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本編
第58話
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アジフライを口いっぱいに頬張っていたチカルはごくりと喉を鳴らし、
「おかげさまで元気です。毎日忙しそうですけれど……」
「シュンヤって誰?チカルちゃんの旦那?」
マミヤが会話に割って入ってくる。
「旦那って言いたいとこだけど恋人だよ」答えたナルカミは深い溜息をつき、「あいつもいい加減、身を固めりゃいいのにな。いつまでも独身気分でふらふらして」
それに対してチカルはどうとも応えない。代わりにコハラが肩を竦めつつ言う。
「別にいいじゃないの。結婚がすべてじゃないんだし」
「あいつは昔から優柔不断なところがあるんだよ。だらだら先延ばしにしてるだけだとしたらチカルさんがかわいそうじゃないか。ここは俺がシュンヤにがつんと言って――」
「おせっかいはダメよ。当人同士の問題なんだから」
「てかさ、離婚経験者になに言われても響かねえって」
コハラとマミヤから畳みかけるように言われた彼は思わず、ぐっと息を呑む。
「結婚するのも自由だし、しないのも自由よね」ジョッキ片手にコハラはつぶやいて、「上の娘も36になるけど、彼氏との結婚は考えてないから孫は期待しないでって言われちゃった。結婚した下の娘たちも子どもはつくる予定ないって。私も夫も、孫の顔が見たいなんて催促したことないのに……他の誰かからなにか言われたから私に対して予防線張ったのかもしれないなって思ったら、なんだかかわいそうになっちゃったわ」
「孫かあ……。期待しないでなんて、そうはっきり言われちゃうと寂しいもんですよね。催促こそしなくてもお孫さんを楽しみにしてたんでしょ?」
ナルカミの言葉にコハラは、かぶりを振る。
「こう言うとみんなに、強がりだって笑われるんだけど……孫が欲しいから子どもを産んだわけじゃないし、期待していたわけじゃないのよ。事実婚となると周りから甲斐性なしって言われたり、結婚したら子を持って当たり前みたいな風潮はまだありますけれどね、そういう声なんか無視して、娘たちには自由に生きていってもらいたいわ。もちろんチカルちゃんも含めてね」
コハラはチカルの丸い肩を抱き、柔和な顔に笑みを刻む。
「時代は変わっていくものだし、私たちの世代も考え方を改めていかないと。ね?ナルカミ先生」
彼女はチカルを実の娘のように可愛がっていた。チカルもまたコハラを母のように思い、慕っている。信頼する気持ちにおいては実の母に対してより強いかもしれなかった。
「時代か……」
うわごとのようにナルカミが口にする。
「アップデートできない昭和の男は出る幕なしってやつすね」
マミヤの口から放たれた言葉に胸を突き刺され、彼はまたもやぐうの音も出ない。
「俺も同棲して2年くらい経つけど、結婚なんて考えたこともねえなあ」
「なんだよ!おまえも同棲してんのか?」
「話してませんでしたっけ」
しれっと言うマミヤを驚愕の目で見つめていたが、やがて大きく溜息をつくと顔を手で覆う。
「ひとり暮らしの侘しさを味わってんのは俺だけかよ……」
「あら。先生ったら、意外とさみしがりなのねえ」
「夫婦でも友達でも恋人でも、いざというときに頼れる誰かが家にいるってうらやましいよ。離婚直後は自由気ままもいいもんだと思ったけどさ。年々さみしさが身に染みるっていうか」
「もう7年?8年くらい経つかしら?」
コハラが宙で計算しながら言う。彼は頷き、
「今年で8年。時間が経つのって早いですよねえ、ほんと……」刺身を醤油につけながらぼんやりと続ける。「うちの双子、もう15歳だぜ?ちょっと前まであんなに小っちゃかったのに」
