よあけ

紙仲てとら

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本編

第43話

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「ノンアルビールでしょ?」
 タビトの反応を待たずに注文してしまうと、アコは長い爪で灰皿を引き寄せて新しい煙草に火を灯した。
 店内はほどよく混雑しており、談笑する声に混じって優雅なジャズが聞こえてくる。昔は純喫茶だったといい、レンガ造りの壁に飾られている静物画の油絵やレトロなミルクガラスのペンダントライトがその名残を感じさせる。
「アコちゃん」
 突如として降ってきた声に顔を上げると、ランが立っていた。
「遅れてごめんね。……あれ?タビト君?」
 丸い目をしてアコとタビトを交互に見る。厚手のコートにマフラー姿のところを見ると、さっき来たばかりらしい。寒いなか長く歩いたのだろうか、鼻の頭がすこし赤くなっている。
「ランちゃんお疲れー!こっち座って」
 アコは嬉しそうに声を上げると、自分の隣をぽんぽんと手のひらで叩く。なるほど、1時間を過ぎても店を移動しなかった理由はランが来ていなかったからか。
 アコは時間に関して超がつくほどシビアなのにどうもおかしいと思った……タビトは、ランを映すアコの瞳にハートが浮かんでいるのを見る。仕事中には一切この顔を見せないのだから、さすがである。
 ウル・ラドのヘアメイクを担当するランは、公私ともにアコのパートナーで、摩擦が起きがちなアコと現場のあいだをうまく取り持ってくれる重要な存在だ。
 このふたりが恋人同士ということを、タビトはずっと前から知っている。候補生時代、事務所の階段の陰でふたりがキスしているところを偶然見てしまったのだ。
 アコは鬼のような形相でタビトを捕まえ、絶対に周囲には話すなときつく口止めした。彼は今もその言いつけを守っている。
「なにかあったの?」
 コートを脱ぎつつ座りながら、ランが心配そうに訊ねる。
「ランちゃんにこんな顔させて……」
 アコは彼女の薄い肩をそっと包んで抱き寄せる。仲間たちから見えない位置なのをいいことに、大胆だ。
 彼女はランの髪に頬ずりしながら、タビトに視線を投げる。
「――で、話ってなに?」
 いざとなって、タビトは二の足を踏んでいる。女性関係についての相談など、これまで誰にもしたことがないのだ。気恥ずかしさが込み上げてきて、なかなか切り出すことができない。
「うじうじしてんじゃねえよ」
 アコは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、そんなタビトの腕を拳で小突いた。
 拳の感触が残る腕をさすりながら、彼は視線をテーブルに落としたまま消え入りそうな声で問う。
「……アコっていつも堂々としてるけど……――誰かに対して近寄り難いなって思ったり、気後れすることってある?」
「は?」
 困惑の声をあげてからしばらく黙り、彼女は答える。
「そういうのは感じたことないかな。近寄り難いんじゃなくて近寄りたくないヤツなら山ほどいるけど。このあいだ現場にきた物販の担当者とかね。名前は、ええと……ヤジマ。タビトも知ってるでしょ?いちいち嫌味ったらしい奴だよ。なんかあいつ、うちのタキトウ常務と似ててさあ。逆らうとなにされるかわかんない感じがして怖いんだよねー」
 こんなことを言いながらも本当はなにも怖がっていないことを、タビトはわかっている。現場での彼女は常に大胆不敵だ。
「ヤジマさんも常務もやることが陰険っていうか、圧かければ相手が言うこと聞くと思ってんの。ああいうの大ッ嫌い」
「そっか……。じゃあ、優しく接してくれるし特になにも嫌なことされてないのに、その人といると不安になるっていうか……そわそわして落ち着かないっていう経験は?」
「なにその質問……難しいな。ないと思うけど。一緒にいると嫌な気持ちになるってこと?」
「嫌な気持ちとは、ちょっと違う……」
「ふうん……。そうだな……新しく友達になった子に対してはそういう気持ちになるかも。嫌われたくないなって思うから、いつもより気を使うっていうか」
 タビトは運ばれてきたグラスを手にしたまま唇を噛む。チカルの姿を思うと、どうしようもなく胸が苦しくなってしまう。いつもの調子で接すればなんの問題もなく関係を築くことができたはずなのに、なぜあんなにもうまくいかなかったのか、今になってもわからない。
 ずっと黙ってふたりの話を聞いていたランが、沈黙に声を差し込む。
「タビト君のそういう気持ち……なんとなくわかるかも」そっと微笑んで、「アコちゃんと知り合ったとき、そんな感じだったから」
 タビトはどきりとして、彼女を見つめた。同時にアコも顔を向けて、瞳をとろけさせる。ふたりからの眼差しを受けながら、彼女はやわらかな声で続けた。
「相手のことをもっと知りたいのに、いろいろ考えすぎちゃってうまく話せなくて……悩んだことあったよ。変なこと言っちゃってないかなって不安になったり、気持ちのコントロールができなくなっちゃうの……アコちゃんすごくかっこよかったし、最初はとっても緊張したな」
