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本編
第27話
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その日シュンヤは、21時を回っても帰ってこなかった。残業で遅くなるときや、会社帰りに飲みに行くときは必ず連絡をよこすのにこの態度ということは――彼のなかにある怒りの炎はいまだにくすぶっているようだ。
三が日に仕事をすると決めたことがなぜそれほどまでに彼を苛立たせたのか、チカルには半月経った今でもわからない。
反省の態度と心からの謝罪を待っているのだろうが、応える気にはなれなかった。仲直りしたい気持ちはあるも、悪いことをしたとは思っていない。だからこちらから謝るというのも癪なのだ。
彼女は読みかけの文庫本を閉じて、凭れていたソファから背中を離した。腕を動かすと、合気道の稽古で受け身を取り損ね、強かに打った右肩が痛む。
家事代行の仕事だけではなく、彼女は合気道の指導員としても働いている。今日は朝からかんなぎ道場に顔を出し、稽古をつけたり事務仕事をしたりと大忙しだった。
今回の負傷の原因は自分にある。教室が終わり子どもたちが帰ったあと、いつものように兄弟子であるナルカミと共に稽古に励んだのだが――雑念があったのか投げ技を掛けられたときに対応が遅れ、しくじった。大きくバランスを崩し右肩から畳に落ちてこのざまだ。たいした怪我ではないものの、精神の乱れをあらわしているようで情けなかった。
溜息をついて眼鏡を外し、冷たい指先で目頭を揉む。まだベッドに入るのは早い時間であるにもかかわらず、稽古疲れのためかまぶたが今にもくっつきそうだ。緩慢な動作で本をローテーブルに置くと、あくびをひとつ。もう寝るか……そう考えながら立ち上がったとき、スマホが鳴る。シュンヤからかかってきたかと思いきや、液晶には懐かしい名前が光っていた。
「ごめんねこんな時間に」
疲れたような、やわらかい声が鼓膜を打つ――親友のリイコだ。
「特に用事があるわけじゃないんだけど、声が聞きたくなって」
リイコは故郷の幼馴染である。シュンヤとも仲が良く、3人いつも一緒だった。
20歳のときに10歳年上の農家の長男と結婚し、そのときからずっと舅と姑の所有する広大な土地で農業を手伝いながら暮らしている。
「久しぶりね。なかなか連絡できなくてごめん」
チカルはソファに再び腰を下ろしながらそう言うと、すっかり冴えた目を喜びに輝かせる。
「ううん、私の方こそ。どうなのそっちは。元気でやってるの?」
「元気よ」
「よかった。今年の正月は帰ってきてないってチカルのお母さんから聞いたから、どうしたのかと思っていたの。仕事?」
うちの娘は正月すら帰ってこない……そう周囲に言いふらしているのだろう。母親のそういうところにはつくづくうんざりする。
チカルは静かに息を吐いた。それからつとめて明るく振る舞おうと、軽い口調で言葉を返す。
「ちょっと忙しくて」
「そっか。年始まで仕事なんて、家事代行スタッフって大変なんだね」
「実は……休みをもらっていたのだけれど、仕事を入れたの。暇だからって帰省するのも億劫だし……」
「億劫?なぜ?」
「母さんが鬱陶しくて。口開けば『まだ籍入れないの?子どもつくらないの?』こればっかりなんだもの」
苦笑する彼女につられて、チカルの口元もほころぶ。困ったように眉を下げたまま反応を窺っていると、リイコは笑いをおさめて言った。
「心配してたよ。シュンヤとのことでチカルから何か聞いてないかって言われたけど、わからないって言っといた」
「うちの母、相変わらずみたいね。なにか失礼なことを言ってない?」
「大丈夫、とっても良くしてもらってるよ。このあいだも、うちで作っていない野菜をたくさんもらっちゃった。今年は柚子と金柑が鈴なりだったみたいでね。それもたくさん」
「金柑か……うちは蜂蜜かシロップで漬けるのが定番なのだけど、他にどうやって食べるのがおいしいのかしら」
「うちはジャムを作ったわよ。息子とお義母さんの大好物なの。あとはお義父さんと旦那のために金柑酒をひと瓶」
