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第二章 果報者
09 御褥遠慮
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子らは日ごとに成長してゆく。
世も移り変わる。
又五郎殿が祝言を挙げた延享三年(1746年)の十一月十四日、大御所様が中風でお倒れになった。元々頑健な大御所様は翌年三月には床上げされた。なれど身体の右側が不自由で言葉もはっきりと言えぬようになったとか。息子の公方様も言葉が不自由なのに、まつりごとに滞りがなかったのは、やはり優れた臣下に恵まれたということかもしれぬ。
八月には肥後の細川越中守様が板倉修理に城中の厠で人違いで斬りつけられ亡くなるという事件が起きた。城中で刃傷とは恐ろしいことじゃ。細川様はまことは城中でこときれていたが、帰宅後亡くなったということにして弟の重賢殿を末期養子として御家は断絶を免れたとか。
延享五年(寛延元年)には公方様の襲封を祝賀して朝鮮通信使が江戸に参った。わらわ達は忍んで行列を見物した。異国からの使者たちの物珍しい衣装にわらわも姫も目を見張った。
この時城中では曲馬の披露があり、若殿様は国許の殿様に代わり城中での観覧を許された。曲馬の技もさることながら、大御所様が久しぶりに姿を見せたことが話題となった。二階の上覧席まで特別に作られたなだらかな坂をゆっくりとお上りになったという。途中には滑り止めもあり、無事に大御所様は席に着かれ曲馬見物を楽しまれた。
寛延三年(1750年)。わらわは三十になった。若殿とわらわの姫初めは形だけの床入りとなった。
覚悟していたことゆえ、特に感慨はなかった。それに、身体は交えずとも若殿は口を吸い、わらわを抱き締めてくれた。
「そなたを抱けぬようになるのはつらい」
そのようなことを言われるとは思わず、わらわは若殿を見上げた。恐らく間の抜けた顔をしておったであろう。ここでわらわもつらいと言えばいいのであろうが、口から出て来たのは別の言葉だった。
「わらわの代わりはいくらでもおりましょう」
美伊の方も三十になり御褥を遠慮し、今は姫達の養育に専念している。上屋敷の奥方様からは相変わらず見目良い女子が差し向けられ、若殿と閨をともにしている。たぶんこれからはもっと増えよう。
若殿はわらわの顔を見つめた。ひどく真面目な顔だった。
「そういう意味ではない。男子を授かるために他の女子を抱かねばならぬのは正直つらいのだ。そなたに生んで欲しかった」
確かにわらわが生んだほうが面倒はない。側室の子だとわらわの養い子にしたりするのが面倒なのだ。
「わらわが生めば面倒はないからのう」
「そなたは……相変わらず」
若殿はふっとため息をついた。
「相変わらずとは何じゃ」
「……そなたと私の血を受けた息子が見たかったのだ。田鶴に似て心の広き男になったであろうから」
「心が広いか」
わらわにはわからぬ。心が広いとはいかなることか。
「そなたは我が子同様に登与や賀津を育てておる。なかなかできぬことだ」
そんなことはどこの正室でもやっておるのではないか。現に若殿も上屋敷の奥方様に育てられておる。
「女子たちにも寛大ではないか。子を産めなかった者らのことも面倒みておる」
若殿の寵愛を受けたにもかかわらず子をなせなかった女達は上屋敷に戻った者もいるが、実家に戻る者もいた。そういう者には支度金を持たせて帰した。結婚相手を探したこともある。だが、それくらい大したことではない。
「わらわは特別なことはしておらぬ」
嫁ぎ先の奥をまとめ、子を育てていくのは正室の務めである。
「そなたにとって特別なことではないかもしれぬが、皆そなたに感謝しておる」
それは表向きであろう。中にはうるさい正室であったと内心面倒に思っていた者もいるであろうよ。女子の中には何を勘違いしたのか一回寵愛を受けただけで得意げな顔になるものがおった。同僚に我が仕事を押し付けるような者には厳しいことを言ったこともある。
