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本編
第25話
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静まり返った廊下に出た彼らは、誰もいない談話室に入り飲み物を買う。
いちご牛乳のパックにストローをさして、アキラはソファに倒れるように座った。タビトはホズミと同じブラックの缶コーヒーを手に、窓から外をぼんやりと眺めている。
そこからは、芝の絨毯が美しい中庭を一望することができた。冬の静謐な光のなか、患者と思しき人々がベンチに座って日光浴をしたり、ゆっくりと散歩している。それを眺めながら、彼はほっと息をついた。
「静かでいいところだね」
つぶやいたタビトを横目でちらと見遣って、アキラが薄く笑う。
「表面的にはね」
「嫌な言い方……」
「病院なんてどこも窮屈で嫌なもんだよ」
その返しに、タビトはつまらなそうな顔になる。
「やっぱりヤヒロは来なかったんだな」
ホズミが言うと、アキラは小さく鼻を鳴らした。
「俺が来るなって言ったの」ストローを噛んで続ける。「だってすごく怒ってるんだもん。見舞いに来たってケンカになるだけだから」
「まったくあいつは……なんでそんなに怒ることがあるんだ」
「“ウル・ラドにとって今が正念場”これがヤヒロの口癖。ユウの活動休止で気勢を殺がれたくなかったんでしょ」
それに、とアキラは続ける。
「家庭の事情でなにかとカネが掛かるし、人気が出てきた今のうちにどんどん売上伸ばして一円でも多く稼いでおきたいだろうから……足引っ張られたって感じて余計に頭にきてるんだろうね」
「家庭の事情?……父親の借金は全額返済できたんじゃなかったっけ」
――『ようやく解放される』そう言ったヤヒロの顔をタビトは鮮明に覚えている。あの泣き笑いのような表情は、いつもの彼らしからぬものだった。
「親父さんの件が片付いたから、今度は双子の弟たちの将来に向けて経済的な準備をしてるらしいよ。奨学金を借りないで大学に通わせてやりたいんだってさ」
黙って聞いていたホズミが立ち上がり、ジャケットの袖に腕を通しながら言う。
「ヤヒロに何度も電話してるんだが、昨日からスマホの電源を落としているみたいなんだ。もし俺より先にヤヒロと連絡が取れたら、弟たちの学費の件で社長が話をしたいと言っていると伝えておいてくれないか」
「話しても無駄だと思うけどな。あいつ、プライベートに干渉されるの大っ嫌いだもん。それにいきなりなんとかしてやるなんて言われたって、裏がありそうで怖いよ」
「裏なんかないさ。ヤヒロは根を詰めて仕事するタイプだろ?どうやら社長は、今回のユウの件を受けて危機感をつのらせたらしい……ヤヒロの負担が減るように力を貸してやりたいと言っていた」
「金銭的な支援してくれたって、どうせあとから絞り取る気でいるんでしょ……」
「そんな悲しいことを言わないでくれ。社長も俺も、弟たちのために無理をしすぎて心身を壊す前に頼ってほしいだけだ。もしかしたらヤヒロが納得する形で事が進むかもしれない……だから話を聞くだけでも」
沈黙が落ち、両者見つめ合った。
やがて、
「――わかった。一応伝えとく」
アキラは視線を床に落としたまま答える。
空き缶を捨てたタビトは、出入口へと歩いていくホズミの背中に声を投げた。
「会社に戻るの?」
「ああ。なにか問題があればすぐに電話してこい。夜中でも早朝でも構わないから」
ホズミを見送ると、タビトは脱力して長椅子に座り込んだ。肩を丸めてそっと溜息をついた彼を、アキラが横目で見遣る。
「ユウの言ってたこと、信じる?」
タビトはしばらく黙っていたが、やがて冷たい指先を握り込み、重い口を開いた。
「信じたい」
「そっか」
アキラは溜息をついた。低く唸ったかと思うと顔を上げ、悲しそうな笑みをタビトに向ける。
「アキラは?」
見つめてくる眼差しに問うも、彼は答えない。
上空の雲の動きが早いのか、ちらちらと陽が翳る。自動販売機のモーター音がはっきりと聞こえるほど、辺りは静寂に包まれていた。
「ミツキのことだけどさ」
アキラはすでにからっぽの容器を手でもてあそびながらつぶやく。
「業界最大手のストルムミュージックの親会社、ストルムグループホールディングス。もちろん知ってるだろ?彼女、そこの会長の孫なんだよ」
それを聞いたタビトは乾いた笑い声を漏らす。
「――どうりで金も時間もコネもあるわけだ」
天下のストルムグループ会長の孫娘と知れば……ライブのチケットが即日完売するなか全公演分のチケットを手に入れていたことにも、地方で連日行われた握手会やサイン会に必ず姿を見せる時間的余裕があったことにも合点がいく。スタッフが彼女を強く注意できなかったのは金を落とすファンというだけでなく、エンターテインメント業界を牛耳る会長の孫娘だということを知っていたからかもしれない。
