よあけ

紙仲てとら

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本編

第37話

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 父の夢を見た。
 蜜蜂に刺されて泣いていると、父がやってきて「針を抜かないと」と言った。どうやって?と訊ねると父は、「毒が入ったな」まるでこちらの声が聞こえていないかのように、そうつぶやく。刺された手の甲を父がそっと掴んだ瞬間、目が覚めた。
 窓の外は真っ暗だ。
 チカルは掴まれた感触が残る左手に触れ、レースのカーテン越しに暗闇を凝視した。
 ルーフバルコニーの銀色の手すりのラインを視線で何度もなぞる。夢の名残りを引きずった頭がはっきりしてくるにつれ、ドレープカーテンも閉めずにベッドに横たわることになった経緯が思い出されてくる。
 ひび割れてしまったかのように喉が痛む。彼女が思わず小さく咳をすると、裸の背中にくっついているシュンヤがわずかに身じろぎする。深く息を吸った気配のあとに、規則正しい寝息が続いた。彼が再び深い眠りに落ちていくのを、横たわったままじっと待つ。彼の肌の感触や温もりは、もう安心できるものではなくなっている。
 この男はどうして、私の体を使って独占欲を満たそうとするのだろう。自身の浮気を棚に上げて、よくもああまで罵倒できたものだ――嫌というほど浴びせかけられた罵詈雑言を思い出し、彼女は唇を噛む。
 こちらが浮気を疑っていることにはさすがに気づいているだろうが、証拠を掴めるわけがないと甘く見ているのだろう。ただ食事や買い物をしているだけじゃなく性的な関係にあることなど、とっくにばれているというのに。
 ――誰も彼も、シュンヤに夢中になる。田舎にいたときからそうだった。同級生だけでなく、先輩からも後輩からも人気があった。
 くっきりした目鼻立ちと、爽やかな笑顔。明るい性格で面倒見がよく、スポーツ万能で勉強もできる。そのうえ実家は地元で有名な鉱山地主であり、明治時代から昭和にかけ鉱物採掘で築いた財で現在も裕福な暮らしをしていた。鉱物は枯渇してしまったが村を囲む山林の半分は今も彼らのものであり、江戸時代から受け継ぐ農地――山林も合わせて10万坪以上もある土地の一角に屋敷を建てて暮らしている。
 容姿にも恵まれ、ありあまる財産を相続するだろうシュンヤには、常に羨望の眼差しがそそがれていた。欠点といえば怠け癖と、女癖の悪さ。それでも女たちは彼に夢中だった。
 チカルもまた彼に対して長く好意を抱いていたが、彼女はハイスペックな部分よりも彼が普段隠している部分が好きだった。喧嘩すると必ず先に泣いてしまうのは彼の方だったし、甘えてくるのも彼からだった。不遜な態度も、嘘をつくくせに詰めが甘いところもひっくるめて、彼が好きだった。
 しかし最近は、かつてのような気持ちで慕うことができない。彼はやはりどこか変わってしまった。いや――東京が、彼の本性を暴いたのか。
 避妊具を購入した際のコンビニのレシートをダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしたり、スマホの待機画面にメッセージ本文を表示させないように設定していなかったり……そういうところを見ると隠す気はなく開き直っているのかとも思ったが、言動を見る限りどうやら違う。本人はうまく隠し通すことができていると思っているらしい。
 彼はあまりにも考えなしで、間抜けだ。そしてそんな彼の女たちは一様に嫉妬深く、衝動的で、厄介な性質を持っている。
 実際、いきなり知らない番号から電話が掛かってきてそれに応答すると、そのほとんどが彼の女だ。シュンヤのスマホを盗み見て、こちらの番号を手に入れたに違いない。彼女らは半狂乱になって、シュンヤと別れろと恫喝してくる。彼とどんな夜を過ごしたか、聞かなくても勝手に話してくれる。
