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本編
第55話
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ホズミに促され楽屋に向かう途中、映像クリエイターのイチノセに呼び止められすこし立ち話をした。彼と仕事をしたことは何度もあり、CMだけでなくミュージックビデオ制作の際も世話になっている。
「メイクさん変わった?」
アキラを呼び止めた彼の第一声はこれだった。鋭い眼差しを真正面から受けたアキラは黙って頷く。
「やっぱり……」彼は溜息と共に首を横に振り、「なんかおかしいと思った」
「どうしてわかったの?」
「こっちが注文したイメージとかけ離れてたから。ありゃだいぶ修正入れないと駄目だな」
「――かけ離れてる?」
アキラは静かな声音で問う。特別な表情の変化はないが、タビトには彼の秘めている怒りがひしひしと感じられた。
「中性的で繊細なイメージが強すぎて、今回のCMコンセプトから明らかに外れてるんだよ。もうすこし濃いめのメイクにして目力を強調してほしかったんだけど……」
イチノセと別れたあと、アキラは肩を揺らして笑い出した。彼は怒り心頭に発するといつもこうして笑うのだ。
彼らが楽屋の扉を開けると、撮影を終えたヤヒロが一足先に戻ってきており、熊のような大男と話をしていた。筋骨隆々なせいか、スーツが窮屈そうだ。
ふたりが部屋に入ってきたことに気付いた彼は巨躯を丸めてぺこぺことお辞儀をしながら、
「お世話になっております!わたくし、アオフジ飲料広報部のヒメザキと申します。この度は弊社のコマーシャル撮影依頼をお引き受けいただきまして、誠にありがとうございます!」
一息に言うと、大きな手に握りしめていた名刺ケースから一枚取り出す。緊張しているのか、差し出した名刺がぶるぶると震えている。アキラとタビトそれぞれに配ると、彼はポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭いた。
「俺たちのファンなんだってよ」ヤヒロがめずらしく優しい声音で言って、「CMのキャスティング会議のときに猛プッシュしてくれたらしい」
「新商品のキャッチフレーズが『振り向くな。突き進め』なので――いつも活動を拝見させていただいてですね、ここはウル・ラドさんしかいないだろうと」
余裕のない早口で言いながら彼は、長テーブルに並べられた新商品を丸々とした手で取る。表情を引き締めてひとつ小さく咳払いし、
「こちら、甘味のある優しい口当たりでありながらもシトラスとミントの余韻で後味はキリっと爽やか!そんなエナジードリンクとなっております!社会に搾取されることに抗い闘う若者たちがこれを飲んで、弱りかけた心と体を奮い立たせるというのがコマーシャルのコンセプトでありまして……ええとつまり、前進していくパワーをチャージして力強く歩む、この勢いを表現できるのはウル・ラドさん以外におりませんということです!」
強面を赤く染めながらまくしたてると、また額の汗を拭う。衣装の薄さに合わせて暖房の設定温度は高めにしてあるが、この男の場合は緊張のせいもあるだろう。
「ありがとうございます、ヒメザキさん」
アキラは花が咲くように美しく微笑む。その顔を向けられたヒメザキは感極まった様子で口元を覆い、もう声も出ない様子だ。
タビトはこの部屋に入った瞬間から、憤怒の形相をアイドルの仮面の下に隠している。茹で蛸のように真っ赤になっているヒメザキを覗き込んで柔和な微笑みを口角に刻むと、
「よかったらサインしましょうか」
気さくな口調で言って、適当なものはないかと周りを見回した。それを聞いたヒメザキはあたふたしながら鞄を探る。
なぜそんなものを持ち歩いているのだろうか――彼の鞄から取り出されたのは初回限定盤の1stシングルだった。100枚しか生産されていないDVD付きシングルで、ファンのあいだではレア物となっている。懐かしさに表情を輝かせる3人を前に、ヒメザキは言う。
「あのっ……できればこちらにサインをお願いできませんでしょうか!