「自分のためにはなにか作らなかったの?」
リイコは一瞬沈黙し、
「――いまから話すことは誰にも内緒よ?」チカルの反応を待たず、声をひそめて続ける。「実はね……去年の初夏にお母さんから苺をもらったんだけど、ひとカゴまるまるひとりで食べちゃったの」
「あら……」
「あんまりにもおいしかったから手が止まらなくて、つい」
リイコが鈴を転がすような声で笑いながら言う。
「もしバレたらジャムと酒だけじゃ許されそうにないし、今年の春は家族のために苺のデザートをたくさん作るわ」
「難儀ねえ……」チカルはくすくす笑って、「なにを作るつもりなの?」
「パフェ、タルト、ゼリーにマフィン……苺大福なんかもいいわね。あとはやっぱり、苺と生クリームのデコレーションケーキかな」
「ずっと前、私の誕生日に作ってくれたあのケーキね?おいしかったな」
自分でそう口にした瞬間、チカルはずっと忘れていたことを思い出した。
「――そうだ。少し前にリイコがすごく欲しがっていた限定リップ、ネットじゃ売り切れだったけれど、出先で偶然見つけたから買っておいたの。あとで送るから」
「ええっ!ありがとうー!もうどこにもないだろうって諦めてたのよ」
爽やかに弾ける声に嬉しくなり、目を細める。リイコのこういうところが、チカルはとても好きだ。
「すこし早いけど、誕生日プレゼントよ」
「本当に?――ああ……胸がいっぱいで苦しいくらいよ!ありがとう、チカル」
悲しみに沈んでいた気持ちが、少しずつ癒えて浮上していくのを感じる。リイコの存在はチカルにとって一服の清涼剤だった。彼女と話すと、色を加えられる前のまっさらな自分と再会したような気持ちになる。
故郷を去る日、列車の中からリイコに手を振った。雪のように白い頬を濡らす涙と、ホームに取り残され小さくなっていく彼女の姿を思い出すたびに、せつなさと郷愁が胸の底をちりちりと焦がす。
24歳のあの日に握りしめたのは、リイコではなくシュンヤの手だった。古い慣習に満ちた田舎を捨て、進歩的な都会で暮らすことを選んだのは紛れもなく自分自身だ。
――その結果がこれか。
彼の姿が頭によぎり、チカルはふいに黙り込んだ。彼女のわずかな心の動きを察したリイコは、穏やかな声音で問う。
「ねえチカル……ちょっと元気ないみたいけどなにかあった?」
三が日に仕事をすると決めたことがなぜそれほどまでに彼を苛立たせたのか、チカルには半月経った今でもわからない。
反省の態度と心からの謝罪を待っているのだろうが、応える気にはなれなかった。仲直りしたい気持ちはあるも、悪いことをしたとは思っていない。だからこちらから謝るというのも癪なのだ。
彼女は読みかけの文庫本を閉じて、凭れていたソファから背中を離した。腕を動かすと、合気道の稽古で受け身を取り損ね、強かに打った右肩が痛む。
家事代行の仕事だけではなく、彼女は合気道の指導員としても働いている。今日は朝からかんなぎ道場に顔を出し、稽古をつけたり事務仕事をしたりと大忙しだった。
今回の負傷の原因は自分にある。教室が終わり子どもたちが帰ったあと、いつものように兄弟子であるナルカミと共に稽古に励んだのだが――雑念があったのか投げ技を掛けられたときに対応が遅れ、しくじった。大きくバランスを崩し右肩から畳に落ちてこのざまだ。たいした怪我ではないものの、精神の乱れをあらわしているようで情けなかった。
溜息をついて眼鏡を外し、冷たい指先で目頭を揉む。まだベッドに入るのは早い時間であるにもかかわらず、稽古疲れのためかまぶたが今にもくっつきそうだ。緩慢な動作で本をローテーブルに置くと、あくびをひとつ。もう寝るか……そう考えながら立ち上がったとき、スマホが鳴る。シュンヤからかかってきたかと思いきや、液晶には懐かしい名前が光っていた。
「ごめんねこんな時間に」
疲れたような、やわらかい声が鼓膜を打つ――親友のリイコだ。
「特に用事があるわけじゃないんだけど、声が聞きたくなって」
リイコは故郷の幼馴染である。シュンヤとも仲が良く、3人いつも一緒だった。
20歳のときに10歳年上の農家の長男と結婚し、そのときからずっと舅と姑の所有する広大な土地で農業を手伝いながら暮らしている。
