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本編
第49話
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ダイニングテーブルの上に紙袋が置かれていた。
チカルは眠気が残る目をしばたかせ、遠巻きにそれを見つめる。寒そうに首を竦めてルームガウンの前を掻き合わせながらゆっくりと歩みを進めると、食卓の明かりをつけた。
紙袋には「露花堂本舗」と筆文字で書かれている。ここのおかきはチカルの大好物だ。いつもならば袋の中身を想像し瞳を輝かせるところだが、今日はなにやら様子が違う。
たとえ大好物のおかきであったとしても、いまのチカルの表情を明るくするに至らないだろう。それだけ彼女の心は重苦しく沈んでいた。
無造作に放られている紙袋に冷たい視線を当てたままテーブルの横を通って大窓の方に歩み、カーテンを開ける。朝の光に満たされた部屋の中で佇んでいると、ドアの開く音がしてシュンヤが入ってきた。
「おはよう」
チカルは寝ぐせ頭の彼に言う。ケンカ中でも挨拶や返事などの最低限のやりとりはするようにしている。シュンヤもそこは同じだ。
「おはよ」短く答え、テーブルの上の紙袋を手にする。「これ、昨日買ってきた。食えよ」
彼女はずり落ちた眼鏡を指で押し上げつつリビングを横切った。目の前に差し出されている小さな袋を礼を言って受け取り、シュンヤを見上げる。視線が合うと彼はふと笑って、チカルの乱れた髪に指を通すとそのまま優しく梳いた。
「今日、予定なかったら一緒に買い物行かね?新しい通勤鞄が欲しくてさ」
昔から変わらない、仲直りのやりかた。でも今回ばかりは心の霧が晴れない。罵詈雑言を吐き散らかし、一方的に犯したことを悪いと思っているならば、ちゃんと正面切って謝ってほしかった。
謝罪の言葉を聞くまで許すことはできない――胸の裡で渦巻く悲痛な思いに突き動かされ唇を開いたが、声に出すのをためらう。シュンヤの一連の行動からして、過去となった話を蒸し返すことを拒んでいるのは明らかだ。
そもそも真摯な対応を期待するだけ無駄なのかもしれない。こうして物で機嫌を取り、それで手打ちと考えている男が謝罪の言葉など口にするはずがなかった。なにしろ自分の非を認めることを負けと考えているような人だ。同性はもとより、格下の女に負けることを彼は何より嫌う。
自分の女を好きな時に好きなだけ凌辱することを当たり前だと思っているとしたら、自省の念に駆られてすらいないかもしれない。そう思うと更に抵抗の力を奪われた。喉の奥に込み上げる言葉を結局呑み込んで、チカルはただ頷く。
「支度してこいよ。朝メシも外で食おう」
心地よい冬晴れの日。今日もシュンヤはこちらに寄り添うように歩幅を合わせて歩いてくれている。
彼らは最寄り駅の近くにある粥の専門店に入った。ここは朝早くから開いており、店内はすでに満席に近い。窓際の席がちょうど空いたのでそこに座り、メニューを開いた。チカルは薬膳粥、シュンヤは鶏粥を注文する。
「もうすぐ誕生日だよな」
運ばれてきた粥にレンゲをしずめて、シュンヤが言う。
「俺、2月9日は大阪で研修があって一泊することになってるからさ。なにか気に入ったのがあれば今日買ってやるよ」
「いいわよ、べつに……祝われるような歳でもないし」
「俺が祝いたいんだよ」
チカルは困ったような顔で粥を頬張る。ゆっくりと味わいながら、頭の片隅で欲しいものを探すが、特に何もない。しかしそんなことを正直に口にすればまたヘソを曲げられてしまうだろう……彼女はレンゲを口に運びながらしばらく煩悶していたが、なにやら思いついたらしく眉間を開いて言った。