「もちろん」タビトはとびきりの笑顔で受け取り、「誰推しとか、ありますか?初めてのサインはそのメンバーからもらいたいですよね」
「箱推しです!」
つぶらな瞳をきらきらさせながら鼻息荒く答える。
「あえて言うなら?」
「ええっ……その質問は困りますよお!」
恥じらうその姿は、多くの女性ファンとさして変わらない。
タビトは初回限定盤にしかついていないフォトブックレットを取り出し、くたびれて破れそうになっている折り目をまじまじと見ながら瞳を細める。
「なんども開いて眺めてくれたんですね。ありがとうございます」
「みなさんのビジュアルがすばらしくて時間があれば見てました。歌詞が英語なので翻訳しながら聴いたりとかも」
「わ、よく見たらケースも傷だらけじゃん」
ヤヒロがプラスチックケースを天井の光に透かす。
「このCDの発売を記念した初めてのサイン会に当選していたのですが――自分が仕事で失敗したせいでその日に出勤しなければならなくなってしまって、行けなかったんです。これを見ると当時の思いが甦って、ミスしないぞ!って気合いが入るので、おまもりみたいにずっと持ち歩いています」
「サインしたら満足しちゃって、おまもりとしての効果がなくなるんじゃねえの?」
ヤヒロが横目でヒメザキを見て、にやにやしながらからかう。
「いや!ますます頑張ります!」
顔を紅潮させたまま声高に宣言する。アキラはスタッフから借りてきたペンのキャップを外し、自分の写真のページにさらさらとサインを書きながら言った。
「CDが売れない時代になったけど、こうやって手元で大切にしていてもらえるとやっぱり形にしてリリースしたいなって思うね」
「そうだな」
ペンを受け取ったヤヒロが、頷きつつ言葉を継ぐ。
「でもパッケージ版はサイン会のために作ってるだけみたいになってるだろ。今は特典とかの付加価値がなきゃCDなんか買わねえんだよな……ストリーミングとかダウンロードで満足してるファンも一定数いるみたいだしよ」
「――ファンとしてどう?デジタルシングルとかアルバムって」
タビトの眼差しがヒメザキに注がれる。
写真の加工技術が高くなり、アイドルを実物で見るとがっかりするという声も聞くが――彼らはメディアで見る以上の美しさである。なかでも特にタビトは魅力的だ……ヒメザキは繊細な彼の造形に見惚れる。
淡白な顔立ちから感じられる気品と色気。きめ細かい肌と、青白い光を帯びた硝子玉のようにつややかな双眸。その漆黒の虹彩に吸い込まれそうになりながら、彼はごくりと喉を鳴らし、震える唇を開いた。
「え、あ、その……デジタル配信もいいと思います。手元に残したいって思う自分みたいなファンにとってはCDでのリリースは嬉しいですけど……デジタル配信なら、ウル・ラドさんに興味を持ち始めた人が気軽に聴きやすいでしょうし……」
しどろもどろになるヒメザキをからかうことなく、3人は真剣な顔で彼の言葉に聞き入った。
「自分は、みなさんがそうすると決めたことについて行くだけです。どんな形のリリースでもウル・ラドさんの曲が最高なのは変わらないので」
そのとき、ヒメザキのすぐ後ろのドアが開きセナが入ってくる。
「うわっ!」
視界をさえぎる大きな背中に驚き声を上げた彼と同じく――いや、それ以上に驚いたらしいヒメザキが飛び退く。意図せずヤヒロの顔が目の前に迫り、今度は声にならない悲鳴をあげた。危うく気絶しそうになっている彼の胸元を手で押し、
「近い近い」
ヤヒロはそう言いながら笑う。これがメンバーだったなら激怒しているところだ。今日のヤヒロは誰の目にも穏やかで別人のように見える。
彼はファンによって態度を微妙に変えている。とはいえそれは決して悪い意味ではない。ファンが軽口を叩いてくれば近しい友達のように対応するし、引っ込み思案でデリケートなファンには物腰柔らかに接する。母親のように口煩いファンの前では思春期の男子のようにかわいげがない。