「定期的に会えてるの?」
「月に2、3回かな。円満離婚だし、会いたいときにいつでも会えるんだけど……向こうにもパートナーがいるからさ。頻繁に遊びに連れ出すのもなんか気が引けて」
元妻の現在のパートナーは女性である。そして彼女もまた離婚経験のある子持ちだ。
3年ほど前に都会を離れ、北関東の山間にある村に移住――安く購入した築100年以上の古民家をリフォームし、ふたりで協力し合いながら4人の子どもを育てているという。
「それに、ここのところ都心に遊びに連れてくことにあんまりいい顔しないんだよね」
「どうして?」
「詳しくは教えてもらえなかった。でも前に子どもたちが、田舎より東京の方がおもしろいみたいなことを俺に言ってたから、元妻にも同じようなことを言ったのかもしれない。だからってことはないけどさ、近頃は山とか海に連れてってるよ。魚釣りしたりバーベキューしたり」
会話が途切れたとき、誰かのスマホが振動する音が響いた。
「あ、ちょっとごめんなさい」
コハラは震えているスマホをバッグから取り出し、液晶を覗き込んでから耳に当てる。座敷を出ていく彼女の声を聞くともなしに聞きながら、ナルカミが言った。
「チカルさん、たまには地元に帰ってるの?」
「いえ……最近は時間があまり取れなくて。先輩は?」
「俺もなかなかね。でもそういうときに限って故郷の空気が恋しくなるんだよな。子どもたちと北関東の自然の中で遊んでると、あの村を囲む山岳と清流を思い出すよ」
「私も父の命日には故郷に思いを馳せます……先輩と父と3人で、よく山登りに行きましたね」
「親父さんが撮影した鳥の写真、まだ部屋に飾ってあるよ」
「ああ……ルリビタキですね。みんなで見つけた青い鳥……」
彼は深く頷いて、
「あの日が3人での最後の登山だった……――亡くなってからもう20年以上経つんだな」
通話を終えたコハラが席に戻ってくる。すこし険しいその顔を見上げて、ナルカミは訊ねた。
「旦那さんと連絡ついたんですか?」
「ええ、ようやくね。ちょっと昼寝するつもりが夕方まで寝ちゃったんですって。それから犬の散歩とか夕飯の買い物に行ったりしてて私からの連絡になかなか気付かなかったみたい。あの人、すぐスマホ忘れて出掛けちゃうから困るのよね」深い溜息をつき、「去年定年退職してから毎日こんな感じなのよ。嫌になっちゃう」
「再就職するんじゃなかったっけ。暇だとボケるからって」
「それが全然。一般事務の面接にことごとく落ちてすっかり自信をなくしちゃったみたいでね。シルバー人材にでも登録したら?って話したんだけど、なかなか首を縦に振ってくれないのよ。清掃スタッフとかチラシ配りとかいろいろあるのに」
「まあ……清掃関係は嫌がる人も多いよな。特に男はさ」
「どうせつまらないプライドなのよ。スーツを着て40年以上企業勤めしてきた人間が作業着で仕事なんて、とか考えてるんでしょ。あの人の普段の言動でわかるわ」
「清掃関係といえばさあ。チカルちゃん、ひとんちを掃除する仕事してたよね?指導員と掛け持ちで」
マミヤはすでに大ジョッキ3杯目を飲み干しているが、まるで素面だ。
「知らねえ家の掃除ってイヤじゃないの?すっげー汚ねえ家とかもあるっしょ?」
「慣れてしまえば何の事はありません」
「男の客とかやばそう。変な奴いたりしねえの?大丈夫?」
「みなさん親切でお優しい方ばかりなので……」
チカルはタビトのことをふいに思い出す。手入れの行き届いた青糸の髪、透き通るような白皙の肌……そして、星をとじ込め瑞々しく輝く夜空色の瞳とを。
「家事代行って、洗濯とかもするのよね?」
そう訊ねたのはコハラだ。頷くチカルを見たマミヤがギョッとした顔をして、