ここはそれを言う場ではないゆえ、わらわは黙って聞いておった。
「私には過ぎた妻だ」
それはいくらなんでも言い過ぎではないか。一度は離縁の話が出たというのに。
「おそれいります」
そう答えるしかないではないか。
「それにな、そなたは様々なことを閨で教えてくれた」
わらわの頬は我知らず赤らんでいた。
「そなたを悦ばせるのは難しかった。他の女子は、身分の違いがあるゆえ、満たされなくともそれを態度に見せなかった。声すら出さぬ者もいた。だが、そなたは違う。満たされぬ時はそれが顔や声に出る。だが、満たされた時はこの上なく幸せそうな顔であった。その顔が見たくてそなたを悦ばせるにはどうすればよいか、私もいろいろ学んだ」
なぜ今になってそんなことを仰せになるのか。わらわは腹が立った。何も知らぬわらわを若殿はじっと見ていたのだ。見ていて次はこうしようああしようと考えていたに違いない。なんという方であろうか。
が、ふと思う。美伊の方はどうであったのであろうか。あの方とも長く閨をともにしていたではないか。
とはいえ、ここで美伊の方とはなどと尋ねるのは愚の骨頂というもの。案外、同じようなことを御褥遠慮の前の美伊の方にも言っていたのかもしれぬ。いや、それどころか、他の女子の時にはわらわとの経験を踏まえて対応されたのかもしれぬ。女子たちは若殿に満足できたであろうか。
そう思うと何やらおかしくなってきた。思わずくすりと笑ってしまった。
「何がおかしいのだ」
「申し訳ありませぬ。これから遠慮をするという時になってさようなことを聞かされるとは思っておりませんでしたので」
「すまぬ」
「すまぬなどと仰せになるようなことではありませぬ。おかげさまでわらわも楽しうございました」
自分でも思いもかけぬことを口にしていた。楽しかったのだ、確かに、若殿との閨は。
「これからはそなたの心を楽しませてやりたい」
「かしこまりました。楽しみにしております」
そう言って、若殿の胸に頭をうずめた。嗅ぎ慣れた身体の匂いに包まれ、わらわはいつの間にか眠っておった。
世も移り変わる。
又五郎殿が祝言を挙げた延享三年(1746年)の十一月十四日、大御所様が中風でお倒れになった。元々頑健な大御所様は翌年三月には床上げされた。なれど身体の右側が不自由で言葉もはっきりと言えぬようになったとか。息子の公方様も言葉が不自由なのに、まつりごとに滞りがなかったのは、やはり優れた臣下に恵まれたということかもしれぬ。
八月には肥後の細川越中守様が板倉修理に城中の厠で人違いで斬りつけられ亡くなるという事件が起きた。城中で刃傷とは恐ろしいことじゃ。細川様はまことは城中でこときれていたが、帰宅後亡くなったということにして弟の重賢殿を末期養子として御家は断絶を免れたとか。
延享五年(寛延元年)には公方様の襲封を祝賀して朝鮮通信使が江戸に参った。わらわ達は忍んで行列を見物した。異国からの使者たちの物珍しい衣装にわらわも姫も目を見張った。
この時城中では曲馬の披露があり、若殿様は国許の殿様に代わり城中での観覧を許された。曲馬の技もさることながら、大御所様が久しぶりに姿を見せたことが話題となった。二階の上覧席まで特別に作られたなだらかな坂をゆっくりとお上りになったという。途中には滑り止めもあり、無事に大御所様は席に着かれ曲馬見物を楽しまれた。
寛延三年(1750年)。わらわは三十になった。若殿とわらわの姫初めは形だけの床入りとなった。
覚悟していたことゆえ、特に感慨はなかった。それに、身体は交えずとも若殿は口を吸い、わらわを抱き締めてくれた。
「そなたを抱けぬようになるのはつらい」
そのようなことを言われるとは思わず、わらわは若殿を見上げた。恐らく間の抜けた顔をしておったであろう。ここでわらわもつらいと言えばいいのであろうが、口から出て来たのは別の言葉だった。
「わらわの代わりはいくらでもおりましょう」