「じゃあ……さっきもらったお菓子に合うおいしい日本茶をお願いしようかな。少し高級な……玉露とか?」
「却下」
「どうして……」
「他にないのかよ。バッグとか靴とか服とかアクセサリーとか」
「そんなこと言われても困る……」
なんでもいいと言いたいのを我慢して、チカルは唸った。誕生日のたびに何が欲しいかと聞かれて15年。もともと物欲がないこともあって、この時間は正直苦痛だ。
「いつも通り、おまかせじゃだめなの?」
「ダメ。だって俺が選んで贈ってもぜんぜん使ってくれないじゃん」文句を垂れつつチカルの上半身を視線でなぞる。「服なんかどう?」
「服か……」
チカルは着てきたスウェットシャツの袖口に目をやる。買ってから3回目の冬だ。ほころびこそないがリブ部分は伸びているし、美しかった黒も色褪せてきている。
クローゼットの中を思い起こしてみるも、入っているのはくたびれたスウェットシャツとワイシャツ、ジーンズ、就活用のスーツ……そして、シュンヤからプレゼントされた服のみだ。彼が選ぶ服は花柄やフリルのついたものばかりで、好みとは真逆である。
チカルは忙しなく粥を啜っている目の前の男を窺い見た。
「――私に選ばせてくれるの?文句言ったりしない?」
レンゲを口に含んだまま何度も頷くのを見た彼女は、微笑を口元に浮かべる。
「うれしい。ありがとう」
彼らは電車を乗り継ぎ、新宿にやってきた。駅前を歩いていると、家電量販店の前でシュンヤが足を止める。店内に吸い込まれるように入っていってしまったのでついて行けば、彼は熱心な眼差しで店頭に陳列されている品々を眺めている。
「電気圧力鍋欲しくない?」
「いらないわ」
「買おう。安くなってるしさ」言いながら山積みになっている商品を手に取って、「ほら、“材料をセットするだけ。ほったらかしでおいしい料理!”だって。料理下手なおまえでもなんとかなるんじゃないの」
パッケージを覗き込んでひとしきり目を通したチカルだったが、首を横に振る。
「使いこなせないかもしれないし、いらない」
「使いこなすもなにもないじゃん。材料切ってぶち込むだけなのに」
簡単だろ?そう言葉を続けて片眉を上げる。
「そんなに言うならシュンヤが作ってよ」
盛大な溜息と共に箱を置いた彼から目を逸らすと、エスカレーターの横にカプセルトイマシンが並んでいるのが見えた。チカルは瞳を輝かせて近づくと、目当てのものを探す。
「チカル……」
背後から低い声がした。
「やめろって。そんなのガキがやるもんだろ。恥ずかしい」
彼の言葉を無視して鞄を探る。
舌打ちするのが聞こえた次の瞬間、彼の手が伸びてきた。財布を取り出すも阻止され、「ほら、行くぞ」そのまま腕を引かれ店の外へと連れていかれてしまう。
「ちょっと……ようやく見つけたやつがあったのに」
腕を振り解いて睨み上げると、シュンヤはあきれたような顔のまま再び彼女の手を握って歩き出した。
「あんなくだらねーのに金出すならメイク道具でも買えよ」
言い返そうとするもあきらめて、チカルは後ろを振り返る。名残惜しそうに、片手に握りしめていたままの財布を鞄にしまった。
休日ともあり、街は人でごった返している。人波をかき分けてチカルが指定した店の前まで来ると、虚ろな目で看板を見上げたシュンヤがさっそくゴネはじめた。
「なあ……やっぱ他の店にしようぜ?」
しかし一度約束を取り付けたチカルは強気だ。彼の手を引っ張ってずんずん歩いていく。誕生日プレゼントを自分で選ぶなんて初めてだ。彼女はわくわくしながら自動ドアをくぐった。