「他人のパンツも洗うの?やば……」
「同性ならまだしも、男性となるとねえ」
引き気味のふたりを前に、彼女は生真面目な顔で言葉を返す。
「男性でも女性でも、特になにも感じませんね……雇用関係ですから」
「さすがチカルさん」
ナルカミは彼らのやり取りに微笑みながら言う。その横でマミヤは勢いよくジョッキを呷り、やけに熱のこもった真剣な目でチカルを見つめた。
「男とふたりっきりになることもあるんだろ?チカルちゃんがなんも意識してなくたって、とんでもねえこと考えてるのもいるからさ……もしなにかあったら言いな?俺がぶん殴ってやっから」
「マミヤ……暴力でなんでも解決しようとするんじゃないよ。うちの道場でなにを学んできたんだおまえは」
「はいはい……。“合気道の真髄は不戦、調和、和合の精神。すなわち魂の学びである”でしょ?わかってますって」
耳にタコができるほど聞かされたんだから、とマミヤは続ける。そしてチカルに再び視線を向けた。
「とにかくなんかあったら相談してよ。チカラになっからさ……もちろん平和なやり方で」
「ありがとう、マミヤ君」
この子犬のように無邪気な青年が、かつて狂犬のごとく周囲に噛みつき暴れまわっていたなんて信じられない気持ちだ。
「というかマミヤよ。チカルさんが六段だってこと忘れてないか?たとえ襲い掛かられたとしたってチカルさんなら返り討ちにしちまうよ」
「段位とチカラの強さは比例しないって言ってたじゃないすか。てかそもそも合気道って実戦向きじゃないし」
「極めてもいないうちに、そうと決めつけないでほしいね」
つくねを齧りつつナルカミが言う。彼がゆったりとした動作でビールを飲み干すのを横目で見ながら、マミヤは冷ややかに吐き捨てた。
「どんなに鍛錬したところで合気道の技だけじゃ勝てないすよ」
「俺に負けたくせに」
「負けてねーし」
ふんと鼻を鳴らし、彼は言葉を継ぐ。
「合気道の関節技とキックボクシングの打撃技、このふたつを習得してる俺がこのメンバーのなかで一番強くね?」
話が妙な方向にずれ始めているのを感じながら、チカルは黙って彼らの話を聞いている。飲みの席ではよくあることだが――彼らふたりの顔から先ほどまでの柔らかさが消えている。どことなく雲行きが怪しくなってきた。
「そういうことは俺から『参った』って言葉を引き出してから言えよ」
「――わかった。じゃあ俺とナルカミせんせーは今のところ引き分けってことで」
「最強を語るなら先生の前に私を倒さないとね、マミヤ君」
「コハラさんは論外」
「なによ失礼ね。おばさんを甘くみると痛い目に合うわよ」
彼女の不服そうな声を聞くも相手にせず、マミヤは続ける。
「せんせーさえ倒せば俺が最強。はやく白黒つけてーな」
「仮に俺がおまえに負けたとしたって、まだチカルさんがいるだろ。最強を名乗るのは早いぞ」
「チカルちゃん?」彼は冷笑し、「いくら強いっていったって負ける気しねーよ」
「負けないだって?本気で勝てると思ってんのか?……おまえなあ……」
ナルカミは呆れ果てたように盛大な溜息をついたが、その口元は笑っている。
「――まあ、せいぜい吠えておけよ」
そう意味深に言う彼の横顔を睨んだマミヤの瞳に、危険な炎がちらついたのをチカルは見逃さない。とっさにナルカミを見て唇を開きかけたが、彼女が声を発するより早く、彼は続けて言う。
「チカルさんはヤスケ先生の教えを忠実に守りながら、一心に稽古に励んできた人だからな。強靭な精神力は肉体的な強さに勝る……俺もおまえも敵わないと思うぜ」
「はあ?んなわけねえじゃん」
「闘志を燃やすか怯えるかしている相手とばかりケンカしてきたおまえが、本気モードのチカルさんを前にしたらどんな顔をするかな」