美伊の方も三十になり御褥を遠慮し、今は姫達の養育に専念している。上屋敷の奥方様からは相変わらず見目良い女子が差し向けられ、若殿と閨をともにしている。たぶんこれからはもっと増えよう。
若殿はわらわの顔を見つめた。ひどく真面目な顔だった。
「そういう意味ではない。男子を授かるために他の女子を抱かねばならぬのは正直つらいのだ。そなたに生んで欲しかった」
確かにわらわが生んだほうが面倒はない。側室の子だとわらわの養い子にしたりするのが面倒なのだ。
「わらわが生めば面倒はないからのう」
「そなたは……相変わらず」
若殿はふっとため息をついた。
「相変わらずとは何じゃ」
「……そなたと私の血を受けた息子が見たかったのだ。田鶴に似て心の広き男になったであろうから」
「心が広いか」
わらわにはわからぬ。心が広いとはいかなることか。
「そなたは我が子同様に登与や賀津を育てておる。なかなかできぬことだ」
そんなことはどこの正室でもやっておるのではないか。現に若殿も上屋敷の奥方様に育てられておる。
「女子たちにも寛大ではないか。子を産めなかった者らのことも面倒みておる」
若殿の寵愛を受けたにもかかわらず子をなせなかった女達は上屋敷に戻った者もいるが、実家に戻る者もいた。そういう者には支度金を持たせて帰した。結婚相手を探したこともある。だが、それくらい大したことではない。
「わらわは特別なことはしておらぬ」
嫁ぎ先の奥をまとめ、子を育てていくのは正室の務めである。
「そなたにとって特別なことではないかもしれぬが、皆そなたに感謝しておる」
それは表向きであろう。中にはうるさい正室であったと内心面倒に思っていた者もいるであろうよ。女子の中には何を勘違いしたのか一回寵愛を受けただけで得意げな顔になるものがおった。同僚に我が仕事を押し付けるような者には厳しいことを言ったこともある。
ここはそれを言う場ではないゆえ、わらわは黙って聞いておった。
「私には過ぎた妻だ」
それはいくらなんでも言い過ぎではないか。一度は離縁の話が出たというのに。
「おそれいります」
そう答えるしかないではないか。
「それにな、そなたは様々なことを閨で教えてくれた」
わらわの頬は我知らず赤らんでいた。
「そなたを悦ばせるのは難しかった。他の女子は、身分の違いがあるゆえ、満たされなくともそれを態度に見せなかった。声すら出さぬ者もいた。だが、そなたは違う。満たされぬ時はそれが顔や声に出る。だが、満たされた時はこの上なく幸せそうな顔であった。その顔が見たくてそなたを悦ばせるにはどうすればよいか、私もいろいろ学んだ」
なぜ今になってそんなことを仰せになるのか。わらわは腹が立った。何も知らぬわらわを若殿はじっと見ていたのだ。見ていて次はこうしようああしようと考えていたに違いない。なんという方であろうか。
が、ふと思う。美伊の方はどうであったのであろうか。あの方とも長く閨をともにしていたではないか。
とはいえ、ここで美伊の方とはなどと尋ねるのは愚の骨頂というもの。案外、同じようなことを御褥遠慮の前の美伊の方にも言っていたのかもしれぬ。いや、それどころか、他の女子の時にはわらわとの経験を踏まえて対応されたのかもしれぬ。女子たちは若殿に満足できたであろうか。
そう思うと何やらおかしくなってきた。思わずくすりと笑ってしまった。
「何がおかしいのだ」
「申し訳ありませぬ。これから遠慮をするという時になってさようなことを聞かされるとは思っておりませんでしたので」
「すまぬ」
「すまぬなどと仰せになるようなことではありませぬ。おかげさまでわらわも楽しうございました」
自分でも思いもかけぬことを口にしていた。楽しかったのだ、確かに、若殿との閨は。
「これからはそなたの心を楽しませてやりたい」
「かしこまりました。楽しみにしております」
そう言って、若殿の胸に頭をうずめた。嗅ぎ慣れた身体の匂いに包まれ、わらわはいつの間にか眠っておった。
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