「ああもうランちゃんてば、かわいいっ!」
 ふにゃふにゃに表情を崩して笑うアコだが、タビトは笑えない。反応がないのを見たアコはすぐさまいつもの顔を取り戻し、彼を覗き込むように見る。
「どしたの。黙っちゃってさ」
「――いや……なんでもない。ごめん」
「なーんかおかしいな、今日のタビト」
「そう?」
「なにか言いづらいことを相談しに来たんでしょ?恋バナ?」
「違うよ。恋愛なんてしてる場合じゃないし……」
「あっそ。じゃあなんなの?こんなとこまで来たのって、近寄りがたいヤツがいるか、だなんてぼやけたこと聞くためなの?」
 矢継ぎ早に質問されたタビトは思案顔で黙り込んでいたがやがて、「友達……に、なりたかったのかも」ぽつりと言ってグラスを傾け、独特な苦味を口に含む。
「同業者?」
「そこは聞かないで」
「はあ?」
「ふたりはさ……年齢が離れてる人でも、友達になれると思う?」
「離れてるってどのくらいよ?」
「16……17くらい?」
 苦い顔のままグラスを揺らしているタビトを前に、アコとランは困惑顔を見合わせる。
「やっぱり難しいよね……」
「ジェネレーションギャップは確かにあるだろうけど、趣味が同じなら意気投合することもあるんじゃない?」
 ランの言葉に視線だけをあげ、わずかに顎を引いた。
「共通の趣味は、ある。その話で盛り上がることもあったし……。……でも、気が合うなって思ってくれたかどうかはわかんない。年齢差のせいで、一線を引かれてる気がするんだ」
「そもそもどうやって知り合ったの?事務所関係?」
「……」
「男性?それとも女性?」
「……」
「はっきりしねえ奴だな……」苛立ちを隠さず、アコは大きく舌打ちする。「そこらへん教えてもらわないとさあ」
「――女性」
 聞いたふたりは目を丸くし、再び視線を合わせる。アコは俄然興味が湧いたとみえ、ずいと身を乗り出した。ウル・ラドのメンバーと仕事をするようになって早4年。候補生時代から知っているが、タビトがプライベートで女の話を口にするのは初めてだ。
「なんで17歳も年上の女と友達になりたいの?」
「アコたちの話を聞いてたら、そうなのかなって思って……」
 口にするも、どこか釈然としない。彼は歯切れ悪く続けた。
「――いや……友達になりたくても、なれなかったかもしれない。あの人を前にすると緊張しちゃって、いつものペースを崩されちゃうんだ。自分が自分じゃなくなるみたいな感じがして……怖くなる」
「好意はあんの?そういう感情が少しもないなら単に相性が悪いってだけじゃん」
「……好意?」
「そんなのないか。緊張するってことはフィーリングが合わないんだよ。居心地悪いなって感じる相手と関係を続ける必要なくない?」
 それはもっともな話だった。タビト自身、よくわかっている。
 心穏やかでいたいなら、雇用契約を終わりにすればいいだけ。ほとんど顔を合わせたこともなく、文面のやりとりばかりしかしていない存在なのだから、別れなどたいしたことはない。簡単な話だと思ったし、実際あっけなく終わらせることができた。
「――好意って呼んでいいのかはわかんないけど」
 タビトは眉根を寄せる。こぼれ出る言葉の勢いに任せて続けた。
「気づけばいつも、彼女のことを考えてる」
 もう会えないのに――舌の上にまで出かかったこの言葉を飲み下す。
 彼の言葉を聞きながら煙草を指の間に挟んだアコは、火をつけぬまま弄びつつ問うた。
「どうやって良好な関係を築いたらいいか思い悩んでるってこと?」
「前はそうだったけど最近は違う……。今なにをしてるんだろう、なにを考えてるんだろうって、……そういうことで頭がいっぱいなんだ」
 自分のした選択が正しかったのかどうか、それを問う声が胸の奥底で響いていた。
 脳裏にチカルの姿が鮮明に思い出され、それに伴い押し迫ってきた哀しみの波に心が攫われる。その冷たさときたらなかった。痛みさえ感じるほどで、彼は苦渋に顔を染める。
 思うところがあるのか、アコは言葉を探しているようだった。ランは、そんな彼女の手をテーブルの下でそっと握る。驚いたように顔を上げたそのとき、タダがテーブルにやってきて、ラストオーダーだと告げた。ふたりはどちらからともなく手を離し、それに応える。
 沈黙に沈む3人の隣の席は、相変わらず笑いが絶えない。おしゃべりに夢中でほとんど手つかずだった料理にフォークやスプーンを伸ばし、騒がしく飲み食いしている。
 顔を伏せて黙り込んでいるタビトの豊かな黒髪を見つめながら、アコは指で挟んだままだった煙草にようやく火をつけた。
「アコちゃん……煙草はもうやめてって言ってるのに」
「ごめん」
 天井に向かって長く煙を吐くと、すぐに灰皿で揉み消す。ミルクガラスのペンダントライトが薄青の煙をまとい、儚い夢のような光を放っていた。
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