 自分もあの女たちのように、シュンヤに対して泣きながら怒りをぶつけられたら。
 私はひとりの人間だと――人間だから苦しんだり悲しんだり泣いたりするのだと叫べたら、どんなに楽になるだろう。そう考えれば考えるほど、それができない自分が惨めだった。
 チカルはゆっくりと慎重に上体を起こした。冷えた床につま先を下ろしベッドを抜け出す。
 裸のままで震えながら自室に入り、下着と部屋着を出して身に着けた。喉だけではなく体中が痛み、シャワーを浴びる気力もない。ふと違和感を手首に感じて視線を落とせば、彼の指が絡みついていた部分がくっきりと痣になっている。
 睨み据えてくるシュンヤの燃えるような瞳、肌を辿る手の熱さがよみがえる。
 男物の服と知り激昂した彼は噛みつくような勢いで迫り来て、逃げようとする体を絡めとった。
 馬乗りになり強引にパーカーを脱がせ、彼はキッチンの方へと向かった。捨てるつもりだと察して、靴を脱ぎ捨てて後を追いその背中に掴みかかった。
 激しい攻防の末に奪い返すと、荒々しく組み伏せられ罵倒された。残る力を振り絞ってうつぶせになり、タビトの服を胸の中に抱き込んだことは覚えている。捨てられてしまうわけにはいかない、絶対に彼に返さなければと必死だった。
 シュンヤはそんなチカルの背中に覆いかぶさると、細腰に手をすべらせジーンズのボタンを外す。もがく体を力任せに押さえつけ、ショーツごと膝まで引き下ろした。
「おまえが誰のものなのかわからせてやる」
 低い声が耳朶をなぞったのを合図に、彼の熱が体の中心に向かい押し入ってきた。一切のためらいも容赦もなく、深々と穿たれる衝撃と痛み――あの絶望の瞬間を、チカルは忘れないだろう。
 シュンヤにとっては、女の抵抗を捻じ伏せるなど容易いことだ。閉じようとする膝を強引に開き、彼はチカルの甘くやわらかな体を蹂躙しつくす。身悶え喘ぐ彼女の喉に噛みつき……うねりながら絡みついてくる肉襞をかきわけて、その最奥に何度も精をそそぎ込んだ。
 彼の腕の中で意識を手放す直前、瞳に映った空はダークブルーに染まっていた。帰宅したのは16時前だったはずだ。途中から意識が朦朧としていたため実感が湧かないが、何時間も体を弄ばれていたことになる。
 彼女は手首をさすりながら廊下に出て、リビングの窓辺に近づいた。月は見えない。憂いの滲む目を伏せて、静かにカーテンを閉める。
 脱力したようにソファに座る。そこからダイニングの方を見遣った。夕飯を食べ損ねたが、空腹感はまったく感じない。
 カウンターテーブルの隅に小さな紙袋が置いてあることに気づいて視線をずらしたそのとき、床に黒い塊が落ちているのが見えた。
 シュンヤの部屋に連れ込まれる前に再び奪い取られてしまったが、あんなところに放られていたのか。無我夢中でよく覚えていないが、こちらのあまりの抵抗にさすがの彼も捨てるのを断念したと見える。そのぶん鬱憤を溜めたシュンヤに数時間に渡り拘束され手酷く犯されたわけだが、借りたものを捨てられるよりはましだ。
 彼女はあちこち痛む体で歩み寄り、それを手に取った。
 この黒いパーカーを着ていた理由については、行為の最中に幾度となく弁明した。だが、どこまで信じてくれたかはわからない。
 よほど気分を害したと見えたが、シュンヤは仕事を辞めろとは言わなかった。しかしそれがかえってチカルを不安に陥れる。何を考えているのかさっぱりわからないというのは、彼女にとって酷く苦痛だった。
 ほとんど無意識に、パーカーを腕のなかに抱きしめる。彼の甘い香水のかおりがまだ残っている。そのまま自室に戻ると、クローゼットの奥にそれを隠してベッドに入った。
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