よあけ

紙仲てとら

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本編

第42話

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 苦い思いを味わったあのステージから2日後――とうとう1月が終わった。
 家事代行サービスの件について、ホズミからの連絡はまだない。
 今日は月曜日。チカルの代わりに新しいスタッフが派遣されるだろうと考えていたが、結局誰も来なかった。
 こうなると、チカルが担当から外れていない可能性が出てくる。なぜなら、2月1日は――つまり今日だが――私用のため休ませてほしいとチカルから事前に申し出があったからだ。
 彼女がまだ担当となっているから誰も来なかったのか、はたまたホズミがスタッフ厳選に時間をかけており新しい担当が決まっていないだけなのか。わからないがとにかく――最悪な気分だ。ここのところずっと、真綿で首を絞められているような苦しみに悩まされ続けている。
 タビトはスマホの時計をぼんやりと見る。もう21時だ。久しぶりに丸一日オフだったというのに、これといったことを何もしないうちにいつのまにか夜になっていた。日課のジムにも行かず、食事も摂っていない。死んだような顔で朝から晩まで、乱れたままのベッドに寝ころんでいただけだ。
 スマホのロックを解除し、溜まっているメッセージを開いてすいすいとスクロールする。1時間ほど前に、メンバーのトークルームでセナとヤヒロが他愛ないやりとりをしていたようだ。こっちに話が振られていたが、内容的に今さら返事しても遅いだろうと思われた。
 着信も何件か入っている。オフィスウイルド経由で契約しているレーベル「ベルカナ・レコード」の担当者からだ。
 その数件下には、チカルの名前があった。契約初日、連絡先を交換したあと間違っていないか試しに電話を掛けてきてもらったときの履歴である。
 同じくメッセンジャーアプリにも彼女の名前がある。どちらも、もう消した方がいいだろう。
 彼は削除ボタンを表示させ、その上に指先をかざしたが――ぴたりと動きを止める。そんなに焦らなくてもいいじゃないか、という声が耳の奥でこだました。いやしかし、これが残っているからすっきりしないのではとも思う。
 散々逡巡し、どうしたらいいのかもどうしたいのかもわからない。結局削除することができずスマホを放った。
 掛け布団に突っ伏す。彼はしばらくそうしていたが、思い立ったように顔を上げた。放ったスマホを再び手にする。
 悩みは誰かに相談するのが一番だ。胸の内を明かすのは抵抗があるが、ここまで膨れあがってしまった悩みをひとりで抱えていても碌なことにならないと、これまでの経験で知っている。
 しかし誰に相談したものか……メンバーに打ち明けたいが、いまはそれをできる状況にない。会社の問題で奔走しているホズミも同じくだ。
 選択肢を狭められた彼の頭の中に気心の知れた友人の顔が何人も浮かんできたが、それはいけないとすぐに打ち消す。彼らのことを信頼しているが、人というものはときに悪意なく過ちを犯すものだ。女性絡みの話をするのはやはりリスキーである。
 煩悶しているうちにあっという間に22時だ。
 彼は髪を乱暴に掻き混ぜ、溜息をついた。再び電話帳を開いてスクロールする。アコの名が目に止まり――指が一瞬ためらったが、タップして耳に当てた。
 2、3度のコールのあと素っ気ない言葉が鼓膜を叩く。
「どうしたの」
「誰かと話したいなって思って」
「まったく……誰でもいいなら他の人にしてよ」
 あくび交じりの声。
「寝てた?」
「寝てた。明日は5時半に現場だし……あー、眠いから切るね」
 そう言ったアコの声の後ろで、どっと笑い声が起こったのが聞こえる。タビトは眉をひそめた。
「嘘じゃん。呑んでるんだろ」
「眠いのは本当。最近お酒飲むとすぐうとうとしちゃうんだよね」
「仕事の打ち上げかなにか?」
「社長と部長とスタッフのみんなで、反省会と言う名の飲み会。なんか話があるなら来れば」
「どこ?」
 言いながら彼は身を起こし、つま先にスリッパを引っ掛けた。女性だけじゃないなら行っても大丈夫だろう。クローゼットを開けて服を適当に選び、背後のベッドに投げる。
「タダ君の店」
「タダ君……六本木の?」
「そ。場所はわかるでしょ」
「迷ったら迎えにきてよ」
「やだね。1時間経っても来なかったら移動するから」
 ぷつりと通話が切れた。タビトは音のしなくなったスマホを一度耳から離すと、コンシェルジュに繋いでタクシーの手配を頼む。
 アコはタビトより8歳年上の30歳。ブリーチした美しい金髪がトレードマークの、大柄でパワフルな女性である。デビュー前からウル・ラドの専属スタイリストとして力を注いでくれている彼女は、タビトにとって頼りになる姉のような存在だ。
 アコたちがいる店の近くでタクシーを降り、白い息を吐きながらビルの谷間を縫うように歩いていく。
 店は細い路地を少し入ったところにひっそりとあった。電話を切ってから1時間以上過ぎている。ひょっとしたもういないかもしれないと思いながら木製のドアを押し開けると、カウンターで酒を作っていたタダが振り向いた。
「いらっしゃい。アコちゃんたちは奥の席だよ」
 こちらの顔を覚えてくれているらしいことを素直に嬉しく思いながら店内奥へ進むと、見慣れた人々がコの字型のソファ席に座り、顔を突き合わせ談笑している。さっき電話したときはあと1時間で店を出るというような話をしていたはずだが、テーブルには運ばれてきたばかりであろう料理がいくつも湯気を立てていた。
「タビト?!どしたの」
 メンバーのひとりが目を丸くする。
「さっきアコが来るって言ってたじゃん。ったくぜんぜん聞いてないんだから……これだから酔っ払いは」
「座りなよ」
「寒かったでしょぉ?あったかいお酒頼めば?」
 みんなが口々に言って彼を迎える。
「ほんとに来た」
 アコが火のついた煙草を歯のあいだに挟んだままあきれたように言ったが、尻をずらして隣に座るよう促す。
「いきなりごめん。社長は?挨拶したいんだけど」
「あっち。知り合いの社長さんが来てたみたいでさっきから話し込んでて戻ってこないんだよ」
 彼女の視線の先に目をやると、真剣な顔で話し込んでいるのが見える。
「ちなみに部長は奥さんから電話かかってきて、さっき半泣きで帰った。夕飯いらないって電話し忘れたみたいですっごく怒られたみたい。ま、当たり前だよね」
 言って天井に向かって煙を長く吹くと、煙草の先を灰皿に擦りつける。
 向かい側に座っているヘアメイクアシスタントのハスタニはタビトを上目遣いに見て笑みを浮かべた。
「タビト君も大胆だね。マスクもしないで夜遊びなんて」
「私たちに会いたかったんだって。ね?タビト」
「これは週刊誌の一面飾っちゃうなー。“ウル・ラドのタビト、美女たちと深夜の密会”みたいな」
「美女“たち”じゃないじゃん。美女は私だけだし」
「鏡あるよ。貸そうか?」
 子犬のようにじゃれ合う面々は、すでに酔いが回ってテンション最高潮。さすがのタビトも複数人の酔っ払いを前に苦笑い状態だ。
「はいはいそこまで。タビトは私に話があんだってさ」
 嵐のような声の合間に挟まってきたアコの声。それでも彼女たちは意に介さず好き勝手言ってはタビトをからかって笑っているので、しかたなく隣のボックス席に移動する。今度は向かい合わせになる形で座った。
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