チカルが選んだのは、ファストファッションブランドの店である。
カジュアルな服を多く扱っており、チカル好みなのはわかっているが――シュンヤは唇をへの字に曲げて彼女を見る。
「本当にここでいいの?」
「うん」
チカルは豊富な色で展開されているスウェットシャツを物色しながら頷いて、「文句は言わない約束」とシュンヤを軽く睨む。
「はいはい、わかったよ……」
鼻を鳴らして買い物かごを差し出すと、白と淡い青のスウェットシャツと黒いセーターが放り込まれる。値段は1500円。セール品だ。
「こんな色買うのかよ……ちょっと若い子向けすぎない?」
淡い青の方のスウェットシャツをつまんでチカルを見るが、彼女は「好きな色なの」と言ったきり相手にしない。不満そうな彼を背に別の棚やラックを見て回り、ゆっくりと買い物を続けた。
悩みながらもジーンズを1本選び、お会計を頼んだがシュンヤは首を縦に振ってくれない。なので白いワイシャツを2枚、部屋着を1セットと靴下を籠に追加する。
「もっとないのか?」
「ないわ」
「じゃあ別の店行こう」
「もういいってば」
彼はチカルの言葉を無視してレジに向かってしまう。
そこから半ば強引に連れられてデパート内にあるセレクトショップなどを見て周った。シンプルなセーターやジャケット、手袋とマフラーも新調して、チカルとしては2、3年分の買い物をした気分だ。
最後の店を出たころには陽は落ち、寒さは一層増していたが、店内を歩き回ったチカルの頬は上気している。たくさんの荷物を手分けして持ったふたりは、夜空にほっと息を吐いた。
ほんのりと色づいた桃色の頬をつついて、シュンヤがにんまりと笑う。
「満足した?」
彼女はこくりと頷き、「――ありがとう」袋の中を覗き込み表情を輝かせた。
「俺はもっとかわいい服を選んでほしかったけどなあ。それか色っぽいやつ……胸元がざっくり開いてるニットとかさ」
「もう。そんなことばっかり言って」
シュンヤの腕を肘で小突くと、彼は大袈裟に痛がるふりをする。ふたりは子犬のようにじゃれながら笑い合った。
「そろそろ帰ろっか」
頷いたチカルは足取り軽く歩き出す。その横でシュンヤが思い出したように言った。
「やばい。自分の通勤鞄、買い損ねた」
「私ばっかりごめん。今から買いに行こう」
「いいよ。また今度付き合ってくれれば」
シュンヤは明るく言って笑った。今回もこの笑顔に丸め込まれ、結局最後には彼のことを許してしまうのだろう。惚れた弱みにつけこまれていることを情けなく思いつつ、今日も腹の底で不気味にうごめいている怒りと悲しみから目を逸らす。
地面をさ迷っていた視線がシュンヤをとらえ、チカルはそのまま吸い寄せられるように彼を仰ぎ見た。端整な横顔は青年の頃とさほど変わらないが、年齢を重ねるごとにすこしずつ磨かれていくように思う。老いてなお美しい恋人に羨望のまなざしを注ぐチカルの唇から、ちいさな吐息がこぼれた。
赤ん坊の頃からの幼馴染であり、初恋の相手。そして、あの家から救い出してくれた恩人……どんなにひどい仕打ちを受けようと、およそ40年もの長きにわたり縁を結んできたシュンヤのことをチカルは突き放すことができないでいる。
別れを切り出そうとしたことは何度もあった。しかしシュンヤの笑顔を目の当たりにしたときの幸福感が、彼に負わされた心の傷を覆い隠してしまう。
ときおり向けられる優しさと慈愛は逃げようとする足に甘く絡みつき、彼女の新たな一歩を阻んだ。もがき苦しみながらも離れられず、今年、同棲生活16年目を迎えようとしている。
