが……。お体の方は大丈夫でしょうか」
 タビトが答える前に、チカルは言葉を続ける。
「体調が優れずお休みになっているのかと思いまして――先ほど救急箱の中身を確認したのですが、風邪薬と胃薬の使用期限が切れていました。絆創膏は古くなっていましたし、滅菌ガーゼもありません。薬や応急手当用品が早急に必要であれば買ってまいりますが……いかがいたしましょう」
 その言葉を聞き、タビトはいつかのやりとりを思い出す。あのときも体調のことを気遣ってくれた。その気持ちがどれほどありがたかったことか。
 彼はようやく歯磨き粉を洗面台に吐き出して口をすすぐと、
「……大丈夫です。体は別にどこも悪くないんだ」
 タオルで口元を拭いながらかぶりを振る。
「ただ、ちょっと疲れが溜まってて……ずっと寝てたんです。気付いたらこんな時間で」
 そう言って目を細めたキツネのように愛らしく笑ったが、明らかにいつもの調子ではない。どこがどうとははっきり説明できないが、とにかく変だ、とチカルは思った。
 洗顔を済ませたタビトの背中を密かに見遣る。いつもよりも口数少ない彼の様子を気にかけながらも、水回りを掃除したり洗濯物を片付けたりと忙しなく働いた。
 空のランドリーバスケットを抱え、ドライルームから戻ってきた彼女はほとんど無意識にタビトを視界に入れる。
 ずっとソファに座っているがテレビを見るわけでもスマホをいじるわけでも本を読むでもない。心ここにあらずの状態で、ただぼんやりとしている姿を見かねたように――彼女は遠くから声を掛けた。
「なにかお飲み物でもご用意しましょうか」
 わずかに目を瞠った顔をこちらに向け、こくりと頷いたタビトを見届けてからキッチンに入る。吊り戸棚を開けると、試供品らしいインスタントコーヒーのスティックと未開封の紅茶の缶を見つけた。次に冷蔵庫のなかを覗く。
「温かいものと冷たいもの、どちらになさいますか。ご用意できるのはコーヒー、紅茶、無糖の炭酸水、野菜ジュース……」
「紅茶がいいな」
 足音と共に声が近くで聞こえたのでその方に顔を向けると、彼はコンロ下の棚からケトルを取り出したところだった。
「座っていてください。私がやりますから」
 制止する声を聞かず、それに水を入れて火にかける。こちらを無視しててきぱきと準備している姿を、チカルは途方に暮れたような顔で見つめた。
「紅茶は好き?」
 食器棚を開けて中を探っているタビトに突然訊ねられ、我に返った彼女は反射的に頷く。
「こっち、チカルさんの分ね」
 取り出したふたつのマグカップのうち、淵の部分にかわいいクマが整列している方をチカルに見せると、にこりと笑った。
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