マミヤは不満そうに鼻を鳴らし、ビールをがぶりと呑む。
「ふだんは隠してるってことなんすか?ならいますぐ……チカルちゃんの本気モードってやつ、見てえな」
「おかげさまで元気です。毎日忙しそうですけれど……」
「シュンヤって誰?チカルちゃんの旦那?」
マミヤが会話に割って入ってくる。
「旦那って言いたいとこだけど恋人だよ」答えたナルカミは深い溜息をつき、「あいつもいい加減、身を固めりゃいいのにな。いつまでも独身気分でふらふらして」
それに対してチカルはどうとも応えない。代わりにコハラが肩を竦めつつ言う。
「別にいいじゃないの。結婚がすべてじゃないんだし」
「あいつは昔から優柔不断なところがあるんだよ。だらだら先延ばしにしてるだけだとしたらチカルさんがかわいそうじゃないか。ここは俺がシュンヤにがつんと言って――」
「おせっかいはダメよ。当人同士の問題なんだから」
「てかさ、離婚経験者になに言われても響かねえって」
コハラとマミヤから畳みかけるように言われた彼は思わず、ぐっと息を呑む。
「結婚するのも自由だし、しないのも自由よね」ジョッキ片手にコハラはつぶやいて、「上の娘も36になるけど、彼氏との結婚は考えてないから孫は期待しないでって言われちゃった。結婚した下の娘たちも子どもはつくる予定ないって。私も夫も、孫の顔が見たいなんて催促したことないのに……他の誰かからなにか言われたから私に対して予防線張ったのかもしれないなって思ったら、なんだかかわいそうになっちゃったわ」
「孫かあ……。期待しないでなんて、そうはっきり言われちゃうと寂しいもんですよね。催促こそしなくてもお孫さんを楽しみにしてたんでしょ?」
ナルカミの言葉にコハラは、かぶりを振る。
「こう言うとみんなに、強がりだって笑われるんだけど……孫が欲しいから子どもを産んだわけじゃないし、期待していたわけじゃないのよ。事実婚となると周りから甲斐性なしって言われたり、結婚したら子を持って当たり前みたいな風潮はまだありますけれどね、そういう声なんか無視して、娘たちには自由に生きていってもらいたいわ。もちろんチカルちゃんも含めてね」
コハラはチカルの丸い肩を抱き、柔和な顔に笑みを刻む。
「時代は変わっていくものだし、私たちの世代も考え方を改めていかないと。ね?ナルカミ先生」
彼女はチカルを実の娘のように可愛がっていた。チカルもまたコハラを母のように思い、慕っている。信頼する気持ちにおいては実の母に対してより強いかもしれなかった。
「時代か……」
うわごとのようにナルカミが口にする。
「アップデートできない昭和の男は出る幕なしってやつすね」
マミヤの口から放たれた言葉に胸を突き刺され、彼はまたもやぐうの音も出ない。
「俺も同棲して2年くらい経つけど、結婚なんて考えたこともねえなあ」
「なんだよ!おまえも同棲してんのか?」
「話してませんでしたっけ」
しれっと言うマミヤを驚愕の目で見つめていたが、やがて大きく溜息をつくと顔を手で覆う。
「ひとり暮らしの侘しさを味わってんのは俺だけかよ……」
「あら。先生ったら、意外とさみしがりなのねえ」
「夫婦でも友達でも恋人でも、いざというときに頼れる誰かが家にいるってうらやましいよ。離婚直後は自由気ままもいいもんだと思ったけどさ。年々さみしさが身に染みるっていうか」
「もう7年?8年くらい経つかしら?」
コハラが宙で計算しながら言う。彼は頷き、
「今年で8年。時間が経つのって早いですよねえ、ほんと……」刺身を醤油につけながらぼんやりと続ける。「うちの双子、もう15歳だぜ?ちょっと前まであんなに小っちゃかったのに」
「定期的に会えてるの?」