そこまで考えて、タビトはふと眉をひそめ首を捻った。
「なんで孫だってこと知ってんの?」
訝しんで訊ねると、アキラは「ちょっと事情があってさ」と言葉を濁す。その反応にタビトは不満そうな顔を向けたがそれ以上問うことはせず、溜息を天井に放した。
飲み終わった紙パックを折り畳みながら、アキラが言う。
「今回の件……俺は、セナの言う通りミツキが関わってると思ってる」
タビトは呼吸をとめ、彼の端整な横顔を見つめた。
「この予想が間違ってなければ、カネの力で全部揉み消されるだろうね。捜査も打ち切られるんじゃない?」
「捜査まで?さすがにそれはないんじゃ……」
「あの爺さんのインタビュー読んだことないの?孫娘を溺愛してるから、あの子を守るためならいくらだってカネを積むし、なんだってやると思うよ」
警察組織とストルムが癒着しているなどとは考えたくもなかったが、一昨年の暮れ、会長の弟が起こした強制わいせつ事件が証拠不十分で不起訴に終わったのを見ると、ありえないとは言い切れない。
事件について取り上げていた週刊誌もいくつかあったが、追及の手はすぐに緩んでしまった。ストルムプロモーションの俳優である彼は今も、芸能界の重鎮として丁重に扱われており、事件の影響など微塵も感じさせない活躍ぶりを見せている。
「ユウとミツキが付き合ってるってこと、ムナカタ社長にばれるのだけは避けたかったのに。ライバル企業の孫と深い関係にあるなんて……ったく、小説じゃないんだからさあ、ほんとやめてもらいたいよ」アキラは苦渋を眉間に刻んで頭を抱える。「社長、怒るだろうなあ……」
「――ねえ……マスコミってさ、カネを積んだらほんとに黙らせられるもんなの?」
「少なくともストルムはそのやり方で穏便に済ませてると思うね」
「うちは無理?」
「たぶん無理。マスコミに対して一斉に箝口令が敷けるのなんて、ごく一部の芸能事務所だけだよ」
アキラはそうあっさりと言い放った。絶望感に目元を覆ったタビトは、溜息交じりにつぶやく。
「怒らせると怖いんだよな……社長って」
「だよね」ふふと笑って、「それにしてもまさか、ユウがミツキの手中に落ちるとは思わなかった。――社長もきっとそう言うよ」
言葉を失くしているタビトの横に座ると、アキラは話を続けた。
「ひとつ、おまえに隠してたことがあるんだけど……」
いちご牛乳のパックにストローをさして、アキラはソファに倒れるように座った。タビトはホズミと同じブラックの缶コーヒーを手に、窓から外をぼんやりと眺めている。
そこからは、芝の絨毯が美しい中庭を一望することができた。冬の静謐な光のなか、患者と思しき人々がベンチに座って日光浴をしたり、ゆっくりと散歩している。それを眺めながら、彼はほっと息をついた。
「静かでいいところだね」
つぶやいたタビトを横目でちらと見遣って、アキラが薄く笑う。
「表面的にはね」
「嫌な言い方……」
「病院なんてどこも窮屈で嫌なもんだよ」
その返しに、タビトはつまらなそうな顔になる。
「やっぱりヤヒロは来なかったんだな」
ホズミが言うと、アキラは小さく鼻を鳴らした。
「俺が来るなって言ったの」ストローを噛んで続ける。「だってすごく怒ってるんだもん。見舞いに来たってケンカになるだけだから」
「まったくあいつは……なんでそんなに怒ることがあるんだ」
「“ウル・ラドにとって今が正念場”これがヤヒロの口癖。ユウの活動休止で気勢を殺がれたくなかったんでしょ」
それに、とアキラは続ける。
「家庭の事情でなにかとカネが掛かるし、人気が出てきた今のうちにどんどん売上伸ばして一円でも多く稼いでおきたいだろうから……足引っ張られたって感じて余計に頭にきてるんだろうね」
「家庭の事情?……父親の借金は全額返済できたんじゃなかったっけ」
――『ようやく解放される』そう言ったヤヒロの顔をタビトは鮮明に覚えている。あの泣き笑いのような表情は、いつもの彼らしからぬものだった。
「親父さんの件が片付いたから、今度は双子の弟たちの将来に向けて経済的な準備をしてるらしいよ。奨学金を借りないで大学に通わせてやりたいんだってさ」
黙って聞いていたホズミが立ち上がり、ジャケットの袖に腕を通しながら言う。
「ヤヒロに何度も電話してるんだが、昨日からスマホの電源を落としているみたいなんだ。もし俺より先にヤヒロと連絡が取れたら、弟たちの学費の件で社長が話をしたいと言っていると伝えておいてくれないか」
「話しても無駄だと思うけどな。あいつ、プライベートに干渉されるの大っ嫌いだもん。それにいきなりなんとかしてやるなんて言われたって、裏がありそうで怖いよ」