ヤヒロというアイドルのイメージは三者三様であったが、ファンのあいだにはひとつの共通認識がある。それは「彼は絶対に不機嫌な顔を見せない」だ。
「メイクさん変わった?」
アキラを呼び止めた彼の第一声はこれだった。鋭い眼差しを真正面から受けたアキラは黙って頷く。
「やっぱり……」彼は溜息と共に首を横に振り、「なんかおかしいと思った」
「どうしてわかったの?」
「こっちが注文したイメージとかけ離れてたから。ありゃだいぶ修正入れないと駄目だな」
「――かけ離れてる?」
アキラは静かな声音で問う。特別な表情の変化はないが、タビトには彼の秘めている怒りがひしひしと感じられた。
「中性的で繊細なイメージが強すぎて、今回のCMコンセプトから明らかに外れてるんだよ。もうすこし濃いめのメイクにして目力を強調してほしかったんだけど……」
イチノセと別れたあと、アキラは肩を揺らして笑い出した。彼は怒り心頭に発するといつもこうして笑うのだ。
彼らが楽屋の扉を開けると、撮影を終えたヤヒロが一足先に戻ってきており、熊のような大男と話をしていた。筋骨隆々なせいか、スーツが窮屈そうだ。
ふたりが部屋に入ってきたことに気付いた彼は巨躯を丸めてぺこぺことお辞儀をしながら、
「お世話になっております!わたくし、アオフジ飲料広報部のヒメザキと申します。この度は弊社のコマーシャル撮影依頼をお引き受けいただきまして、誠にありがとうございます!」
一息に言うと、大きな手に握りしめていた名刺ケースから一枚取り出す。緊張しているのか、差し出した名刺がぶるぶると震えている。アキラとタビトそれぞれに配ると、彼はポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭いた。
「俺たちのファンなんだってよ」ヤヒロがめずらしく優しい声音で言って、「CMのキャスティング会議のときに猛プッシュしてくれたらしい」
「新商品のキャッチフレーズが『振り向くな。突き進め』なので――いつも活動を拝見させていただいてですね、ここはウル・ラドさんしかいないだろうと」
余裕のない早口で言いながら彼は、長テーブルに並べられた新商品を丸々とした手で取る。表情を引き締めてひとつ小さく咳払いし、
「こちら、甘味のある優しい口当たりでありながらもシトラスとミントの余韻で後味はキリっと爽やか!そんなエナジードリンクとなっております!社会に搾取されることに抗い闘う若者たちがこれを飲んで、弱りかけた心と体を奮い立たせるというのがコマーシャルのコンセプトでありまして……ええとつまり、前進していくパワーをチャージして力強く歩む、この勢いを表現できるのはウル・ラドさん以外におりませんということです!」
強面を赤く染めながらまくしたてると、また額の汗を拭う。衣装の薄さに合わせて暖房の設定温度は高めにしてあるが、この男の場合は緊張のせいもあるだろう。
「ありがとうございます、ヒメザキさん」
アキラは花が咲くように美しく微笑む。その顔を向けられたヒメザキは感極まった様子で口元を覆い、もう声も出ない様子だ。
タビトはこの部屋に入った瞬間から、憤怒の形相をアイドルの仮面の下に隠している。茹で蛸のように真っ赤になっているヒメザキを覗き込んで柔和な微笑みを口角に刻むと、
「よかったらサインしましょうか」
気さくな口調で言って、適当なものはないかと周りを見回した。それを聞いたヒメザキはあたふたしながら鞄を探る。
なぜそんなものを持ち歩いているのだろうか――彼の鞄から取り出されたのは初回限定盤の1stシングルだった。100枚しか生産されていないDVD付きシングルで、ファンのあいだではレア物となっている。懐かしさに表情を輝かせる3人を前に、ヒメザキは言う。
「あのっ……できればこちらにサインをお願いできませんでしょうか!