「月に2、3回かな。円満離婚だし、会いたいときにいつでも会えるんだけど……向こうにもパートナーがいるからさ。頻繁に遊びに連れ出すのもなんか気が引けて」
元妻の現在のパートナーは女性である。そして彼女もまた離婚経験のある子持ちだ。
3年ほど前に都会を離れ、北関東の山間にある村に移住――安く購入した築100年以上の古民家をリフォームし、ふたりで協力し合いながら4人の子どもを育てているという。
「それに、ここのところ都心に遊びに連れてくことにあんまりいい顔しないんだよね」
「どうして?」
「詳しくは教えてもらえなかった。でも前に子どもたちが、田舎より東京の方がおもしろいみたいなことを俺に言ってたから、元妻にも同じようなことを言ったのかもしれない。だからってことはないけどさ、近頃は山とか海に連れてってるよ。魚釣りしたりバーベキューしたり」
会話が途切れたとき、誰かのスマホが振動する音が響いた。
「あ、ちょっとごめんなさい」
コハラは震えているスマホをバッグから取り出し、液晶を覗き込んでから耳に当てる。座敷を出ていく彼女の声を聞くともなしに聞きながら、ナルカミが言った。
「チカルさん、たまには地元に帰ってるの?」
「いえ……最近は時間があまり取れなくて。先輩は?」
「俺もなかなかね。でもそういうときに限って故郷の空気が恋しくなるんだよな。子どもたちと北関東の自然の中で遊んでると、あの村を囲む山岳と清流を思い出すよ」
「私も父の命日には故郷に思いを馳せます……先輩と父と3人で、よく山登りに行きましたね」
「親父さんが撮影した鳥の写真、まだ部屋に飾ってあるよ」
「ああ……ルリビタキですね。みんなで見つけた青い鳥……」
彼は深く頷いて、
「あの日が3人での最後の登山だった……――亡くなってからもう20年以上経つんだな」
通話を終えたコハラが席に戻ってくる。すこし険しいその顔を見上げて、ナルカミは訊ねた。
「旦那さんと連絡ついたんですか?」
「ええ、ようやくね。ちょっと昼寝するつもりが夕方まで寝ちゃったんですって。それから犬の散歩とか夕飯の買い物に行ったりしてて私からの連絡になかなか気付かなかったみたい。あの人、すぐスマホ忘れて出掛けちゃうから困るのよね」深い溜息をつき、「去年定年退職してから毎日こんな感じなのよ。嫌になっちゃう」
「再就職するんじゃなかったっけ。暇だとボケるからって」
「それが全然。一般事務の面接にことごとく落ちてすっかり自信をなくしちゃったみたいでね。シルバー人材にでも登録したら?って話したんだけど、なかなか首を縦に振ってくれないのよ。清掃スタッフとかチラシ配りとかいろいろあるのに」
「まあ……清掃関係は嫌がる人も多いよな。特に男はさ」
「どうせつまらないプライドなのよ。スーツを着て40年以上企業勤めしてきた人間が作業着で仕事なんて、とか考えてるんでしょ。あの人の普段の言動でわかるわ」
「清掃関係といえばさあ。チカルちゃん、ひとんちを掃除する仕事してたよね?指導員と掛け持ちで」
マミヤはすでに大ジョッキ3杯目を飲み干しているが、まるで素面だ。
「知らねえ家の掃除ってイヤじゃないの?すっげー汚ねえ家とかもあるっしょ?」
「慣れてしまえば何の事はありません」
「男の客とかやばそう。変な奴いたりしねえの?大丈夫?」
「みなさん親切でお優しい方ばかりなので……」
チカルはタビトのことをふいに思い出す。手入れの行き届いた青糸の髪、透き通るような白皙の肌……そして、星をとじ込め瑞々しく輝く夜空色の瞳とを。
「家事代行って、洗濯とかもするのよね?」
そう訊ねたのはコハラだ。頷くチカルを見たマミヤがギョッとした顔をして、
「他人のパンツも洗うの?やば……」
「同性ならまだしも、男性となるとねえ」
引き気味のふたりを前に、彼女は生真面目な顔で言葉を返す。