「久しぶりね。なかなか連絡できなくてごめん」
チカルはソファに再び腰を下ろしながらそう言うと、すっかり冴えた目を喜びに輝かせる。
「ううん、私の方こそ。どうなのそっちは。元気でやってるの?」
「元気よ」
「よかった。今年の正月は帰ってきてないってチカルのお母さんから聞いたから、どうしたのかと思っていたの。仕事?」
うちの娘は正月すら帰ってこない……そう周囲に言いふらしているのだろう。母親のそういうところにはつくづくうんざりする。
チカルは静かに息を吐いた。それからつとめて明るく振る舞おうと、軽い口調で言葉を返す。
「ちょっと忙しくて」
「そっか。年始まで仕事なんて、家事代行スタッフって大変なんだね」
「実は……休みをもらっていたのだけれど、仕事を入れたの。暇だからって帰省するのも億劫だし……」
「億劫?なぜ?」
「母さんが鬱陶しくて。口開けば『まだ籍入れないの?子どもつくらないの?』こればっかりなんだもの」
苦笑する彼女につられて、チカルの口元もほころぶ。困ったように眉を下げたまま反応を窺っていると、リイコは笑いをおさめて言った。
「心配してたよ。シュンヤとのことでチカルから何か聞いてないかって言われたけど、わからないって言っといた」
「うちの母、相変わらずみたいね。なにか失礼なことを言ってない?」
「大丈夫、とっても良くしてもらってるよ。このあいだも、うちで作っていない野菜をたくさんもらっちゃった。今年は柚子と金柑が鈴なりだったみたいでね。それもたくさん」
「金柑か……うちは蜂蜜かシロップで漬けるのが定番なのだけど、他にどうやって食べるのがおいしいのかしら」
「うちはジャムを作ったわよ。息子とお義母さんの大好物なの。あとはお義父さんと旦那のために金柑酒をひと瓶」
「自分のためにはなにか作らなかったの?」
リイコは一瞬沈黙し、
「――いまから話すことは誰にも内緒よ?」チカルの反応を待たず、声をひそめて続ける。「実はね……去年の初夏にお母さんから苺をもらったんだけど、ひとカゴまるまるひとりで食べちゃったの」
「あら……」
「あんまりにもおいしかったから手が止まらなくて、つい」
リイコが鈴を転がすような声で笑いながら言う。
「もしバレたらジャムと酒だけじゃ許されそうにないし、今年の春は家族のために苺のデザートをたくさん作るわ」
「難儀ねえ……」チカルはくすくす笑って、「なにを作るつもりなの?」
「パフェ、タルト、ゼリーにマフィン……苺大福なんかもいいわね。あとはやっぱり、苺と生クリームのデコレーションケーキかな」
「ずっと前、私の誕生日に作ってくれたあのケーキね?おいしかったな」
自分でそう口にした瞬間、チカルはずっと忘れていたことを思い出した。
「――そうだ。少し前にリイコがすごく欲しがっていた限定リップ、ネットじゃ売り切れだったけれど、出先で偶然見つけたから買っておいたの。あとで送るから」
「ええっ!ありがとうー!もうどこにもないだろうって諦めてたのよ」
爽やかに弾ける声に嬉しくなり、目を細める。リイコのこういうところが、チカルはとても好きだ。
「すこし早いけど、誕生日プレゼントよ」
「本当に?――ああ……胸がいっぱいで苦しいくらいよ!ありがとう、チカル」
悲しみに沈んでいた気持ちが、少しずつ癒えて浮上していくのを感じる。リイコの存在はチカルにとって一服の清涼剤だった。彼女と話すと、色を加えられる前のまっさらな自分と再会したような気持ちになる。
故郷を去る日、列車の中からリイコに手を振った。雪のように白い頬を濡らす涙と、ホームに取り残され小さくなっていく彼女の姿を思い出すたびに、せつなさと郷愁が胸の底をちりちりと焦がす。
24歳のあの日に握りしめたのは、リイコではなくシュンヤの手だった。古い慣習に満ちた田舎を捨て、進歩的な都会で暮らすことを選んだのは紛れもなく自分自身だ。
――その結果がこれか。
彼の姿が頭によぎり、チカルはふいに黙り込んだ。彼女のわずかな心の動きを察したリイコは、穏やかな声音で問う。
「ねえチカル……ちょっと元気ないみたいけどなにかあった?」
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