シュンヤとの生活には常に苦悩が付きまとう。それでも、母と祖母と暮らしていたときよりはずっとましだ。そう言い聞かせて自分を慰めながら、日々は続いていく。
チカルは眠気が残る目をしばたかせ、遠巻きにそれを見つめる。寒そうに首を竦めてルームガウンの前を掻き合わせながらゆっくりと歩みを進めると、食卓の明かりをつけた。
紙袋には「露花堂本舗」と筆文字で書かれている。ここのおかきはチカルの大好物だ。いつもならば袋の中身を想像し瞳を輝かせるところだが、今日はなにやら様子が違う。
たとえ大好物のおかきであったとしても、いまのチカルの表情を明るくするに至らないだろう。それだけ彼女の心は重苦しく沈んでいた。
無造作に放られている紙袋に冷たい視線を当てたままテーブルの横を通って大窓の方に歩み、カーテンを開ける。朝の光に満たされた部屋の中で佇んでいると、ドアの開く音がしてシュンヤが入ってきた。
「おはよう」
チカルは寝ぐせ頭の彼に言う。ケンカ中でも挨拶や返事などの最低限のやりとりはするようにしている。シュンヤもそこは同じだ。
「おはよ」短く答え、テーブルの上の紙袋を手にする。「これ、昨日買ってきた。食えよ」
彼女はずり落ちた眼鏡を指で押し上げつつリビングを横切った。目の前に差し出されている小さな袋を礼を言って受け取り、シュンヤを見上げる。視線が合うと彼はふと笑って、チカルの乱れた髪に指を通すとそのまま優しく梳いた。
「今日、予定なかったら一緒に買い物行かね?新しい通勤鞄が欲しくてさ」
昔から変わらない、仲直りのやりかた。でも今回ばかりは心の霧が晴れない。罵詈雑言を吐き散らかし、一方的に犯したことを悪いと思っているならば、ちゃんと正面切って謝ってほしかった。
謝罪の言葉を聞くまで許すことはできない――胸の裡で渦巻く悲痛な思いに突き動かされ唇を開いたが、声に出すのをためらう。シュンヤの一連の行動からして、過去となった話を蒸し返すことを拒んでいるのは明らかだ。
そもそも真摯な対応を期待するだけ無駄なのかもしれない。こうして物で機嫌を取り、それで手打ちと考えている男が謝罪の言葉など口にするはずがなかった。なにしろ自分の非を認めることを負けと考えているような人だ。同性はもとより、格下の女に負けることを彼は何より嫌う。
自分の女を好きな時に好きなだけ凌辱することを当たり前だと思っているとしたら、自省の念に駆られてすらいないかもしれない。そう思うと更に抵抗の力を奪われた。喉の奥に込み上げる言葉を結局呑み込んで、チカルはただ頷く。
「支度してこいよ。朝メシも外で食おう」
心地よい冬晴れの日。今日もシュンヤはこちらに寄り添うように歩幅を合わせて歩いてくれている。
彼らは最寄り駅の近くにある粥の専門店に入った。ここは朝早くから開いており、店内はすでに満席に近い。窓際の席がちょうど空いたのでそこに座り、メニューを開いた。チカルは薬膳粥、シュンヤは鶏粥を注文する。
「もうすぐ誕生日だよな」
運ばれてきた粥にレンゲをしずめて、シュンヤが言う。
「俺、2月9日は大阪で研修があって一泊することになってるからさ。なにか気に入ったのがあれば今日買ってやるよ」
「いいわよ、べつに……祝われるような歳でもないし」
「俺が祝いたいんだよ」
チカルは困ったような顔で粥を頬張る。ゆっくりと味わいながら、頭の片隅で欲しいものを探すが、特に何もない。しかしそんなことを正直に口にすればまたヘソを曲げられてしまうだろう……彼女はレンゲを口に運びながらしばらく煩悶していたが、なにやら思いついたらしく眉間を開いて言った。
「じゃあ……さっきもらったお菓子に合うおいしい日本茶をお願いしようかな。少し高級な……玉露とか?」
「却下」