「裏なんかないさ。ヤヒロは根を詰めて仕事するタイプだろ?どうやら社長は、今回のユウの件を受けて危機感をつのらせたらしい……ヤヒロの負担が減るように力を貸してやりたいと言っていた」
「金銭的な支援してくれたって、どうせあとから絞り取る気でいるんでしょ……」
「そんな悲しいことを言わないでくれ。社長も俺も、弟たちのために無理をしすぎて心身を壊す前に頼ってほしいだけだ。もしかしたらヤヒロが納得する形で事が進むかもしれない……だから話を聞くだけでも」
沈黙が落ち、両者見つめ合った。
やがて、
「――わかった。一応伝えとく」
アキラは視線を床に落としたまま答える。
空き缶を捨てたタビトは、出入口へと歩いていくホズミの背中に声を投げた。
「会社に戻るの?」
「ああ。なにか問題があればすぐに電話してこい。夜中でも早朝でも構わないから」
ホズミを見送ると、タビトは脱力して長椅子に座り込んだ。肩を丸めてそっと溜息をついた彼を、アキラが横目で見遣る。
「ユウの言ってたこと、信じる?」
タビトはしばらく黙っていたが、やがて冷たい指先を握り込み、重い口を開いた。
「信じたい」
「そっか」
アキラは溜息をついた。低く唸ったかと思うと顔を上げ、悲しそうな笑みをタビトに向ける。
「アキラは?」
見つめてくる眼差しに問うも、彼は答えない。
上空の雲の動きが早いのか、ちらちらと陽が翳る。自動販売機のモーター音がはっきりと聞こえるほど、辺りは静寂に包まれていた。
「ミツキのことだけどさ」
アキラはすでにからっぽの容器を手でもてあそびながらつぶやく。
「業界最大手のストルムミュージックの親会社、ストルムグループホールディングス。もちろん知ってるだろ?彼女、そこの会長の孫なんだよ」
それを聞いたタビトは乾いた笑い声を漏らす。
「――どうりで金も時間もコネもあるわけだ」
天下のストルムグループ会長の孫娘と知れば……ライブのチケットが即日完売するなか全公演分のチケットを手に入れていたことにも、地方で連日行われた握手会やサイン会に必ず姿を見せる時間的余裕があったことにも合点がいく。スタッフが彼女を強く注意できなかったのは金を落とすファンというだけでなく、エンターテインメント業界を牛耳る会長の孫娘だということを知っていたからかもしれない。
そこまで考えて、タビトはふと眉をひそめ首を捻った。
「なんで孫だってこと知ってんの?」
訝しんで訊ねると、アキラは「ちょっと事情があってさ」と言葉を濁す。その反応にタビトは不満そうな顔を向けたがそれ以上問うことはせず、溜息を天井に放した。
飲み終わった紙パックを折り畳みながら、アキラが言う。
「今回の件……俺は、セナの言う通りミツキが関わってると思ってる」
タビトは呼吸をとめ、彼の端整な横顔を見つめた。
「この予想が間違ってなければ、カネの力で全部揉み消されるだろうね。捜査も打ち切られるんじゃない?」
「捜査まで?さすがにそれはないんじゃ……」
「あの爺さんのインタビュー読んだことないの?孫娘を溺愛してるから、あの子を守るためならいくらだってカネを積むし、なんだってやると思うよ」
警察組織とストルムが癒着しているなどとは考えたくもなかったが、一昨年の暮れ、会長の弟が起こした強制わいせつ事件が証拠不十分で不起訴に終わったのを見ると、ありえないとは言い切れない。
事件について取り上げていた週刊誌もいくつかあったが、追及の手はすぐに緩んでしまった。ストルムプロモーションの俳優である彼は今も、芸能界の重鎮として丁重に扱われており、事件の影響など微塵も感じさせない活躍ぶりを見せている。
「ユウとミツキが付き合ってるってこと、ムナカタ社長にばれるのだけは避けたかったのに。ライバル企業の孫と深い関係にあるなんて……ったく、小説じゃないんだからさあ、ほんとやめてもらいたいよ」アキラは苦渋を眉間に刻んで頭を抱える。「社長、怒るだろうなあ……」
「――ねえ……マスコミってさ、カネを積んだらほんとに黙らせられるもんなの?」
「少なくともストルムはそのやり方で穏便に済ませてると思うね」
「うちは無理?」
「たぶん無理。マスコミに対して一斉に箝口令が敷けるのなんて、ごく一部の芸能事務所だけだよ」
アキラはそうあっさりと言い放った。絶望感に目元を覆ったタビトは、溜息交じりにつぶやく。
「怒らせると怖いんだよな……社長って」
「だよね」ふふと笑って、「それにしてもまさか、ユウがミツキの手中に落ちるとは思わなかった。――社長もきっとそう言うよ」
言葉を失くしているタビトの横に座ると、アキラは話を続けた。
「ひとつ、おまえに隠してたことがあるんだけど……」
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