「男性でも女性でも、特になにも感じませんね……雇用関係ですから」
「さすがチカルさん」
ナルカミは彼らのやり取りに微笑みながら言う。その横でマミヤは勢いよくジョッキを呷り、やけに熱のこもった真剣な目でチカルを見つめた。
「男とふたりっきりになることもあるんだろ?チカルちゃんがなんも意識してなくたって、とんでもねえこと考えてるのもいるからさ……もしなにかあったら言いな?俺がぶん殴ってやっから」
「マミヤ……暴力でなんでも解決しようとするんじゃないよ。うちの道場でなにを学んできたんだおまえは」
「はいはい……。“合気道の真髄は不戦、調和、和合の精神。すなわち魂の学びである”でしょ?わかってますって」
耳にタコができるほど聞かされたんだから、とマミヤは続ける。そしてチカルに再び視線を向けた。
「とにかくなんかあったら相談してよ。チカラになっからさ……もちろん平和なやり方で」
「ありがとう、マミヤ君」
この子犬のように無邪気な青年が、かつて狂犬のごとく周囲に噛みつき暴れまわっていたなんて信じられない気持ちだ。
「というかマミヤよ。チカルさんが六段だってこと忘れてないか?たとえ襲い掛かられたとしたってチカルさんなら返り討ちにしちまうよ」
「段位とチカラの強さは比例しないって言ってたじゃないすか。てかそもそも合気道って実戦向きじゃないし」
「極めてもいないうちに、そうと決めつけないでほしいね」
つくねを齧りつつナルカミが言う。彼がゆったりとした動作でビールを飲み干すのを横目で見ながら、マミヤは冷ややかに吐き捨てた。
「どんなに鍛錬したところで合気道の技だけじゃ勝てないすよ」
「俺に負けたくせに」
「負けてねーし」
ふんと鼻を鳴らし、彼は言葉を継ぐ。
「合気道の関節技とキックボクシングの打撃技、このふたつを習得してる俺がこのメンバーのなかで一番強くね?」
話が妙な方向にずれ始めているのを感じながら、チカルは黙って彼らの話を聞いている。飲みの席ではよくあることだが――彼らふたりの顔から先ほどまでの柔らかさが消えている。どことなく雲行きが怪しくなってきた。
「そういうことは俺から『参った』って言葉を引き出してから言えよ」
「――わかった。じゃあ俺とナルカミせんせーは今のところ引き分けってことで」
「最強を語るなら先生の前に私を倒さないとね、マミヤ君」
「コハラさんは論外」
「なによ失礼ね。おばさんを甘くみると痛い目に合うわよ」
彼女の不服そうな声を聞くも相手にせず、マミヤは続ける。
「せんせーさえ倒せば俺が最強。はやく白黒つけてーな」
「仮に俺がおまえに負けたとしたって、まだチカルさんがいるだろ。最強を名乗るのは早いぞ」
「チカルちゃん?」彼は冷笑し、「いくら強いっていったって負ける気しねーよ」
「負けないだって?本気で勝てると思ってんのか?……おまえなあ……」
ナルカミは呆れ果てたように盛大な溜息をついたが、その口元は笑っている。
「――まあ、せいぜい吠えておけよ」
そう意味深に言う彼の横顔を睨んだマミヤの瞳に、危険な炎がちらついたのをチカルは見逃さない。とっさにナルカミを見て唇を開きかけたが、彼女が声を発するより早く、彼は続けて言う。
「チカルさんはヤスケ先生の教えを忠実に守りながら、一心に稽古に励んできた人だからな。強靭な精神力は肉体的な強さに勝る……俺もおまえも敵わないと思うぜ」
「はあ?んなわけねえじゃん」
「闘志を燃やすか怯えるかしている相手とばかりケンカしてきたおまえが、本気モードのチカルさんを前にしたらどんな顔をするかな」
マミヤは不満そうに鼻を鳴らし、ビールをがぶりと呑む。
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