「どうして……」
「他にないのかよ。バッグとか靴とか服とかアクセサリーとか」
「そんなこと言われても困る……」
なんでもいいと言いたいのを我慢して、チカルは唸った。誕生日のたびに何が欲しいかと聞かれて15年。もともと物欲がないこともあって、この時間は正直苦痛だ。
「いつも通り、おまかせじゃだめなの?」
「ダメ。だって俺が選んで贈ってもぜんぜん使ってくれないじゃん」文句を垂れつつチカルの上半身を視線でなぞる。「服なんかどう?」
「服か……」
チカルは着てきたスウェットシャツの袖口に目をやる。買ってから3回目の冬だ。ほころびこそないがリブ部分は伸びているし、美しかった黒も色褪せてきている。
クローゼットの中を思い起こしてみるも、入っているのはくたびれたスウェットシャツとワイシャツ、ジーンズ、就活用のスーツ……そして、シュンヤからプレゼントされた服のみだ。彼が選ぶ服は花柄やフリルのついたものばかりで、好みとは真逆である。
チカルは忙しなく粥を啜っている目の前の男を窺い見た。
「――私に選ばせてくれるの?文句言ったりしない?」
レンゲを口に含んだまま何度も頷くのを見た彼女は、微笑を口元に浮かべる。
「うれしい。ありがとう」
彼らは電車を乗り継ぎ、新宿にやってきた。駅前を歩いていると、家電量販店の前でシュンヤが足を止める。店内に吸い込まれるように入っていってしまったのでついて行けば、彼は熱心な眼差しで店頭に陳列されている品々を眺めている。
「電気圧力鍋欲しくない?」
「いらないわ」
「買おう。安くなってるしさ」言いながら山積みになっている商品を手に取って、「ほら、“材料をセットするだけ。ほったらかしでおいしい料理!”だって。料理下手なおまえでもなんとかなるんじゃないの」
パッケージを覗き込んでひとしきり目を通したチカルだったが、首を横に振る。
「使いこなせないかもしれないし、いらない」
「使いこなすもなにもないじゃん。材料切ってぶち込むだけなのに」
簡単だろ?そう言葉を続けて片眉を上げる。
「そんなに言うならシュンヤが作ってよ」
盛大な溜息と共に箱を置いた彼から目を逸らすと、エスカレーターの横にカプセルトイマシンが並んでいるのが見えた。チカルは瞳を輝かせて近づくと、目当てのものを探す。
「チカル……」
背後から低い声がした。
「やめろって。そんなのガキがやるもんだろ。恥ずかしい」
彼の言葉を無視して鞄を探る。
舌打ちするのが聞こえた次の瞬間、彼の手が伸びてきた。財布を取り出すも阻止され、「ほら、行くぞ」そのまま腕を引かれ店の外へと連れていかれてしまう。
「ちょっと……ようやく見つけたやつがあったのに」
腕を振り解いて睨み上げると、シュンヤはあきれたような顔のまま再び彼女の手を握って歩き出した。
「あんなくだらねーのに金出すならメイク道具でも買えよ」
言い返そうとするもあきらめて、チカルは後ろを振り返る。名残惜しそうに、片手に握りしめていたままの財布を鞄にしまった。
休日ともあり、街は人でごった返している。人波をかき分けてチカルが指定した店の前まで来ると、虚ろな目で看板を見上げたシュンヤがさっそくゴネはじめた。
「なあ……やっぱ他の店にしようぜ?」
しかし一度約束を取り付けたチカルは強気だ。彼の手を引っ張ってずんずん歩いていく。誕生日プレゼントを自分で選ぶなんて初めてだ。彼女はわくわくしながら自動ドアをくぐった。
チカルが選んだのは、ファストファッションブランドの店である。
カジュアルな服を多く扱っており、チカル好みなのはわかっているが――シュンヤは唇をへの字に曲げて彼女を見る。
「本当にここでいいの?」