「もちろん」タビトはとびきりの笑顔で受け取り、「誰推しとか、ありますか?初めてのサインはそのメンバーからもらいたいですよね」
「箱推しです!」
つぶらな瞳をきらきらさせながら鼻息荒く答える。
「あえて言うなら?」
「ええっ……その質問は困りますよお!」
恥じらうその姿は、多くの女性ファンとさして変わらない。
タビトは初回限定盤にしかついていないフォトブックレットを取り出し、くたびれて破れそうになっている折り目をまじまじと見ながら瞳を細める。
「なんども開いて眺めてくれたんですね。ありがとうございます」
「みなさんのビジュアルがすばらしくて時間があれば見てました。歌詞が英語なので翻訳しながら聴いたりとかも」
「わ、よく見たらケースも傷だらけじゃん」
ヤヒロがプラスチックケースを天井の光に透かす。
「このCDの発売を記念した初めてのサイン会に当選していたのですが――自分が仕事で失敗したせいでその日に出勤しなければならなくなってしまって、行けなかったんです。これを見ると当時の思いが甦って、ミスしないぞ!って気合いが入るので、おまもりみたいにずっと持ち歩いています」
「サインしたら満足しちゃって、おまもりとしての効果がなくなるんじゃねえの?」
ヤヒロが横目でヒメザキを見て、にやにやしながらからかう。
「いや!ますます頑張ります!」
顔を紅潮させたまま声高に宣言する。アキラはスタッフから借りてきたペンのキャップを外し、自分の写真のページにさらさらとサインを書きながら言った。
「CDが売れない時代になったけど、こうやって手元で大切にしていてもらえるとやっぱり形にしてリリースしたいなって思うね」
「そうだな」
ペンを受け取ったヤヒロが、頷きつつ言葉を継ぐ。
「でもパッケージ版はサイン会のために作ってるだけみたいになってるだろ。今は特典とかの付加価値がなきゃCDなんか買わねえんだよな……ストリーミングとかダウンロードで満足してるファンも一定数いるみたいだしよ」
「――ファンとしてどう?デジタルシングルとかアルバムって」
タビトの眼差しがヒメザキに注がれる。
写真の加工技術が高くなり、アイドルを実物で見るとがっかりするという声も聞くが――彼らはメディアで見る以上の美しさである。なかでも特にタビトは魅力的だ……ヒメザキは繊細な彼の造形に見惚れる。
淡白な顔立ちから感じられる気品と色気。きめ細かい肌と、青白い光を帯びた硝子玉のようにつややかな双眸。その漆黒の虹彩に吸い込まれそうになりながら、彼はごくりと喉を鳴らし、震える唇を開いた。
「え、あ、その……デジタル配信もいいと思います。手元に残したいって思う自分みたいなファンにとってはCDでのリリースは嬉しいですけど……デジタル配信なら、ウル・ラドさんに興味を持ち始めた人が気軽に聴きやすいでしょうし……」
しどろもどろになるヒメザキをからかうことなく、3人は真剣な顔で彼の言葉に聞き入った。
「自分は、みなさんがそうすると決めたことについて行くだけです。どんな形のリリースでもウル・ラドさんの曲が最高なのは変わらないので」
そのとき、ヒメザキのすぐ後ろのドアが開きセナが入ってくる。
「うわっ!」
視界をさえぎる大きな背中に驚き声を上げた彼と同じく――いや、それ以上に驚いたらしいヒメザキが飛び退く。意図せずヤヒロの顔が目の前に迫り、今度は声にならない悲鳴をあげた。危うく気絶しそうになっている彼の胸元を手で押し、
「近い近い」
ヤヒロはそう言いながら笑う。これがメンバーだったなら激怒しているところだ。今日のヤヒロは誰の目にも穏やかで別人のように見える。
彼はファンによって態度を微妙に変えている。とはいえそれは決して悪い意味ではない。ファンが軽口を叩いてくれば近しい友達のように対応するし、引っ込み思案でデリケートなファンには物腰柔らかに接する。母親のように口煩いファンの前では思春期の男子のようにかわいげがない。
ヤヒロというアイドルのイメージは三者三様であったが、ファンのあいだにはひとつの共通認識がある。それは「彼は絶対に不機嫌な顔を見せない」だ。
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