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第二章 果報者
終章 ★
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こうして若い頃、死神と言われた我が夫隆邦はこの世を去った。
夫はまことに死神であったのかもしれぬ。
労咳はこの身体に乗り移っていた。
一周忌の前あたりから、咳が出るようになり、熱も下がらぬようになった。
風邪かと思ったが、一周忌の法要に来た夫の友が労咳ではないかと言った。
果たして法要の数日後、熱とだるさで動けなくなってしまった。
咳が楽になると、床の中でふと思う。
恐らくこの病で己もこの世を去ることになろう。
医者は労咳はうつると言っていた。つまりこの病をうつした夫は死神ということかもしれぬ。
けれど、恨みに思う気持ちはない。
なぜなら、ずっと近くにいたからこそうつったのであろうから。
もしあの時離縁されていたならば、労咳にかかることはなかったであろう。
なれど、夫から多くのものを得ることはできなかっただろう。
三人の姫、正室の地位……。
いや、何よりも尊いものがあった。
あれは夫が亡くなる十日ほど前のことであったか。正月二日の夜、姫初めの夜だった。
夜中に咳き込んだので、半刻ほどずっと背中をさすっていたことがあった。どうにか治まり、横になった夫はふと言った。
「頼みがある」
「はい」
小水でも催したのかと思っていた。
だが、違った。
「まらをさすってくれぬか」
「まらでございますか」
もう何年も交わってはいなかった。まらに触れるのは小水の始末をする時だけであった。
「そなたの手で触れてほしい」
その時、それまでなんとなく感じていた夫の死が急に身近に感じられた。
たぶんその日が遠からず来ることに夫は気付いているのだ。
だから、そんなことを口にしたのではないか。
横になった夫の寝巻の裾を上げ、下帯を緩め、前袋からそれを出した。
あの姫初めの夜のように横たわるそれに手を触れただけで、来し方のことが思いだされた。
ゆっくりとゆっくりとさすった。
すぐに大きくなってしまわぬように。そうなったら触れられる時が短くなってしまうから。
「ああ、気持ちよい」
幸せそうな声だった。
が、その声を聞いた時、この人は幸せだったのだろうかと思った。
大名家の世継ぎに生まれ、幼い日に生まれ故郷を離れ、以来生母と顔を合わせることもなく、許婚者に死なれ、正室にしたのはさほど美しくもない女。生まれたのは女子ばかり、男子はいない。揚句は病に倒れ、後を継げずに死んでゆく。
「何を泣いておる」
しまった。まらの上に涙をこぼしてしまったらしい。
「泣いてはおりませぬ」
「泣いていい。そなたは泣いてもいいのだ。私の妻なのだから」
しばらく手を動かすことができなかった。涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「申し訳、ありません」
「申し訳ないのは、私だ。そなたを一人にしてしまうのだから」
「何も、何も、できず」
そうだ。何もしてあげることができなかった。男子を産むこともできず、病を治すこともできず。それなのに、涙だけは一人前に流しているなど、己が許せなかった。
やっと涙が止まった。顔を拭く事もせず、手を動かし始めた。今できるのはこれだけだった。
「ああ、ほんとに気持ちがよい」
夫のまらは健気にも立ち上がり、先から透き通ったものを出した。あの夜と同じだった。
さらにさすり続けた。
「あっ」
白濁がしゅっと出たが、手を汚しただけだった。懐紙を出して手を拭き、萎えたまらを拭いた。
「すまぬ」
「こんなことしかできませぬゆえ」
「こんなこととは。私は、果報者だ」
本当にそうなのかと言いたかった。気休めではないのか。
「愉しかったのだ、そなたといるのは。いろいろあったが、退屈しなかった」
「あまり話すと、御身体に障ります」
汚れたところを拭き、着衣を整えながらそう言うと、夫は笑った。小さくフフと。
「桜も象も、夫婦二人で見るのは違っていた。そなたの気持ちを知る前と同じ気持ちでは見ることができなんだ」
姫たちが大きくなると共に桜を見に行ったものだった。
象は中野で一回見たきりである。
「象を見た折は桃の花が美しうございましたね」
「そうであった」
そろそろ疲れてきたのか、返事が短くなってきた。布団をそっと足に掛けた。
「そろそろお休みを」
「かたじけない」
夫の枕元に座った。目を閉じた夫は続けた。
「そなたのおかげで、私は様々なことを知った。そなたがいなければ、私はただの顔がよいだけの男であった」
顔がよいだけの男。こんな時までも御自分のことをさようにおっしゃるとは。なんだかおかしかった。
それは己もまた同様。夫がいなければ、ただのひねくれた女だった。
夫がいるからこそ、様々なことを知ることができた。
思えば、人というのは皆聖人君子ではない。聖人君子ではない人同士が何の因果か夫婦になったりする。最初からうまくいくわけがないのだ。
それでもなんとかここまでこれたのは、一体どういうわけなのか。
己だけの力ではあるまい。だが、夫の力だけということもあるまい。
恐らく、それはまぐわいと同じなのだろう。夫と妻が互いに思いやり、力を合わせてこそ。
それに二人が悪戦苦闘しているならば、誰かが救いの手をそっと差し出してくれることもある。
そんな二人だからなんとか続いたのだろう。
互いを知り、苦楽をともに味わいながら生きてきた日々が積み重なって二人が今ここにいる。
そのことが何よりも尊く思われた。
けれど、その日々も間もなく終わろうとしていた。
眠ってしまったのかもしれないが、そっと耳元でささやいた。
「わらわこそ果報者でございます。かたじけないことにございます」
宝暦十一年五月、秀岸院こと山置田鶴子は山置家江戸中屋敷で亡くなった。享年四十一。
彼女の遺骨は翌年夫の眠る国許の菩提寺玄龍寺に葬られた。
隆邦の血を引く五人の姫はいずれも婚家で子を儲け、子々孫々栄えたということである。
完
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