「うん」
チカルは豊富な色で展開されているスウェットシャツを物色しながら頷いて、「文句は言わない約束」とシュンヤを軽く睨む。
「はいはい、わかったよ……」
鼻を鳴らして買い物かごを差し出すと、白と淡い青のスウェットシャツと黒いセーターが放り込まれる。値段は1500円。セール品だ。
「こんな色買うのかよ……ちょっと若い子向けすぎない?」
淡い青の方のスウェットシャツをつまんでチカルを見るが、彼女は「好きな色なの」と言ったきり相手にしない。不満そうな彼を背に別の棚やラックを見て回り、ゆっくりと買い物を続けた。
悩みながらもジーンズを1本選び、お会計を頼んだがシュンヤは首を縦に振ってくれない。なので白いワイシャツを2枚、部屋着を1セットと靴下を籠に追加する。
「もっとないのか?」
「ないわ」
「じゃあ別の店行こう」
「もういいってば」
彼はチカルの言葉を無視してレジに向かってしまう。
そこから半ば強引に連れられてデパート内にあるセレクトショップなどを見て周った。シンプルなセーターやジャケット、手袋とマフラーも新調して、チカルとしては2、3年分の買い物をした気分だ。
最後の店を出たころには陽は落ち、寒さは一層増していたが、店内を歩き回ったチカルの頬は上気している。たくさんの荷物を手分けして持ったふたりは、夜空にほっと息を吐いた。
ほんのりと色づいた桃色の頬をつついて、シュンヤがにんまりと笑う。
「満足した?」
彼女はこくりと頷き、「――ありがとう」袋の中を覗き込み表情を輝かせた。
「俺はもっとかわいい服を選んでほしかったけどなあ。それか色っぽいやつ……胸元がざっくり開いてるニットとかさ」
「もう。そんなことばっかり言って」
シュンヤの腕を肘で小突くと、彼は大袈裟に痛がるふりをする。ふたりは子犬のようにじゃれながら笑い合った。
「そろそろ帰ろっか」
頷いたチカルは足取り軽く歩き出す。その横でシュンヤが思い出したように言った。
「やばい。自分の通勤鞄、買い損ねた」
「私ばっかりごめん。今から買いに行こう」
「いいよ。また今度付き合ってくれれば」
シュンヤは明るく言って笑った。今回もこの笑顔に丸め込まれ、結局最後には彼のことを許してしまうのだろう。惚れた弱みにつけこまれていることを情けなく思いつつ、今日も腹の底で不気味にうごめいている怒りと悲しみから目を逸らす。
地面をさ迷っていた視線がシュンヤをとらえ、チカルはそのまま吸い寄せられるように彼を仰ぎ見た。端整な横顔は青年の頃とさほど変わらないが、年齢を重ねるごとにすこしずつ磨かれていくように思う。老いてなお美しい恋人に羨望のまなざしを注ぐチカルの唇から、ちいさな吐息がこぼれた。
赤ん坊の頃からの幼馴染であり、初恋の相手。そして、あの家から救い出してくれた恩人……どんなにひどい仕打ちを受けようと、およそ40年もの長きにわたり縁を結んできたシュンヤのことをチカルは突き放すことができないでいる。
別れを切り出そうとしたことは何度もあった。しかしシュンヤの笑顔を目の当たりにしたときの幸福感が、彼に負わされた心の傷を覆い隠してしまう。
ときおり向けられる優しさと慈愛は逃げようとする足に甘く絡みつき、彼女の新たな一歩を阻んだ。もがき苦しみながらも離れられず、今年、同棲生活16年目を迎えようとしている。
シュンヤとの生活には常に苦悩が付きまとう。それでも、母と祖母と暮らしていたときよりはずっとましだ。そう言い聞かせて自分を慰めながら、日々は続いていく。
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